―表象の森― 雪舟から等伯へ
<A thinking reed> 松岡正剛「山水思想」-「負」の想像力より
・禅の日本化-大日能忍の達磨宗-当時としては少々妖しげな新興宗教であり、同時代の明恵などは眉をしかめた/日本に於ては、禅は禅よりも広くなった、能禅一如や茶禅一味などの謂のように/大徳寺の一休文化圏は、珠光の茶や池坊の花を生んだ
・松竹梅がなぜ禅の教えとなるか-厳寒に耐えて松は緑を保ち、竹は雪を払い、梅は蕾をふくらませる、からである
・14世紀後半、北山文化の頃は、禅と連歌と過差と風流と婆娑羅が猛烈なスピードで広まっていった/4代将軍義持に愛された如拙の「瓢鮎図」/水墨画を縦長の詩画軸型へと変容させた-古今の「様」に意を注ぎ、「様」を表意する役を担った「同朋衆」たち/この祖型を成したのは夢窓疎石だったろう/禅僧のみでなく時宗-時衆-とも関係は深かった、能阿弥、芸阿弥、相阿弥
・旅逸の画家、雪舟-1420~1506-の和光同塵-和漢習合--雪舟の後継を自称する、雪村周継/16世紀初めに生れ、85.6歳まで生きた、狂逸にして奇思あり、奔放疎野なり、「風濤図」「呂洞賓図」
・狩野元信-1476~1559-による唐絵と倭絵の融合/真行草三体の使い分け/狩野派の画工集団化
・日本文の特質、「囲い」「囲う」/茶の世界で「囲い」とは茶室そのものを指す/抑も「幕府」というものも「囲い」の発想からのものであり、幕を張りめぐらせた仮設の府である。なぜこれが武家の棟梁としての政府の名称となったかといえば、朝廷を憚ったからであり、あくまでも天皇の在す朝廷こそ正式なものと立てるためである。
・法華宗と京都の有力町衆-後藤、茶屋、野本、本阿弥など町衆の有力文化人はなべて法華門徒
・信長の南蛮異風文化への関心と受容/イエズス会の波はザビエルからヴィレラへ、ヴィレラからフロイスへと継がれ、信長とぶつかった/桃山文化は外来の南蛮文化にかぶれた時期であり、さまざまな意匠の冒険に拍車をかけた、-小袖と襦袢の流行、男の月代・女の唐輪髷の流行など、南蛮文化への好奇的な共振感覚に因っている/日本文化はコードを輸入してモードを自前につくりなおすことに長けており、そういう「様」を有している
・界を限る-demarcation-/ルネサンスの空気遠近法は、境界をなだらかな連続としてとらえ、その稜線を明らかにさせないようにした/モナリザの肩の稜線は分厚いニスによってなだらかに消え、遠景の風景と近景の人物との区切りを表す線はない/以後、マニエリスムとバロックを経て、レンブラントやフェルメールの時代になると、コントラストの強い光の投与を駆使した明暗遠近法が確立する-それが印象派の技法にもつながっている
・等伯の「松林図」-現れようとするものと消えようとするもの、顕現することと寂滅することとが一体となっており、出現と消去が同時的-crossing-なのだ/松林そのものが「影向」であり「消息」なのだ、そのものとして「一切去来」なのだ/「界を限って、奥を限らない」-「余白」と「湿潤」
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「梅が香の巻」-11
ことしは雨のふらぬ六月
預けたるみそとりにやる向河岸 野坡
次男曰く、心の秘を見抜かれたからには、秘伝の味噌の味でゆこう、と笑わせている。昔はめいめいの家で味噌を作った。文字どおりこれは手前味噌の付だ。
句に云う情景は、低地の家が万一の出水に備えて、例年、川向うの高台に味噌を預けると読んでおけばよいが、野坡は芭蕉のいましめが解っているらしい。秘めた恋の代りをさぐって、秘伝に思い至ったところがミソである。しかし、秘めたものが片や恋心、片や味噌の味というだけでは芸のない置換に過ぎまい。
「ことしは雨のふらぬ六月」を中にはさんで前後差し合う。初五を、はたと思い出した体-「預けたる」-に作り、さらに「とりにやる」と人手を借りる趣向に仕立てたのは、三句の渡りを輪廻とせぬための工夫である。
両吟という形式の興は掛合の面白さにあることを忘れてはなるまい、と。
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