-表象の森-「中国書史」跋文より-承前
編集者八木俊樹による幾つかの帯文
・書の回遊魚たちに対して-
書と道と生の哲学-宗教-を巡る凡ての言説は見え透いた意匠に過ぎない。文字の整調と階調とあるいは変形美-デフォルマシオン-を競うのは、実用性から見ても歴史的に見ても、日常性の誤りのない算術である。ただ、教育家と僧侶とこの世の美の請負人-アーティスト-が、芸術としての書の独立や自立を強いられたとき、文字や言葉や書する劇-ドラマ-の解析学や微積分学を推進めて考える労を取ることなく、文字の美的工夫や造形美の表面-うわべ-と取引して、己の地位や商売や趣味を保守せんがために美に雄弁たらんと、修練や仏教的呪文や、書は散也懐抱を散ずる也の曼荼羅を唱え、また心的に行動的に形容し死化粧したに過ぎない。
・文字と言葉と意識-社会-について-
一般的に言えば、文字は外化された言葉であり、言葉は外化された意識である。逆に言えば、文字は言葉という星雲の、言葉は意識宇宙-社会-の原子核である。この順逆の、陰陽の構造を明らかにしたものは誰もいない。言葉の肉体-陰-を書する逆説-パラドクス-、書の本質を問うことによって、文字と言葉と意識-社会-の構造をもはじめて露わにすることができるに違いない。
・書する人々に-
書とは如何なる芸術-アルス-か-。ここに、書と書する自己の半ば無意識のうちに緘黙していた美を解剖して、書の理論-テオリア-と書的行為-プラクシス-と技法-テクネーの三位一体の、凡ての逆説にみちた脈絡と必然性が微と細の極限まで辿られ視覚化された。ここに、書の美は書家たちの曖昧に装飾語たることを脱し、、書の現代に立ち会うことができる。
・異境の職人たちへ-
書とは言語-詩-の逆説であり肉体であり、社会への距離の函数の、陰画-ネガ-からの対照法である。文明に対する根源的な懐疑とその一般化が現代であるとすれば、書と書的思考はそれ故、言語という陰画-ネガ-世界をも蝕筆し相対化するものである。本書は、蝕筆によって現代を計量する異彩の文明論であり、反時代的考察でもある。
―山頭火の一句― 行乞記再び -19-
1月10日、晴、2里、散策、神湊、隣船寺。
-記載なし-
1月11日、晴、歩いたり乗つたりして10里、志免、富好庵。
-記載なし-
1月12日、雨后晴れ、足と車で10余里、姪ノ浜、熊本屋
此三日間の記事は別に書く。
※表題句の外、2句を記す
山頭火は、10日には俊和尚が寺に帰ってくる、と和尚の妻から聞いていたのだろう。この日、隣船寺へと戻って俊和尚と再会をはたし、うちとけた嬉しい時間を過ごしたとみえる。
俊和尚は田代宗俊、彼は俳人としての山頭火を高く買っていたらしい。この邂逅の翌々年、昭和9年には、隣船寺境内に「松はみな枝垂れて南無観世音」の句碑を建立している。もちろん山頭火生前のうちに建立された句碑は、この1基のみである。斯様な二人のあいだであってみれば、俊和尚と別れたあとも山頭火の心は、あれこれと想いは涌きたちよほど昂ぶっていたのではないか。ましてや二人の邂逅の直前には、「鉄鉢の中へも霰」の自信句も得ている。10、11日と記載なく、12日には「別に書く」としたは、心の昂揚ぶりをあらわす証左だろう。
現在の宗像市神湊の隣船寺は、禅宗大徳寺派、海岸線より200mも離れていない海辺の寺である。鳥の囀りと海潮音のみが聴こえる静かな境内の梵鐘の傍らにひっそりと立つ句碑は、石に刻まれた文字も些か判じがたいほどに風化している。
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