山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

茶の買置をさげて売出す

2009-06-30 23:49:28 | 文化・芸術
Santouka081130026


Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」


―表象の森― 読書三昧にはとおく‥

60年代、70年代ならいざ知らず、80年代、90年代以降の現代美術の動向にはまったく不案内の身であれば、23人もの現代作家たちへのインタビューと精神科医独自の作家論が響きあう、斎藤環の「アーティストは境界線上で踊る」は、現在進行形のさまざまなアートシーンに通暁するという意味ばかりではなく、ずいぶんと刺激的な読書であった。
その名も初めて耳にした精神科医西丸四方の自叙記とも思われる「彷徨期」を求めたのも、本書の草間彌生インタビューに紹介された話題からだった。

―今月の購入本―
・西丸四方「彷徨記」批評社
信州は東京から近いようで、最も遠い所にある、と語る精神科医が、信州松本にあってその生涯を、狂気の分析と治療に一切の情熱を傾けた、苦悶の彷徨記。-中古書-

・P.シャモワジー・R.コンフィアン「クレオールとは何か」平凡社ライブラリー
歴史に蹂躙され、歴史に忘れられた、地球上の小さな片隅、カリブ海地域で、300年ばかりのあいだに堆積し、だれにも属さない経験に耕され、地と汗と涙の滲みた大地から、やがて多彩な言葉の花が咲き匂う‥-裏表紙コピーより-。

・白川静「文字遊心」平凡社ライブラリー
中国人のこころの諸相を捉えた「狂字論」「真字論」、古代人の生活誌ともいうべき「火と水の民俗学」、あるいは「漢字古訓抄」や漢字の諸問題など、広大にして豊饒な漢字の世界に遊びつつ、中国の歴史の深処にせまる。

・白川静「漢字百話」中公文庫
太古の呪術や生活の姿の伝える、漢字の世界-厖大な資料考証によって、文字の原始の姿を確かめ、原義を鮮やかに浮かび上がらせる、10章各10話、100話の短章集。

・上野和男「縄文人の能舞台」本の森
考古学と民俗学の領野から、縄文期以来、この国の無意識を連綿と貫く宗教の本質を、「付会・習合・形の呪術」の三つの要素を媒介に解読を試みる。

・楠見朋彦「塚本邦雄の青春」ウェッジ文庫
「水葬物語」で鮮烈なデビューを果たした塚本邦雄の、謎に包まれた青年期あるいは習作期、知られざるその素顔に迫る。

他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN 」6月号、山田芳裕「へうげもの 5-8巻」講談社

―図書館からの借本―
・丸谷才一「後鳥羽院」筑摩書房
後鳥羽院は最高の天皇歌人で、その和歌は藤原定家の上をゆく、と称揚する著者の院を中心に据えた文学史論。73年初版の増補版。

・斎藤環「アーティストは境界線上で踊る」みすず書房
草間彌生・できやよいから、岡崎乾二郎にいたる現代美術の作家たち、現代日本のartist23人のインタビューと著者による作家論を並置した批評集。現代美術論として以上に、千差万別の個性が煌めくartistたちの肉声の記録として読み応えがある。

・鈴木博之他「奇想遺産Ⅱ-世界のとんでも建築物語」新潮社
世界中の奇妙な建築、可笑しな家・不思議な家を網羅した奇想遺産シリーズのⅡ、朝日新聞日曜版の特集企画もの。

・j.ホール「西洋美術解読辞典」河出書房新社
キリスト教や古典文学など西洋美術に特有の主題・象徴・人物・動植物・観念・持物などについて、図像学の成果に基づきながら解説した、イメージを読むための美術基礎事典

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.13-
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.3




<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>


「空豆の巻」-14

  鯲汁わかい者よりよくなりて  

   茶の買置をさげて売出す  孤屋

次男曰く、打越の人茶舗のあるじらしき人に奪った付で、三句同一人物ではないが、景の句と違い人事句を渡りに使うと、はこびはとかく同じ一人の行為なり感想の付伸しと読まれやすい。それでは連句にならぬことぐらい、承知して作っている筈である。

「ながれたあとを見に行」と「さげて売出す」も、同巣と読まれかねない。捌きの考え方のむつかしいところだが、「家のながれた」は天災、「買置をさげて」は人情、と考えればきわどいところで縺れを避けた工夫も納得できる。どじょう汁で精力がついたら茶趣味がしらけた、という老人心理は納得がゆく。

新茶・古茶という季はあるが-初兼三夏-、茶、茶の買置は季語ではない。ないが、三句自ずと梅雨期頃と知られる遣方で、若返ったから古茶の大売出をしよう、と句は読んでよい。むろん新茶が含みだ、と。


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波の音たえずしてふる郷遠し

2009-06-29 23:55:16 | 文化・芸術
Santouka081130021

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、9月30日の稿に

9月30日、秋晴申分なし、折生迫、角屋
いよいよ出立した、市街を後にして田園に踏み入つて、何となくホツとした気持になる、山が水が、そして友が私を慰めいたはり救ひ助けてくれる。-略-

今日、求めた草鞋は-此辺にはあまり草鞋を売つていない-よかつた、草鞋がしつかりと足についた気分は、私のやうな旅人のみが知る嬉しさである、芭蕉は旅の願ひとしてよい宿とよい草鞋とをあげた、それは今も昔も変らない、心も軽く身も軽く歩いて、心おきのない、情のあたたかい宿におちついた旅人はほんとうに幸福である。-略-

夜おそくなつて、国政調査員がやつてきて、いろいろ訪ねた、先回の国勢調査は味取でうけた、次回の時には何処で受けるか、或は墓の下か、いや墓なぞは建ててくれる人もあるまいし、建てて貰ひたい望みもないから、野末の土くれとの一片となつてしまつてゐるだだらうか、いやいやまだまだ業が尽きないらしいから、どこかでやつぱり思ひ悩んでゐるだらう。-略-

青島即事と前書して「白浪おしよせてくる虫の声」他5句記している。

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.12-

林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.2



―表象の森― 「群島-世界論」-18-

こころみに「幸福」という言葉を英訳してみよう。おそらく誰もがごく自然に<happiness>とするだろう。それは私たちのときに荒れ果ててもいる日常の、ささやかな憧れの表明でもある。だがもし<bliss>と答える者がいれば、その人はずっと詩人に近いところにいる。happinessの幸は悲しくも軽く通俗的だが、blissの幸はたとえ一瞬であろうとも天上的で陶酔的な得難い至福の謂いである。happinessが求められるものであるとすれば、blissは思いがけぬ不意の到来である。他にもgood, welfare, well-beingといったそれぞれに文脈やニュアンスを異にする訳語が容易に浮かんでくる。「幸福」という言葉のこうした多様な変異が示すように、幸福は単一の感情へと収斂しえない、それ自体群島のような情動の揺れを抱く感情複合体である。幸福という真実に行き着く経路もまた、近代の歴史や宗教・信仰の道筋、さらには日常生活の刹那に訪れる得心のか細い稜線といった無数のルートを含みこんでいる。群島の想像力は、こうした感情語彙を多様な可能性に拓いてゆくときにも、私たちの内部でたしかにはたらいている。

詩は大陸から孤絶した島である。わが群島のさまざまな方言-Dialect-は、私にとって彫像の額の上の雨滴のように新鮮に思われる。それは威圧的な大理石の古典的な奮発による汗ではなく、雨と塩という清冽な要素の凝縮そのものである。-D.ウォルコット「The Antilles: Fragments of Epic Memory」
 -今福龍太「群島-世界論」/18.ハヌマーンの地図/より


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鯲汁わかい者よりよくなりて

2009-06-28 23:58:31 | 文化・芸術
Santouka081130064

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―表象の森― した、した、した‥

彼の人の眠りは、徐-シヅ-かに覚めていった。
真っ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んでいるなかに、眼のあいてくるのを覚えたのである。
した、した、した‥、耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。ただ、凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫とが離れてくる。

いわずと知れた折口信夫の「死者の書」、その冒頭部分である。初出は1939-昭和14-年、当時の総合誌「日本評論」だというから、もう70年が経つ。

私が本書に想を得て、「大津皇子―百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや」あるいは「大津皇子-鎮魂と飛翔」と二度にわたって、劇的舞踊として舞台化したのは’82年の秋、そして翌年の春であったから、四半世紀あまりを経て、あらためて本格的に挑んでみたいものと、まるで胸中深く眠っていたかのごとき熾火が、このところその姿を顕しはじめている感があるのだ。

このたびのDANCE CAFÉ「出遊-天河織女篇-」では、いわばその端緒をひらくそのまた掛かりを、といった態ほどにしかならないだろうが、まずはひと振り試しておこうと思っている。乞ご期待、というには烏滸がましいに過ぎようが、まあ観てやって戴ければと、これは前口上。

―四方のたより― 今日のYou Tube

品はかわって今日からは「山頭火」シリーズ、昨秋の、九条MULASIAでの舞台記録から。
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.1



<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「空豆の巻」-13

   家のながれたあとを見に行  
  鯲汁わかい者よりよくなりて  芭蕉

次男曰く、早起老人の弥次馬根性と見定め、行ってみたら家は流されて代りに鯲-ドジョウ-がたくさん取れたと付けている。むろん、前句の起情を受けて、きれいさっぱり流された後に始まるのは精気を養う新しい工夫だ、という観相の含みがある。浮舟入水も当世風にもじれば、ここまで滑稽咄に持込める。薫=俳諧師が考えついた宇治十帖余聞だ。

どじょう汁のことは「守貞漫稿」-嘉永年間成-に詳しく誌し、文化・文政頃から三都で大いに嗜好されたらしい。季語としては、青藍の「栞草」にもまだ見えず雑の詞だが-今は夏季-、出水を五月川と見究めた付だろう。因みに「夢の浮橋」も蛍の頃であるから辻褄が合う。

「よくなりて」とは文字とおりとも読めぬことはないが、「わかい者より」とあるからここは、飲食が進む意味だろう。もともと酒について用いられる上方ことばで、酒のなる口-なる、なる口だけでも遣う-といえば上戸とか酒の手があがることである。「よくたべて」でもよいところを「よくなりて」としたのは、「炭俵」時期特有の俗語の取入れには違いないが、「なる」とは酒食に限らず色恋に用いてもよいわけで、前田勇「近世上方語辞典」に「おれを見ると附けつ廻しするに依て、こいつ成る口ぢやと思うて」という用例が挙げている、と。


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お茶をくださる真黒な手で

2009-06-27 21:51:43 | 文化・芸術
080209106

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

-山頭火の一句- 昭和5年の行乞記、9月30日の稿に

9月29日、晴、宿は同前-宮崎市.京屋-
気持ちよく起きて障子を開けると、今、太陽の昇るところである、文字通りに「日と共に起き」たのである、或は雨かと気遣つてゐたのに、まことに秋空一碧、身心のすがすかしさは何ともいへない、食後ゆつくりして9時から3時まで遊楽地を行乞、明日はいよいよ都会を去つて山水の間に入らふと思ふ、知人俳友にハガキを書く。-略-

両手が急に黒くなつた、毎日鉄鉢をささげてゐるので、秋日に焼けたのである、流浪者の全身、特に顔面は誰でも日に焼けて黒い、日に焼けると同時に、世間の風に焼けるのである、黒いのはよい、濁つてはかなはない。
行乞中、しばしば自分は供養をうけるに値しないことを感ぜざるをえない場合がある、昨日も今日もあつた、早く通り過ぎるやうにする、貧しい家から全財産の何分の一かと思はれるほど米を与へられるとき、或はなるたけ立たないやうにする仕事場などで、主人がわざわざ働く手を休ませて蟇口を探つて銅貨の一二枚を鉄鉢に投げ入れてくれるとき。‥ -略-

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.9-
「Reding –赤する-」終幕のScene.7



―表象の森― 「群島-世界論」-17-

サンタ・マリア-Santa Maria-、この地名をもつ土地だけを世界地図の上で点で示した地図があったとしよう。白地図の上に落とされた点の固有の密度と特異な地理的偏差の絵柄に、誰でもきっと眼を奪われるにちがいない。規範的な世界地図の見慣れた大陸と島々の構図を突き破って、一つの地名が描き出す未知の群島がそこに出現するからである。

「聖マリア」を意味するこの言葉のラテン的出自に対応して、スペイン・ポルトガルにはSanta Mariaなる地名が数多く点在する。だがそこから世界へ向けてのこの地名の拡がりには眼を見張るものがある。まずイベリア半島から大西洋上に千数百キロ沖に出れば、かつて捕鯨基地として沸いたポルトガル領アソーレス諸島の最南端に浮かぶサンタ・マリア島がある。ついで同じ大西洋上の西アフリカ沖、奴隷交易の中継地だったカーボ・ヴェルデ群島を構成するサル島の港サンタ・マリア。ついで大西洋を渡りきって中南米に眼を移せば、北はメキシコから、コロンビア、アルゼンチン、そしてブラジルに至るまで、聖マリアの名に因む町や村はそれぞれの国内におびただしく散在し、それが持つ歴史的願意をさまざまに分泌する。そして驚くべき反響は太平洋海域にまで達し、フィリピン群島各地にもSanta Mariaを名のる大きな町だけで8ヶ所、さらにはメラネシア、ヴァヌアツ共和国北端のバンクス諸島にあるガウア火山島もまた別名をサンタ・マリア島という。そして最後に、ガラパゴス群島において最初に拓かれたチャールズ島も、そのスペイン語名をサンタ・マリア島というのであった。

このSanta Mariaの群島は、その名辞の胚胎するコロニアルな記号としての含意と隠喩によって、近代植民地主義の一つの写し絵となる。歴史を群島のVisionによって転位する可能性は、まさにこうした歴史的名辞の偶然でアイロニーに満ちた飛躍的連接を「いま」に召還する想像力にかかっている。
 -今福龍太「群島-世界論」/17.痛苦の規範/より


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家のながれたあとを見に行

2009-06-26 21:42:24 | 文化・芸術
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Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―表象の森― 山頭火のepisodeひとつ

先日、U君から届いた書面に、近況を知らせる文面とともに、山頭火の心暖まるほのぼのepisodeが添えられていた。語り手は山頭火と直かに交わりのあった大山澄太、詳細は「致知」で出逢ったいい話としてネットでも見られるようだが、大山澄太といえば、「俳人山頭火」や「俳人山頭火の生涯」、また山頭火行乞記と副題する「あの山越えて」などの著作で知られ、昭和30年代の第一次山頭火ブームの火付け役ともなった御仁である。

大山澄太-岡山県に生まれる。戦後愛媛県にて著述と社会教育に専念、教育文化賞を受ける。雑誌「大耕」主宰。平成6年(1994)逝去とあって、享年85歳というから、生年は1908年か09年、山頭火より26.7歳下となる。

この親子ほども若い大山澄太と山頭火との交りは、やっと故郷近くの小郡に落ち着けた其中庵時代にはじまる。当時、澄太は広島逓信局に勤める役人であったが、俳誌「層雲」の同人でもあった。其中庵に落ち着いた山頭火を囲んで、「層雲」主宰の井泉水はじめ、同人の仲間たちが集って句会を催したのが昭和8年3月、この折に若い澄太も混じっており、山頭火との初めての出会いであったとみえる。

以前から山頭火の句風と放浪の生きざまに憧れ、敬愛していた澄太は、以後、しばしば広島から訪ねてくるようになる。U君が紹介してくれたepisodeは、その昭和8年も暮れようとする12月の其中庵訪問記のようだ。

以下、書面より
ある年の暮れ、仕事で山頭火の庵の近くまで来たので、酒を持って訪ねました。夜まで話が弾み、さて帰ろうとすると、
「澄太君、すまんが長い間、人間と一緒に寝ておらんので、寒いぼろの庵だが、ここへ泊まってくれ」という。
寂しがる先輩を残して帰るのもなんだから、「それでは泊まろう」ということになったが、いざ寝ようとしたら蒲団が一つしかない。
山頭火が、「君が泊まるので嬉しいから寝ずに起きとる」というので、蒲団に入ったが、小さくて薄い蒲団のため寒くて眠れない。
「どうも寒くて、眠れそうにない」というと、山頭火は泣きそうな顔をして「済まんことだ」といいながら押し入れから夏の単衣を出して私にかける。
私は「まだ寒い」というと、紐のついた物を持ってくる。ようく見ると赤い越中ふんどしなんです。それを私の首に巻く。臭いことはないが、いい気持ちはしないので、「それはいらん」と取って外す。
そのうちに酒の酔いも手伝って寝てしまいました。
東側の障子がわずかに白んだ、夜明けの4時頃だろうか、私はふと目が覚めた。山頭火はどこかとこう首を回して捜すと、すぐ近いところで僕の方を向いて、じーっと坐禅を組んでいる。
その横顔に夜明けの光が差して、生きた仏さまのように見えましたなあ。妙に涙が出て仕方ない。私は思わず、彼を拝んだもんです。
さらによく見ると、山頭火の後ろに柱があり、その柱がゆがんでいる。障子を閉めても透き間ができ、そこから夜明けの風が槍のように入ってきよる。それを防ぐために山頭火は、自分の身体をびょうぶにして、徹夜で私を風から守ってくれたのです。
親でもできんことをしてくれておる。私はしばらく泣けて泣けて仕方がなかった。こういう人間か、仏かわからんような存在が、軒に立たねば米ももらえんし、好きな酒も飲めん。
そのとき私は月給の4分の1を山頭火に使ってもらうことに決めました。
山頭火が死ぬまでそうしました。

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.8-
「Reding –赤する-」のScene.6



<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「空豆の巻」-12

  風細う夜明がらすの啼わたり  

家のながれたあとを見に行  利牛

次男曰く、流されたものを人から家に奪った目付がよろしく、これは俤を滑稽化し、無常を忘れるうまい工夫だ。「ながれたあとを見に行」好奇心には、むろん事件の見聞だけではなく新しく始まるものへの期待がある。つまり起情の句だ。句の解は、風も収まった明方にカラスがしきりに騒ぐから、聞咎めて出水の跡を見に行った、でよいだろう、と。


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