山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

預けたるみそとりにやる向河岸

2008-07-31 23:55:23 | 文化・芸術
Sansuisisou

―表象の森― 雪舟から等伯へ

<A thinking reed> 松岡正剛「山水思想」-「負」の想像力より

・禅の日本化-大日能忍の達磨宗-当時としては少々妖しげな新興宗教であり、同時代の明恵などは眉をしかめた/日本に於ては、禅は禅よりも広くなった、能禅一如や茶禅一味などの謂のように/大徳寺の一休文化圏は、珠光の茶や池坊の花を生んだ

・松竹梅がなぜ禅の教えとなるか-厳寒に耐えて松は緑を保ち、竹は雪を払い、梅は蕾をふくらませる、からである

・14世紀後半、北山文化の頃は、禅と連歌と過差と風流と婆娑羅が猛烈なスピードで広まっていった/4代将軍義持に愛された如拙の「瓢鮎図」/水墨画を縦長の詩画軸型へと変容させた-古今の「様」に意を注ぎ、「様」を表意する役を担った「同朋衆」たち/この祖型を成したのは夢窓疎石だったろう/禅僧のみでなく時宗-時衆-とも関係は深かった、能阿弥、芸阿弥、相阿弥

・旅逸の画家、雪舟-1420~1506-の和光同塵-和漢習合--雪舟の後継を自称する、雪村周継/16世紀初めに生れ、85.6歳まで生きた、狂逸にして奇思あり、奔放疎野なり、「風濤図」「呂洞賓図」

・狩野元信-1476~1559-による唐絵と倭絵の融合/真行草三体の使い分け/狩野派の画工集団化

・日本文の特質、「囲い」「囲う」/茶の世界で「囲い」とは茶室そのものを指す/抑も「幕府」というものも「囲い」の発想からのものであり、幕を張りめぐらせた仮設の府である。なぜこれが武家の棟梁としての政府の名称となったかといえば、朝廷を憚ったからであり、あくまでも天皇の在す朝廷こそ正式なものと立てるためである。

・法華宗と京都の有力町衆-後藤、茶屋、野本、本阿弥など町衆の有力文化人はなべて法華門徒

・信長の南蛮異風文化への関心と受容/イエズス会の波はザビエルからヴィレラへ、ヴィレラからフロイスへと継がれ、信長とぶつかった/桃山文化は外来の南蛮文化にかぶれた時期であり、さまざまな意匠の冒険に拍車をかけた、-小袖と襦袢の流行、男の月代・女の唐輪髷の流行など、南蛮文化への好奇的な共振感覚に因っている/日本文化はコードを輸入してモードを自前につくりなおすことに長けており、そういう「様」を有している

・界を限る-demarcation-/ルネサンスの空気遠近法は、境界をなだらかな連続としてとらえ、その稜線を明らかにさせないようにした/モナリザの肩の稜線は分厚いニスによってなだらかに消え、遠景の風景と近景の人物との区切りを表す線はない/以後、マニエリスムとバロックを経て、レンブラントやフェルメールの時代になると、コントラストの強い光の投与を駆使した明暗遠近法が確立する-それが印象派の技法にもつながっている

・等伯の「松林図」-現れようとするものと消えようとするもの、顕現することと寂滅することとが一体となっており、出現と消去が同時的-crossing-なのだ/松林そのものが「影向」であり「消息」なのだ、そのものとして「一切去来」なのだ/「界を限って、奥を限らない」-「余白」と「湿潤」


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-11

   ことしは雨のふらぬ六月  

  預けたるみそとりにやる向河岸  野坡

次男曰く、心の秘を見抜かれたからには、秘伝の味噌の味でゆこう、と笑わせている。昔はめいめいの家で味噌を作った。文字どおりこれは手前味噌の付だ。

句に云う情景は、低地の家が万一の出水に備えて、例年、川向うの高台に味噌を預けると読んでおけばよいが、野坡は芭蕉のいましめが解っているらしい。秘めた恋の代りをさぐって、秘伝に思い至ったところがミソである。しかし、秘めたものが片や恋心、片や味噌の味というだけでは芸のない置換に過ぎまい。

「ことしは雨のふらぬ六月」を中にはさんで前後差し合う。初五を、はたと思い出した体-「預けたる」-に作り、さらに「とりにやる」と人手を借りる趣向に仕立てたのは、三句の渡りを輪廻とせぬための工夫である。

両吟という形式の興は掛合の面白さにあることを忘れてはなるまい、と。


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ことしは雨のふらぬ六月

2008-07-30 22:03:52 | 文化・芸術
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―世間虚仮― 度肝を抜く‥図

朝刊の何面だったか、眼に飛びこんできた一枚の写真に、唖然としつつも思わず見入ってしまった。

「身動きできない‥猛暑の四川」と、写真の大きさに比べれば控え目に小さな見出しがついていた。

猛暑になった中国・四川省遂寧で27日、大勢の市民が一斉に地元のプールに詰めかけ、人波で水面が見えないほどの盛況ぶりとなった-写真はロイター-。この日の最高気温は37度、と記事は伝えていた。

「中国の死海」とも呼ばれる室内の大プールだそうだが、写真を見ればわかるとおり、1万余の人の群れが溢れ、泳ぐどころか身動きもとれないほどなのに、だれもが浮き輪をもって、これが混雑ぶりに拍車をかけているのが、なんとも可笑しく笑ってしまうが、やがて哀しくもなろうかといった図である。

北京五輪もまぢか、五輪開催とは遠く隔たった地域の中国事情にもなにかと注目が集まるなか、この舞台が成都から東へ150キロほど離れた地とはいえ、あの大地震の悪夢も醒めやらずなおまだ余震の続く四川省の一都市であることが、さぞ世界中の皮肉屋たちの視線を惹きつけたものと思われる。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-10

  奈良がよひおなじつらなる細基手 

   ことしは雨のふらぬ六月   芭蕉

次男曰く、陰暦六月は、水無月の別名もあるとおり、雨少なく水涸れる酷暑の月だ。それにわざわざ「ことしは」と冠したのは、昨年は雨が降ったということだろう。

これは恋-濡れ事-のこととして読めば、昨年は娘の顔も拝めたということだが、一方、晒布にしろ墨にしろ塗物にしろ団扇にしろ、奈良の特産物はいずれも雨期を嫌う、というところが付の卓抜な目のつけどころらしい。芭蕉は「奈良がよひ」の表裏を見究めて、ことばの表は雨を嫌い、裏では雨をよろこぶ人情を取出して付けている。

「ことしは雨のふらぬ六月」は、今年はさいわい雨が降らなかったという意味の裏に、娘の顔を拝めなくて残念だ、気の毒だという意味を含ませなければ成り立たぬように作られていて、言わんとするは生業と恋はとかくままならぬということである。この酷暑では雨湿りの一つも欲しかろうが、暑熱がとくに身に堪えるのは奈良通いの本義を忘れるからだ、下心も程々にせぬと元も子も失う、と芭蕉はからかっている。

句は一句では恋のかけらも見えないが、前句と結べば心憎い恋離れになっている。恋の呼出しも離れも、共に野坡ではなく芭蕉だという点に注意したい。そういうはこびを評釈というものはじつに味気なく読む、と。


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奈良がよひおなじつらなる細基手

2008-07-29 23:08:16 | 文化・芸術
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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-09

   娘を堅う人にあはせぬ  

  奈良がよひおなじつらなる細基手  野坡

細基手-ほそもとで-

次男曰く、会わせぬと云うならよけい会いたい、見せたがらぬものなら見たい、とつけこんでいる。

細基手とはかぼそい元手、小商人のことだ。それが奈良へ通ってくるのは晒布・墨・塗物・団扇など奈良名産の買付をするためだが、「かよひ」という詞は古来、恋の詞でもある。

通ってくるのはじつは娘見たさだ、という含に滑稽の作意があり、併せて「あなじつらなる」の「つら」にも二重の意味をうまく利かせている。

「源氏物語」には「わが女御子たちとおなじつらに思ひきこえむ」-桐壺-、「はらからのつらに思ひきこえ給へれば」-竹河-などの遣方が見え、「須磨」の巻には「初雁は恋しき人のつらなれや旅のそらとぶ声のかなしき」という、古来しばしば本歌にも取られた光源氏の歌がある。

この「つら」は列の意味だが、野坡は物語の面影をかすめて、文字通り顔つきのことだと翻しているらしい。当世風俗語への執成も俳になる。業平の河内通いならぬ、奈良という仏臭い古都に通ってくる小商人は、どれもこれも-同列-、毎年、おなじ面つきをしている、と云えば話の興をつくるだろう。小商人の胸に秘めた恋は光源氏の歌のようにはゆかなくて、下世話なところに哀も歓もうまれる、尤もなことだ、とおのずからこちらは読み取らされてしまう。

拒絶の頑固さに押掛通いの辛抱強さを向かわせたうまい付だが、これはいどんで二句恋とした作りである。前一句のみで恋と読んでいる注釈があるけれど、そうではない。「娘を堅う人にあはせぬ」は次座に対する誘、恋の呼出しだ、と。


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あかり消すやこゝろにひたと雨の音

2008-07-28 21:06:48 | 文化・芸術
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―山頭火の一句―

句は大正11年の秋。

大正8年の秋からほぼ4年の東京暮しに終止符を打たざるをえなくなったのは、同12年9月1日、あの関東大震災の受難である。

震度7.9の大地震が起こったのは、ちょうど昼時を迎える午前11時58分。東京では地震発生とほぼ時を同じくして134ヶ所から出火したという。この日風もまた強かったというから、次々に延焼、火災はひろがり、三日間燃え続け、東京の大半は焦土と化した。

むろん山頭火も、湯島の下宿先を焼け出され、行き場をなくしてしまったが、その彼の心を完膚無きまでに打ちのめしたのは、誤認とはいえ憲兵隊による逮捕並びに巣鴨刑務所留置事件であった。

嫌疑は社会主義者に連なる者であったが、まもなくその嫌疑も晴れて数日後には釈放されている。上京の際頼みとした茂森唯士の実弟広次が内務省に勤めており、これが地獄に仏と幸い、彼のはからいゆえの釈放だった。

山頭火は、その9月も半ばすぎになって、大杉栄らが獄中の拷問で虐殺されたことを知った。
この事件は、さらに追い討ちをかけるように彼の心を打ちのめしてしまったようである。

東京という都会はなんと理不尽なものであるか、とても怖ろしい、一刻も早く逃げ出したい、そう思う人々はむろん彼だけでなく、東京脱出に駆け込む群集は何万何十万に膨れあがっていた。
東海道線は不通だったから、彼は中央線で塩尻を経て、名古屋、京都へと逃れた。震災下、国鉄運賃はすべて無料だったのである。

山頭火には京大出身のずっと若い一人の連れがあった。憲兵に逮捕される折からずっと行動を共にしていた若者で芥川某という。その若い友が、車中で突然の発熱に苦しみだし、京都で途中下車、急遽入院をさせたところ、原因は腸チフスで、彼はあっけなく死んでしまうのである。

若い友の母親が郷里から駆けつけてくるまで、山頭火はその亡骸とともに過ごし、その時を待った。
無常の親子の対面は、見るも無残、哀れなものであった、という。

山頭火の神経はもうこれ以上なにも耐えられなかったろう。
ひとり、彼は熊本へと、帰っていった。


―世間虚仮― 異常はつづく‥?

北陸地方を襲い局地的な豪雨をもたらした前線が南下、午後からは近畿のあちこちで猛威を奮い、水難事故など被害をもたらしている。

昨日の福井での突風による死傷事故もこの前線の影響なのだろうが、「ガスフロント」現象とかあるいは「ダウンバースト」とか、耳慣れぬ言葉が飛び交っている。

気象庁によれば、8月、9月もフィリピン付近の海面水温の上昇により、太平洋高気圧が発達しやすく、猛暑が続くという。一過性とはいえこういった豪雨や突風の発生は、なおさまざまありうるということらしい。

夏の積乱雲がもたらす夕立は涼味を呼ぶ恵みにて天の配剤といえようが、まこと過ぎたるは及ばざるが如し、過剰なる異常気象となれば人の世に災厄をもたらすばかり。お蔭で年々歳々、未知の気象用語を習うこととなる。


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娘を堅う人にあはせぬ

2008-07-27 23:32:09 | 文化・芸術
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―表象の森― 「夢の中での日常」と「パラ・イメージ論」-承前-

「言葉全体が夢とか入眠とかとおなじ状態のところで使われている、まれな超現実的な作品」として昭和23年2月に発表された短編「夢の中での日常」は、文庫にして僅か30頁という掌篇だが、「フロイト的にいえば、検閲と歪曲をとおしてあらわれた夢の場面の流れのように」、時制も空間も日常的な現実感覚からは隔たった7つの短いsceneから成っている。

「まず意味論的な流れがあると、次にそれと対応している像論的な流れがくる。そしてその流れをつなげる意味と像の溶接部位があるかとおもうと、流れを切断するようなパラ・イメージの切断があって、そこから異質の場面へ移っていったりする。ふつうの文学作品ではそれぞれの言葉の内部でおこなわれるはずのものが、文脈の流れの領域と領域のあいだでおこなわれている。」

「レプラ-癩病-の旧友が突然現れたことが、罪障感や不安、おののきだとすれば、レプラの旧友からあんたもやっぱりそうだったのかという呪詛をあびながら追っかけられて、たまたま受付の少女が取っ捕まった隙に逃げ出した行為は、罪障感、不安、おののきが永続的であることを証拠立てるものだ。作者は無意識の扉を意図的に半開きにしてみせて、この永続性の相を下の方から仰高するパラ位置の像に転化している。」

「ここでひとつの場面とちがう場面の接合ということ、あるいは溶接の仕方について触れてみたい。作品のなかでは起こってくる事象は言葉の実在であって、言葉が実在の事象なのではない。どんな事象が起こるか起こらないかは、言葉の概念と像の位置がきめるので、極端にいえば作者がきめるのではない。場面と場面の接合はしぼってゆけば意味論的な場面と像的な場面との溶接にゆきついてしまう。場面と場面が繋ぎ合わされるにはどこかで概念と像との繋ぎ合わせの部分がつりあっていなくてはならないはずだ。」

「文学作品の内部では言葉の限界が世界の限界をきめている。この世界を拡大するには言葉がまず輪郭を崩壊させ、像を深刻化してゆく状態は、はじめに考えられていいことだ。文学の当為は文学作品の内部にはまったく存在しない。言葉の概念にも像にも当為が棲みつく場所はどこにもないからだ。文学いう制度を保守したい批評家だけが文学作品のなかに擣衣を密輸入しようとするにすぎない。文学の世界観は言葉の世界観だ。言葉の世界観は像の世界観だ。そもそも三次元の現実世界などというものがあると錯覚して生きていられる頭脳は、古典近代まででおしまいなのだ。」

・手を休めると、きのこのようにかさが生えて来た。私は人間を放棄するのではないかという変な気持の中で、頭の瘡をかきむしった。すると同時に猛烈な腹痛が起った。それは腹の中に石ころをいっぱいつめ込まれた狼のように、ごろごろした感じで、まともに歩けそうもない。私は思い切って右手を胃袋の中につっ込んだ。そして左手で頭をぼりぼりひっかきながら、右手でぐいぐい腹の中のものをえぐり出そうとした。私は胃の底に核のようなものが頑強に密着しているのを右手に感じた。それでそれを一所懸命に引っぱった。すると何とした事だ。その核を頂点にして、私の肉体がずるずると引き上げられて来たのだ。私はもう、やけくそで引っぱり続けた。そしてその揚句に私は足袋を裏返しにするように、私自身の身体が裏返しになってしまったことを感じた。頭のかゆさも腹痛もなくなっていた。ただ私の外観はいかのようにのっぺり、透き徹って見えた。‥

「この<裏返った身体>の状態は、ふつうの言葉に対してパラ位置にあるふつうの鮮明な映像ではなくて、オルト位置の言葉の像-夢または入眠状態の言葉-に対してパラの位置にあるオルト-パラ位置の言葉の像を実現したことにあたっている。<裏返った身体>あるいは<表面のない身体>がどんな実在の身体をさすのでもないように、あるいはオルト-パラの言葉もまたどんな実在の像をさすのでもない。むしろ意味の流れを視覚像-映像-とはちがった-たぶん死の向う側から投影されるという比喩で語られるような-像によってまったく置き換えてしまった言葉の位置を意味している。それは視覚器官を媒介せずにつくられた像、あるいはすでに概念がまったく減衰された状態ではじめて可能な言葉の像だといってよい。」


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」-08

  御頭へ菊もらはるゝめいわくさ 

   娘を堅う人にあはせぬ   芭蕉

次男曰く、丹精して育てるのは草花ばかりではあるまい、という冷かしに笑いの筋がある。

「御頭に」ではなく「-へ」と人間くさく遣った点を見咎め、「菊」を女名前に執成して軽口のたねとした作りで、事のついでに娘まで貰われてはかなわぬ、と云っている。

但し、前句の余意・余情と考えると、打越以下三句同一人物の感想となりはこびが瞭かに滞る。したがって、別人の付と解するしかないところだ。他に鑑みて用心する体である。人物は立話の相手方でもよい。

双方いずれ似たような性質の経験があって、「藪越」に警戒しながら話を聞いて肝に銘じるらしく読ませるところが面白い。「めいわくさ」に「堅う人にあはせぬ」は詞映りの取出しだ。

古註以下いずれも同一人物の付と見ているが、そうではない、と。


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