山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

さざれ石のおもひは見えぬ中河に‥‥

2006-06-30 22:39:42 | 文化・芸術
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-表象の森- 金子光晴をいま一度

 金子光晴の「こがね虫」や「鮫」などの初期詩編はともかく、その晩年についてはほとんど知らないにひとしい私だが、光晴忌に因んでネットに散見できるものをいくつか読みかじってみたところ、もともと初期詩編にかなりの衝撃を受けた身であれば、大いに惹きつけられ心が波立ったものである。彼が晩年に著わした「絶望の精神史」や自伝とされる「詩人」、あるいは詩集としての「人間の悲劇」など、近く読んでみたいと思う。さらには妻・森三千代との波乱に満ちた二人三脚ぶりにも触れてみたい。

 強靱な反骨・抵抗の精神と独特のダンディズムに生きた1895(明治28)年生れの金子光晴は、明治・大正・昭和と異なる三代を、まさに固有の魂として放浪しきった、とみえる。
1975(昭和50)年の今日、未刊詩篇「六道」を絶筆として、持病の気管支喘息による急性心不全で死に至る。満80歳だった。
奇しくも2年後の6月29日、たった一日違いで、妻・森三千代も76歳でこの世を去っている。
彼が1937(昭和12)年に発表した詩「洗面器」は、戦後、1949(昭和24)年刊行の「女たちのエレジー」に所収されるが、いくつか私の記憶にも残る詩編の一つだ。


「洗面器」
    僕は長年のあひだ、洗面器といふうつはは
    僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐ
    た。
    ところが、爪哇人たちは、それに羊や魚や
    鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたへて
    花咲く合歓木の木陰でお客を待つてゐるし
    その同じ洗面器にまたがつて広東の女たちは
    嫖客の目の前で不浄をきよめしやぼりしやぼりとさびしい音をた
    てて尿をする。
       ―― ※ 爪哇人(ジャワ人)

 
  洗面器のなかの
  さびしい音よ。


  くれていく岬(タンジョン)の
  雨の碇泊(とまり)。


  ゆれて、
  傾いて、
  疲れたこころに
  いつまでもはなれぬひびきよ。


  人の生つづくかぎり。
  耳よ。おぬしは聴くべし。


  洗面器のなかの
  音のさびしさを。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-31>
 さざれ石のおもひは見えぬ中河におのれうち出て行く螢かな  宗祇

宗祇集、夏、河螢といふことを。
邦雄曰く、さすが連歌の名手、水中の螢に「おもひ」の「火」を見、「あくがれ出づる魂」を言外に潜ませて、趣向を盡した古歌の螢とは、別種の世界を招いた。「いたづらに身を焚きすつる虫よりも燃えてつれなき影ぞはかなき」も「螢」題、一首の中に螢を入れず、これを暗示するのも作者に相応しい技巧、と。


 樗咲く雲ひとむらの消えしより紫野ゆく風ぞ色濃き  正徹

月草、杜(モリ)の樗(アフチ)。
邦雄曰く、所謂、本歌取りとは趣を異にするが、この歌に匂う「紫」は、古今・雑上の詠み人知らず「紫の一本(ヒトモト)ゆえに武蔵野の草は皆がらあはれとぞ見る」を思い出させる。正徹の紫は樗の花を幻想の源として、風の吹くままに、瀰漫する色と匂い。しかも「花」も「野」も、それ自体は表に出ず、「雲」と「風」が仲立ちをなすことの巧妙さは無類である、と。


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飛ぶ螢まことの恋にあらねども‥‥

2006-06-29 23:48:06 | 文化・芸術
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-表象の森- 百万遍

 今は昔のこと、京都は烏丸今出川の同志社へ通い始めた頃、
左京区の京都大学のそば、南北に走る東大路通りと東西の今出川通りが交差するところ、此処が百万遍と呼ばれるのに、どんな謂れがあることかしばらくは見当もつかなかったものだが、融通念仏における百万遍念仏に由来すると知って、その疑問符が氷解したのは、はていつの頃だったか。

 抑も、百万遍念仏のはじまりは、中国の浄土教、道綽に発するとされる。阿弥陀経などをもとに7日の間、百万回唱えれば往生決定すると唱え実修されたというから、この時点では自力行の色が濃い。
日本では平安時代も終り近くの永久5(1117)年、融通念仏宗(大念仏宗とも)の開祖良忍が、自他の念仏が融通して功徳あることを説いてより、他力易行の側面が強まって、百万遍念仏が下層社会にもひろまっていくことになる。
10人の者が、1080粒でなる大数珠を、車座となって繰り廻しながら念仏を100回唱えれば、合わせて百万遍の念仏となる訳だから、後代、民間にひろく流布していくのも肯けるというもの。
江戸時代ともなると、半僧半俗の聖であった円空や木喰が各地を放浪し、木仏を刻んでは堂舎に打捨てるが如く置いてゆくが、そこでは折々に村の民たちが集い、その粗末で素朴な木仏を拝みつつ、大数珠を繰り廻しながら百万遍の念仏を唱えたことだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-30>
 紫陽花の八重咲く如く彌(ヤ)つ代にをいませわが背子見つつ偲はむ
                                     橘諸兄

万葉集、巻二十。
天武13(684)年-天平勝宝9(757)年、敏達天皇の裔、美努王の子、母は県犬養橘宿禰三千代、子に奈良麻呂。藤原広嗣の乱以後の聖武帝期の左大臣。万葉集に7首を残す。
邦雄曰く、右大弁丹比国人真人の宅に、諸兄が招かれての宴の席上の贈答歌で、「左大臣、あぢさひの花に寄せて詠める」とある。「わが背子」は主人真人。紫陽花は四弁花の一重だが、八重と強調したのだろう。幾代も幾代もの意の「彌つ代」の序詞的修飾としては相応しい、と。

 飛ぶ螢まことの恋にあらねども光ゆゆしき夕闇の空  馬内侍

馬内侍集。
邦雄曰く、高貴の男性から、一度だけ手紙を貰ったが、その後訪れもなく過ぎ、五月の末頃にこの歌を贈ったとの、長い詞書が家集には見える。「ゆゆしき」には、眼を瞠りつつ、秘かに戦慄している作者の姿が顕ってくる。第二・三句の恨みが、この螢の青白い光を生んだように見える、と。


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晴るる夜の星か川べの螢かも‥‥

2006-06-28 17:50:54 | 文化・芸術
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-表象の森- 秋成と芙美子

 昨日27日は秋成忌、「雨月物語」などの上田秋成。
今日28日は芙美子忌、「放浪記」の林芙美子だ。


 上田秋成は、享保19(1734)年-文化6(1809)年、大阪・堂島の人とされるが、事実は遊郭に私生児として生まれたという。奇特にも4歳にして紙油商・上田茂助の養子に迎えられ、なに不自由なく育ったらしいが、好事魔多し、5歳のとき疱瘡に罹り、一命を取り留めるものの両手指に後遺症が残った、と。
6歳で養母も亡くしているというから、富裕な商家に育ったとはいえ、ことほど肉親や家族には縁の薄い星の下にあった。
秋成の「雨月物語」については、松岡正剛の千夜千冊「雨月物語」に詳しく、タネとなった中国の白話世界や背景に「水滸伝」の面影をみるなど、各説話を読み解く手際も見事なもので、とてもおもしろく読めるが、その長文の書き出しを、「秋成には、キタの上方気質と、浮浪子-のらものの血が脈打っていた」と始めるあたり心憎いばかりである。
「浮浪子-のらもの」とは一言でいえば遊び人ということだが、さしずめインテリ・アウトサイダーとでもしたほうが近いような気がする。
若い頃は、俳諧にも狂ったが、懐徳堂に通って五井蘭州に儒学や国学を学んでもいる。後には賀茂真淵門下の加藤宇万伎にも師事、同時代の本居宣長の著書に没頭するも、やがて宣長に激しく論争を挑むことにもなる。
「狂蕩の秋成」との謂いがある。「人皆縦に行けば、余独り横に行くこと蟹の如し。故に無腸という。」とこれは晩年の秋成の言葉だが、反逆精神に溢れた狂者の意識とでもいうか、浮浪子-秋成の生き様をよく評したものといえよう。


 林芙美子は、明治36(1903)年-昭和26(1951)年、山口県下関の出身とされるが、流浪する行商の子として生まれた彼女の出生地は、鹿児島県の古里温泉または福岡県北九州市と両説あって判然としない。
「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。」と言った芙美子だが、出生地も判然とせず、幼い頃は行商の両親に牽かれ各地を転々としたことを思えば、かように心の奥深く刻印されるのも無理からぬものがある。
両親は彼女が12歳になってやっと広島県尾道に定住した。その年はじめて小学校へ編入された彼女はすぐにも文才を発揮するようになったという。恩師の強い薦めで尾道市立高等女学校に進学、卒業は大正11(1922)年だが、この女学校時代に、詩や短歌を地方新聞に盛んに投稿しており、また絵画にもすぐれた才を発揮した。
幼い頃の放浪の数々は彼女に積極果敢な行動派の気質をもたらしたか、この時期、文学青年との激しい恋にも落ちている。女学校を卒業すると東京の大学に通うその彼を追って上京したのだが、やがて破局を迎える。この恋の破局が、彼女の宿命的放浪の再スタートとなったのだろう。当初は詩人としてなにがしか注目された彼女だったが、昭和5(1930)年に至って発表された「放浪記」が記録的なベストセラーとなる。時代の寵児、女流作家林芙美子の誕生である。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-29>
 晴るる夜の星か川べの螢かもわが住むかたに海人の焚く火か
                                    在原業平


新古今集、雑中、題知らず。
邦雄曰く、伊勢物語第87段、昔、男が布引の滝を見に行く挿話にあらわれる歌。第二句「星か」で切れて句跨りを生みつつ三句切れとなるあたり、例外的な文体で、歯切れの良い調べをなし、光の点綴をパノラマの如く描き出す趣向と表裏一体。「わが住むかた」は芦屋の里。漁り火と承知しながら、星・螢を煌めかすあたりに才気が横溢する、と。


 風吹けば蓮の浮き葉に玉こえて涼しくなりぬ蜩(ヒグラシ)の声
                                     源俊頼


金葉集、夏、水風晩涼といへることを詠める。
邦雄曰く、涼風にさざなみ立つ水は散り砕けて玉となり、蓮葉を飛び越える。その風はまた此方にも吹きおよび、折しも爽やかな蜩の声。納涼の歌としてまことに鮮明、作者の代表歌の一つとされる。潔い調べは当時の新風として耳をそばたたせたことだろう。浮き葉「を」ではなく、「に」であるところもまた微妙、と。


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移り香の身にしぼむばかりちぎるとて‥‥

2006-06-27 14:13:36 | 文化・芸術
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-表象の森- 引き続き閑話休題、22625日

 数日前の夕刻のこと。私がすっかり失念していたものだからだろうが、同居の連れ合いが「今日は私の誕生日でした。」と藪から棒に声高に宣うたものだから、そばに居た幼な児はビックリしたように母親をふりかえって一瞬ポカンとしていた。これには些か私もたじろぎつつ、「そうだ、そうだった、悪い、悪い」と忘れていたのを謝って、幼な児と一緒になり「Happy Birthday」を一節唄ってさしあげて、事なき?を得る。

 ところで、「こよみのページ」に日付の電卓なるコーナーがあったので、暇つぶしの一興に計算してみたところ、70(S42)年生れの彼女は、本日でもって延べ13152日生きたことになる。まだ4歳の幼な児はわずか1716日だが、44(S19)年生れの私はといえばなんと22625日を数える。
歩くにせよ、電車やクルマに乗るにせよ、仮に私が一日平均20㎞の移動を毎日してきたとすると、これまでに延べ452,500㎞の移動距離となる。赤道付近の円周は約40,077㎞だそうだから、この数字は地球を約11.3周したことになる。地球から月までの中心距離は384,400㎞だから、私の場合この計算でいくと、すでに月にたどりついて帰り道の途上にあることになるが、残りの寿命を考えると、どうみても無事に地球に帰り着けるとは思えない。


 と、まあ計算上はこうなるが、あまりピンとこないことではある。
そろそろ62年になるという自分自身の来し方を、おしなべて22625日としてみたところで、その数字の多量さにある種の感慨は湧くものの、22625日という数値が惹起するものは却って平々坦々としてどうにも粒だってくるものがない。年々歳々、62年として振り返ってこそ、そこに節目々々もあきらかに想起され、自身の有為転変、紆余曲折の像が結ばれもしてくるというものである。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-28>
 樗(アフチ)咲くそともの木陰露落ちて五月雨はるる風わたるなり
                                    藤原忠良


新古今集、夏、百首奉りし時。
長寛2(1164)年-嘉禄元(1225)年、藤原五摂家筆頭近衛家の祖、六条摂政基実の二男。九条兼実や慈円の甥にあたる。後鳥羽院千五百番歌合では判者の一人。千載集初出、勅撰入集69首。
樗(アフチ)-センダン(栴檀)の古名、花の色が藤色にちかく亜藤(アフヂ)が転訛したかとされる。
邦雄曰く、建仁元(1201)年2月の老若五十首歌合中の作で、詞書は誤記であろう。忠良最良の作であり、新古今・夏の中でも際立つ秀歌。樗の薄紫の花の粒々が、雨霽れてしばしきらきらと息づいている。作者は家の中から眼を細めて眺める。単純な叙景歌だが、心・詞共に、爽やかに清々しく、味わいは盡きない、と。


 移り香の身にしぼむばかりちぎるとて扇の風のゆくえたづねむ
                                    藤原定家


拾遺愚草、員外、一句百首、夏二十首。
邦雄曰く、建久元(1190)年6月の作、満28歳。夏に入れてはいるが清艶無比の恋歌であり、殊に嗅覚をメディアとして官能の世界を描いたところ、名手たる所以であろう。上句から下句への軽やかに微妙な移り方も、感嘆に値する。薫香に混じって、二人の体臭まで匂ってくるようだ、と。


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これを見よ上はつれなき夏萩の‥‥

2006-06-26 12:09:26 | 文化・芸術
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-表象の森- 閑話休題、6.26?

  「6.26」を「ろてんふろ」と読むそうな。故に本日は「露天風呂の日」だという。
岡山県湯原温泉の若者たちのアイデアで昭和62年から始められたという町づくり事業である。
語呂合わせで記念日を制定し、街おこし事業の一環として取り組むこういった事業は、全国津々浦々、各地に点在し、数え上げればきりがないほどにあるのだろうが、微笑ましいといえば微笑ましくもあり、たしかに心和ませてくれる一面があるし、各々取り組んでいる当事者たちにすればそれこそ大真面目なイベントであり年に一度のお祭りにちがいない。


 そういえば「ふるさと創世」事業と称し、全国各市町村に1億円をバラマキ給うた宰相がいたが、あれは昭和63(1988)年だったから、湯原温泉の露天風呂の日制定はこれに1年先行していたことになるが、ともあれ80年代後半から90年代、地域発信の街づくりが主題化して全国に波及していったものである。その功奏して、ユニークで個性的な街への変貌が、街ぐるみ観光名所化したような例にも事欠かない。

 湯原温泉は全国の露天風呂番付でめでたくも名誉ある西の横綱とされているそうだが、もう何年前になるだろうか、松江からの帰路だったかあるいは蒜山に遊んだ帰りだったかに立ち寄ったことがある。湯原ダムの聳え立つコンクリート壁に隔てられた河床の大きな露天風呂にひととき身体を沈め、あたりの風情を堪能させてもらったのが記憶にあたらしいが、今日、露天風呂の日は、町を挙げてのさまざまなイベントに人出も多くさぞ賑わっていることだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-27>
 昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木(ネム)の花君のみ見めや戯奴(ワケ)さへに見よ                                紀小鹿

万葉集、巻八、春の相聞、大伴宿禰家持に贈る歌二首。
戯奴(ワケ)-上代語、1.自称、わたし。2.対称、おまえ。
邦雄曰く、紀小鹿は安貴王の妻で、別れて後家持に近づいたともいわれる。清純無比な合歓に自分をなぞらえ、夜の寂しさを暗示し、しかもやや諧謔を交える手法は注目すべき。家持の返歌は「吾妹子が形見の合歓木は花のみに咲きてけだしく実にならじかも」とあるが、これは文飾で、日照・通風などが好条件なら、十に一つは結実するものだ、と。


 これを見よ上はつれなき夏萩の下はこくこそ思ひ乱るれ  清少納言

清少納言集、水無月ばかりに萩の青き下葉のたわみたるを折りて。
生没年不詳。村上天皇の康保年間に生れ、後一条天皇の万寿年間に歿したとされる。清原元輔の女、深養父の曾孫。結婚した後一条天皇の中宮定子に仕えた。枕草子。後拾遺集以下に15首。小倉百人一首に「夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」
邦雄曰く、上は=表面は、下は=心の中では、この対照を上葉・下葉に懸けて、劇しい愛を告げたのだろう。続千載・恋一には「夏草も下はかくこそ」として入選。命令形四句切れの、理路はきわやかに、言い立てるような調子は、才女の性を如実に見せ、恋歌にしては異風で故に面白い、と。


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