山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

なごりなき安達の原の霜枯れに‥‥

2006-12-31 20:51:18 | 文化・芸術
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-表象の森- 2006年、逝き去りし人々

昨日の短兵急な死刑執行、しかもその絞首刑のありさまを録画のうえイラク国民に報じられたという、独裁者サダム・フセイン(69歳)の残忍このうえない死をもって幕を閉じようとしている2006年。
以下、今年、逝き去りし、不帰となった人々を、月日を追って列挙しておく。


1月、新聞連載漫画で47年間延べ16,615回という記録を樹立した漫画家、加藤芳郎(80歳)。歌舞伎の演出や演劇評論の戸部銀作(85歳)。「里の秋」など幾多の童謡で戦中・戦後の厳しい時代に大衆の心を慰めた川田正子(71歳)。
2月、村田製作所創業の村田昭(84歳)。戦後まもない第1回経済白書で「国も赤字、企業も赤字、家計も赤字」と大胆に提示、後に公害の政治経済学を提唱した都留重人(93歳)。「球界の紳士」と称されたプロ野球巨人の投手、後に監督も務めた藤田元司(74歳)。96年刊行の詩集「倚りかからず」は現代詩には珍しくベストセラーとなった詩人・茨木のり子(79歳)。
3月、「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などで一世を風靡したTV演出家・制作者の久世光彦(70歳)。戦後の前衛的短歌をリードした女流歌人の山中智恵子(80歳)。戦後の前衛華道の一角を担ってきた安達瞳子(69歳)。真山青果の長女で、戦後「新制作座」を創立。代表作「泥かぶら」は全国津々浦々を巡回公演している、劇作・演出の真山美保(83歳)。ファッション界をリードするコシノ三姉妹の母、小篠綾子(92歳)。
4月、「佐々木小次郎」など独自の時代小説をひらいた村上元三(96歳)。「竜馬暗殺」や「祭りの準備」、戦争レクイエム三部作の映画監督、黒木和雄(75歳)。抽象造形の彫刻家にして詩人、美術評論もよくした飯田善国(82歳)。「ゆたかな社会」や「不確実性の時代」の経済学者、J.K.ガルブレイス(97歳)。
5月、兄に吉行淳之介、姉に吉行和子をもつ早熟の才媛で、詩・小説・劇作と多岐にわたる創作活動をつづけた吉行理恵(66歳)。「オバQ」の声優、曽我町子(68歳)。「シルクロード」を中心に世界の遺跡を撮り続けた写真家、並河萬里(74歳)。湯川秀樹夫人で、長年、平和運動に取り組んだ湯川スミ(96歳)。阪東妻三郎の子で田村三兄弟の長兄、俳優の田村高廣(77歳)。映画、TV、ミュージカルの舞台などで活躍した俳優、岡田真澄(70歳)。映画監督、「にっぽん昆虫記」「神々の深き欲望」「楢山節考」「うなぎ」など戦後の日本映画を代表する今村昌平(79歳)。
6月、「アカシアの大連」「マロニエの花が言った」の詩人・小説家、清岡卓行(83歳)。筑前琵琶の奏者で人間国宝だった山崎旭萃(100歳)。小沢征爾と並び称された指揮者の岩城宏之(73歳)。ロラン・バルト「表徴の帝国」の翻訳者でもあった詩人の宗左近(87歳)。歴史と時代を問い、都市生活者の孤独と苦悩を歌い、戦後歌壇を牽引し続けた近藤芳美(93歳)。過激派「革マル派」の最高指導者で元議長の黒田寛一(78歳)。
7月、96年1月から参院選敗北により辞任した98年7月まで首相だった橋本龍太郎(68歳)。「8時半の男」と異名をとった巨人の救援投手、宮田征典(66歳)。弟の鶴見俊輔とともに雑誌「思想の科学」の創刊同人で社会学者の鶴見和子(88歳)。「戦艦武蔵」「関東大震災」などの記録文学か「大黒屋光太夫」などの歴史小説作家、吉村昭(79歳)。
8月、黒柳徹子の母でエッセイストの黒柳朝(95歳)。「水色のワルツ」などの作曲家で現役最長老だった高木東六)(102歳)。
9月、「ハーメルンの笛吹き男」の著者で、網野善彦と対談した「中世の再発見」でも知られる西洋中世史家、阿部謹也(71歳)。テレビアニメ「おじゃる丸」原案者の漫画家犬丸りん(48歳)は自死。文楽の人間国宝、立役の人形遣いだった吉田玉男(87歳)。晩年は霊界研究家として名を馳せた俳優の丹波哲郎(84歳)。「アンコ椿は恋の花」「涙の連絡船」など演歌のヒットメーカー、作曲家の市川昭介(73歳)。
10月、ブラジル第1回移民団「笠戸丸」の最後の生存者、中川トミ(100歳)。「渡る世間は鬼ばかり」など、TV・映画の名脇役として活躍した藤岡琢也(76歳)。「肥後にわか」の巨匠、ばってん荒川(69歳)。「抱擁家族」「別れる理由」など前衛的作品で純文学の新しい地平を開いた小島信夫(91歳)。漢字の成り立ちを明らかにした辞書「字統」を84年に、「字訓」を87年に、「字通」を96年に刊行、辞書三部作を完成させた白川静(96歳)。民話劇「夕鶴」、歴史叙事詩劇「子午線の祀り」など戦後新劇を代表する劇作家、木下順二(92歳)。
11月、「恋は水色」などを世界的にヒットさせたポピュラー界の大御所、ポール・モーリア(81歳)。TV番組「クイズダービー」の解答者として人気を博した漫画家、はらたいら(63歳)。「選択の自由」で徹底した市場主義を唱え、「小さな政府」の理論的支柱となった経済学者、M.フリードマン(94歳)。文学座で岸田今日子と結婚、後に演劇集団「円」の代表となった俳優、仲谷昇(77歳)。ベストセラー「兎の眼」や「太陽の子」の著者、児童文学の灰谷健次郎(72歳)。「あさき夢みし」「悪徳の栄え」など前衛的作品から「ウルトラマン」まで手がけた映画監督、実相寺昭雄(69歳)。
12月、文学座から演劇集団「円」へ。「サロメ」や別役実作品などの舞台、映画「砂の女」、TVアニメ「ムーミン」のパパ役の声など、独特の存在感を醸し出す戦後を代表する女優、岸田今日子(76歳)。放送作家・TVタレントとして注目され、参議院議員に転出、「人間万事塞翁が丙午」で直木賞、世界都市博中止を掲げて東京都知事となった、青島幸男(74歳)。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-34>
 霜こほる小田の稲茎ふみしだき寒き朝けにあさる雁がね  中院通勝

通勝集、冬夜詠百首和歌、冬十首、残雁。
弘治2(1556)年-慶長15(1610)年、父は中院通為、母は三条西公条の女、権中納言正三位、細川幽斎に学んで和歌・和学を極めた。
邦雄曰く、雁といえば春の帰雁頴詠にあはれを盡し、秋は初雁に心を蘇らせるのが通例、穭(ヒツジ)田をうろついて、乏しい餌を漁っている真冬の雁は珍しく、なによりも景色にならないのに敢えて遊びに選んで歌っているのが印象的。修辞は所謂「写実」に徹して、余情はないが、それも面白い。三条西家の縁続きで、細川幽斎らに師事した17世紀初頭の知識人、と。


 なごりなき安達の原の霜枯れに檀(マユミ)散り敷くころの寂しさ  藤原為子

続後拾遺集、冬、嘉元の百首の歌奉りける時、落葉。
邦雄曰く、檀の紅葉は鮮麗無比、葉が楓より丸く大きいので、散り敷いた時は愕然とするくらいだろう。霜に荒れ果てた野に、暗紅色の、血溜まりのような檀の木下は、「寂しさ」と歌い据えると、なおさら迫るものがある。名手為子の意識した淡泊な技法が、「檀」一字で精彩を得、凡ならざる作品に変貌した。14世紀初頭、新後撰集進直前に作られた、と。


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一夜さへ夢やは見ゆる呉竹の‥‥

2006-12-30 18:09:48 | 文化・芸術
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-世間虚仮- サダム・フセインの死刑執行

正午過ぎ、「フセイン元大統領の死刑執行さる」のテロップが流れた。
またも、ブッシュ米大統領らアメリカ政府の意志が強く働いた結果だ。
‘82年のシーア派148人の大量虐殺事件の裁判で、死刑が確定されたのが今月26日。わずか4日後の執行である。
一方で、イラク駐留の米兵死者は12月108名と今年最悪となり、開戦以来3000名に迫るという。
依然イラク情勢は内戦の様相にあり、治安の悪化はさらに強まろう。


覇権主義アメリカのMisleadで、世界はCatastropheへと漂流をつづける。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-33>
 一夜さへ夢やは見ゆる呉竹のふしなれぬ床に木枯しの風  足利義尚

常徳院詠、文明十六年十月、小川亭に罷りて、冬竹。
邦雄曰く、新古今集、藤原道家の「夢通ふ道さへ絶えぬ呉竹の伏見の里の雪の下折れ」を、一度は心に浮かべて、すぐ搔き消すかの擬・本歌取り。第三・四句の「呉竹のふしなれぬ」は、その意表を衝く大業の技法で拍手するほかはない。他の人なら「夢をだに見ず」と歌うところを、この上句は反語で強調した。多才の人で「新百人一首」も義尚の選とか、と。


 木枯しやいかに待ちみむ三輪の山つれなき杉の雪折れの声  源具親

千五百番歌合、九百四十四番、冬二。
生没年未詳、村上源氏、小野宮大納言師頼の孫、宮内卿の同母兄。品古今集初出、鴨長明「無名抄」に逸話がみえる、と。
邦雄曰く、強いて本歌を挙げるならもほとんどの三輪歌に面影を伝える古今・雑下の「わが庵は三輪の山もと恋しくはとぶらひ来ませ杉立てる門」であろうが、木枯しと雪を配し、しかも枝の折れる音を聞かせるあたり見事な四季歌変貌の手際。天才少女宮内卿の兄の面目あり。右は三宮惟明親王の「志賀辛崎」。季経判は負であるが、紛れもなくこの方が秀歌、と。


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君しあれば並木の蔭も頼まねど‥‥

2006-12-27 14:54:41 | 文化・芸術
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INFORMATION : 四方館Dance Café <越年企画>

-四方のたより- 行き交う人々-懐かしさのふるさと

その名は「三ちゃんや」だった。
幼い頃よく通った近所の駄菓子屋の屋号である。
先日急死した、幼馴染みでもあった中原喜郎さんにまつわることなどをあれこれと想い出したりしていると、ふと記憶の底に眠っていたその名が、店先の様子や軒先に書かれた屋号「三ちゃんや」の文字とともに、まざまざと蘇ってきたのだった。
「そうか、「三ちゃんや」があったんだ。一歳違いで、同じ町内で、小学校も同じだったとはいえ、一緒に遊んだというような記憶はどう手繰ってもない。それなのになぜだか、彼と私の間になんともいえぬ懐かしい感触が横たわっているのは、駄菓子屋「三ちゃんや」の所為だったんだ。」
幽霊の正体も、判ってしまえばまことに他愛ないもの。
幼馴染みというただそれだけの、一緒に遊んだ記憶もなく、なんら具体的な像を結ばない、なのに奇妙なほど懐かしさを覚える、その不思議な感覚の根拠には、当時毎日のように通い慣れた駄菓子屋「三ちゃんや」の存在があったのだ。


昔、租界道路と呼ばれた私の家の前の25メートルもある広い道路を左へ歩いて、すぐの路地を右に曲がってどんどん歩いてゆくと、やがて四ツ辻に出て、その左向う角には銭湯があったのだが、その路地を左へ折れて少し歩くと広い電車道に出る。
明治36(1903)年に開通したという大阪市に初めて登場した市電は築港線と呼ばれ、花園橋(現・九条新道)から築港桟橋(現・大阪港/天保山)を走ったのだが、当時の大人たちも子どもも、その道路をたんに電車道と呼んでいたのだ。
その電車道に出るすぐ手前の左側に、間口二間半ばかりか、軒先の壁に「三ちゃんや」とペンキで大書した駄菓子屋があったのだった。おそらく我が家からは250メートルか300メートルまでの距離だったろうが、小学校一、二年生のまだ幼い子どもにとっては、かろうじて独りで自由に行動しうるギリギリの範囲であったように思う。
いつ覚えて味をしめたか、学校から帰るとすぐ母親にせがんでせしめた5円玉か10円玉一枚を握りしめて「三ちゃんや」まで駆けてゆくのが、まるで日課のように続いていたものだった。
その通い慣れた駄菓子屋の隣が中原さんの家だった。たしか軒先には「中原商店」と書いてあった。当時、炭や練炭など燃料の小商いをされていたのではなかったか。
なにしろ毎日のように「三ちゃんや」へ通うのだから、一歳違いの彼の姿をよく見かけ、でくわすこととなる。お互い人見知りの強かったせいか、言葉を交わすこともなく、遊ぶこともないのだけれど、しょっちゅう顔を会わせていたわけで、でくわすたびに或いは視線を合わせるたびに、よくは知らぬ相手への興味と関心の矢が放たれていたのだ。


子どもの生きる領分、縄張りといってもいいが、それはずいぶんと狭いものだ。よく見知ってはいてもなかなか垣根を越えて遊び仲間となることは、まだ幼い頃には起こりにくい。興味や関心とともに互いに牽制するような力も働いて、自分の世界をひろげ得ないままにおわることは多い。互いの世界は接しているのだが、なかなか交わることにはならない。そうなるにはあたらしい特別な出来事、事件が起こらなければならない。
そんな事件も起こることなく、あの頃の彼と私は、お互いの子どもとしての世界を「三ちゃんや」を媒介にしてずっと接していたということになろうか。けっして交わらぬままに。
そして、あたらしい特別な出来事、その事件は、40数年を経巡って起こったのだった。
それが「辻正宏の死」という、彼にとっても私にとっても、抜き差しならぬ出来事、事件だったのだ。
’97年、11月も末近くのことだった。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-32>
 吹くからに身にぞ沁みける君はさはわれをや秋の木枯しの風  八条院高倉

新勅撰集、恋四、題知らず。邦雄曰く、秋に「飽き」の見飽いたような懸詞ながら、四季歌のさやかな調べのなかにちらりと紅涙のにじむのを見るような歌の姿が、退屈な新勅撰集恋歌群の中では十分味わうに値しよう。一首前の宮内卿「とへかなしなしぐるる袖の色に出でて人の心の秋になる身を」があり、これもおもしろいが、二首殺し合う感あり並べるとこころころしあう感あり。第四句の危うい息遣いあり、と。

 君しあれば並木の蔭も頼まねどいたくな吹きそ木枯しの風  小大君

小大君集、十月に女院の御八講ありて、菊合わさは来ければ。
邦雄曰く、たとえば薔薇、花麒麟等、有棘の花を見るように、小大君の歌には相当な諷刺がこめられており、それでいてきららかである。この歌も初句「君しあれど」とでもあれば通りの良い擬・恋歌になるところを、「ば」で痛烈な転合となった。冬の歌に「めづらしと言ふべけれども初雪の昔ふりにし今日ぞ悲しき」あり。この人、生没年・出自は不詳、と。


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とふ嵐とはぬ人目もつもりては‥‥

2006-12-25 14:42:28 | 文化・芸術
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INFORMATION : 四方館Dance Café <越年企画>

-表象の森- 襲-かさね

古来の日本の色彩感覚をよく伝えてくれるものに色の「襲(かさね)」、「襲の色目」がある。
「色目」という言葉自体、色の組合せを指すが、衣の表と裏の色の組合せ、これをとくに「襲」と呼んできたもので、平安王朝期には有職故実としてすでに確立しており、その四季の変化に彩られた色彩感覚は、現代にも脈々と流れている。


「襲」とは今では一般的には「襲う」と用いられ、甚だ穏やかならぬ感もあろうが、「世襲」や「襲名」などの熟語にみられるように、本来は「つぐ、うけつぐ」の意味で、そこから「おそう」が派生してきたようである。
白川静の「常用字解」では、「襲」は「龍」と「衣」とを組み合わせた会意文字だが、「龍-リュウ」と「襲-シュウ」には音の関わりはないようだから、衣の文様とみるほかはない。おそらく死者の衣の上に、龍(竜)の文様の衣を重ねて着せたのであろう、と説かれている。成程、死出の旅路の衣に龍の文様を重ねるとは合点のいくところではある。


平凡社のコロナブックス「日本の色」では、四季とりどりの代表的な「襲の色目」を紹介してくれている。春の「紅梅」「桜萌黄」「裏山吹」「躑躅-つつじ」など、夏には「卯の花」「若苗」「蓬-よもぎ」「撫子-なでしこ」、秋の「女郎花-おみなえし」「竜胆-りんどう」「菊重」「紅葉」、冬には「枯野」「氷重」「雪の下」などなど。色の組合せは類似・類縁から対照的なものまで幅広いが、いずれも自然の事象から採られた名がなにやらゆかしい。

-今月の購入本-
G.M.エーデルマン「脳は空より広いか-「私」という現象を考える」草思社
M.フーコー「フーコー・コレクション-4-権力・監禁」ちくま学芸文庫
M.フーコー「フーコー・コレクション-5-生・真理」ちくま学芸文庫
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟-1」亀山郁夫訳/光文社文庫
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟-2」亀山郁夫訳/光文社文庫
「日本の色」平凡社・コロナブックス


-図書館からの借本-
R.ドーキンス「祖先の物語-ドーキンスの生命史-上」小学館
R.ドーキンス「祖先の物語-ドーキンスの生命史-下」小学館


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-31>
 とふ嵐とはぬ人目もつもりてはひとつながめの雪の夕暮  飛鳥井雅経

千五百番歌合、九百五十五番、冬二。
邦雄曰く、訪れるのは望みもせぬ嵐ばかり、待つ人はつひに訪れもせぬ。「とはぬ人目」がつもるという零の加算に似た修辞が一首に拉鬼体の趣を添へる。下句の直線的で重みのある姿もさすが。左は隆信の「春秋の花か月かとながむれば雪やはつもる庭も梢も」。いささかねんごろに過ぎて、煩わしい凡作だが、藤原季経の判は「持」。美学の相違であろう、と。


 冬の夜の長きをおくる袖ぬれぬ暁がたの四方の嵐に  後鳥羽院

新古今集、雑中、題知らず。
邦雄曰く、院二十五歳、元久2(1205)年の、新古今集竟宴寸前、三月十三日の日吉三十首中の秀作。源氏物語「須磨」に、光源氏が「枕をそばだてて四方の嵐をききたまふに」のくだりあり、見事な本歌取りだ。きっぱりとした上・下句倒置が、まことに雄々しい。本歌にはまた、元真集の「冬の夜のながきをおくるほどにしも暁がたの鶴の一声」を擬する、と。


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はげしさを聞きしにそへて秋よりも‥‥

2006-12-20 17:09:53 | 文化・芸術
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-四方のたより- 悲報、中原喜郎の急逝

17日(日)の朝、予期せぬ訃報が届いた。
ここでも「文月会」のグループ展などで何度か触れてきた盟友・中原喜郎さんの突然の死。
驚き、ただ狼狽するのみから、少し落ち着きを取り戻せば、かわって激しい悲しみが突き上げてくる。


進行性の間質性肺炎という難病の類を持病としていた彼は、近頃はつねに酸素吸入装置を携行していなければならないのに、それでも9月の大きな個展を挙行し、40点に余る作品を描きあげ、我々観る者を驚嘆させたうえ、なおある短期大学の学科長という精神的にも肉体的にも負担の多い職務に日々追われていた。
湖南市菩提寺の自宅から京都市深草にある学舎への通勤にはマイカーを自ら運転、緊張を強いられる高速道路を避け、一般道を利用していたという。
12月7日、帰宅途上で、不意に襲ってきた発作に意識朦朧となるなかで、彼は路上に車を止め、身を横たえて回復を待とうとしたが、そのまま眠るように意識不明へと陥ったらしい。幸いにも付近の住民の目にとまり119番、直ちに救急病院に担ぎ込まれ、以後十日間、集中治療室にて生死の境を彷徨うように一進一退を繰り返したものの、16日の朝に至って、遂に帰らぬ人となってしまった。


自らの責任感で果たしてきた日々の煩瑣な職務の遂行は、難病の進行を加速させ、彼の死期を大幅に早めたに違いないが、それをしも彼自身が望むに任せて生きた結果とすれば、いったい誰を責められようか。彼自身病魔に対する予測をはるかに裏切られた死期の早い到来だったとしても、自らの責めに帰せられるべき生きざま・死にざまのカタチだったというしかないのだろう。

だがそれにしても、残された者のひとりとして、無念だ。
悲しいというより悔しい。


一歳上の彼と私は、隣近所というほどに近くはなかったものの、子ども時代を同じ町内で育った、いわば町内っ子同士で、幼い頃からの顔馴染みだった。
小学校も中学校も、高校までも偶々同じだった。
長ずるにつれ、たとえ言葉を交わさずとも、直に接せずとも、幼い頃の懐かしい匂いは、ある種の温もりで互いを包んでくれるものだ。
実際、40年近くを経てのとある再会から、近年の熱い交わりは始まったのだった。
そんな迂遠な弧を描いて接する交わり、そんな始まりもある。
それは老いにさしかかり、死に向かって10年、20年と指折るようになった私にとって、僥倖の贈り物でもあった。


いま、私の手許には、彼の描いた4枚の絵がある。
どれも、私に、あるいは私の家族にとって深く関わる、私たちにはかけがえのない大切な絵だ。
彼から授けられたこの4枚の小さなキャンバスたちが奏してくれる物語は、私とその家族をどこまでもやさしく包み込み育んでくれる、そんな世界だ。


18日の大津での通夜には家族三人で駆けつけた。
翌朝10時からの葬儀には、連れ合いと二人で参列した。
彼女にとっても、彼・中原喜郎は強くやさしい励ましの存在だったことは、私にも手にとるように判っていたから。


どうにも受け容れがたかった彼の死を、その厳然たる事実をそれとして受容していくにしたがい、私の心は強い促しとでもいうべきものを感じて、波立ってきている。
そう、心の内奥に大きく座を占めるその存在の死というものは、おのれの底深くに眠り込んだなにものかを衝き動かし、強い促しの力となって、思いがけない機縁を孕みうるものなのだ。


2006(H18)年12月16日午前8時過ぎと聞く、
日本画家にして児童教育学者、市岡高校14期生・中原喜郎氏、永眠す。
                                   ――― 合掌。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-30>
 はげしさを聞きしにそへて秋よりもつらき嵐の夕暮の声  貞常親王

後大通院殿御詠、冬夕嵐。
邦雄曰く、定家・二見浦百首の恋、「あぢきなくつらき嵐の声も憂しなど夕暮に待ちならひけむ」を、冬に変えての本歌取り。第二句の技巧がいささか渋滞しているが、それも味わいのうち、「夕暮の声」も沈鬱な趣を秘めている。同題にいま一首「夕まぐれ木の葉乱れて萩の上に聞かぬ嵐もただならぬかな」あり。結句言わずもがな、第四句秀句表現は見事、と。


 山里の風すさまじき夕暮に木の葉乱れてものぞ悲しき  藤原秀能

新古今集、冬、春日社歌合に、落葉といふことをよみて奉りし。
邦雄曰く、元久元(1204)年十一月十日の春日社歌合作品から、慈円・雅経らと共に入選を見た作品の一つ。秀能は二十歳、北面の武士らしい武骨な詠風が、かえって題に即して妖艶には遠い味を創った。他に雅経の「移りゆく雲に嵐の声すなり散るかまさきのかづらきの山」が技巧の冴えをもって抜群。木の葉とはすなわち紅葉と限定する説も見られる、と。


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