山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

医のおほきこそ目ぐるほしけれ

2008-04-30 22:19:39 | 文化・芸術
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―表象の森― 砂山崩し

<A thinking reed> S.カウフマン「自己組織化と進化の論理」より

-自己組織化臨界現象の典型例としての砂山崩し-
テーブルの上の砂山を考えてみる。砂山にはゆっくりとした一定の速度で砂を加えていく。砂が積み重なり、やがて雪崩が起きはじめる。小さな雪崩は頻繁に生じる。大きな雪崩は稀にしか起こらない。雪崩の規模を直角座標系のx軸にプロットし、その規模の雪崩が起きた回数をy軸にプロットすると、ある曲線が得られる。結果は、ベキ乗則と呼ばれる関係となる。それは同じ大きさの砂粒が、小さな雪崩も、大きな雪崩も引き起こせるという驚くべき事実を意味している。一般に、小さな雪崩の回数は多く、また大きな地滑りは稀にしか起こらない-これはベキ乗分布のもつ性質である-と論ずることはできる。しかし、ある特定の雪崩が、小さな微々たるものであるか、あるいは破局的なものであるかをあらかじめ知ることはできない。

砂山-自己組織化臨界現象-そして、カオスの縁
共進化の真の性質は、このカオスの縁に到達することにある。
妥協のネットワークの中で、それぞれの種は可能なかぎり繁栄する。しかし、次のステップで、最善と思われた一歩が、ほとんど何ももたらさないのか、それとも地滑りを引き起こすのか、誰も推定できない。この不確かな世界においては、大小の雪崩が、無情に系を押し流していく。各自の一歩一歩が大小の雪崩をもたらし、坂の下のほうを歩いている人を押しつぶしていく。自らの一歩が引き起こした雪崩によって、自分自身の命が奪われることもあるかもしれない。

秩序とカオスの中間の釣合いが保たれた状態では、演技者たちは、自分たちの活動が後にどういう結果を引き起こすのかをあらかじめ知ることはできない。均衡状態で起こる雪崩の規模の分布については法則性があっても、個々の雪崩については予測不可能なのである。次の一歩が100年に一度の地滑りを起こすかもしれないのだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-08

  なに事も長安は是名利の地  

   医のおほきこそ目ぐるほしけれ  越人

次男曰く、「なに事も」とは次句を呼び込む工夫だとは先に言ったが、仮にここを「暮れかぬる」-春-、「路多き」さらに「医の多き」などと作れば、「名利の地」相応のものを取り出す楽しみを次句から奪うことになり、ひるがえって前句の「帰る」向きもあいまいにする。たぶん付伸ばしただけの三句絡みになるだろう。

越人の思付について云えば、人間の考えることは昔も今もあまり変りがない、というところに可笑しみがある。

はこびはab・ba・ab-表六句-のあと、裏はb-長-a-短-の六巡を以てする。両吟初折の通例である。

露伴は「名利の地たる都の繁華にして、医にかかるも名聞利栄を衒ひ、医もまた門戸を張り勢威を誇るさまを、暗に譏刺せるなり」、と。


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なに事も長安は是名利の地

2008-04-29 14:45:48 | 文化・芸術
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―表象の森― クロスなき CROSSING POINT

一昨日-4/27-の兵庫県立美術館のアトリエで行われた日米のDance Companyによるコラボレーション「CROSSING POINT」を観ての感想を少し書きとめておく。

鑑賞まえ、二つのダンス表現の「似て非なるもの」との謂に若干の期待を抱かせるものがあったが、既視感に満ちたものとは云え初めの角正之君たちの即興はともかく、Ellis Woodの振付作品が始まるや、それは見事に裏切られ、此方の関心は雲散霧消してしまった。

この二つの世界、似て非なるもの、なんぞではない、どこまでも非なる遠く対極に位置する世界、それも非常に低いレベルにおいてのことだから、CROSSING POINTなどという視点からは語りようもない。

Ellis Woodの作品で、観るほどのものがあったのは、冒頭の彼女自身によるSoloだ。妊娠8ヶ月ほどにはなろうという丸い大きな腹部を、あからさまにそれと分かる稽古着の如き衣裳のままに迫り出させ、少々エキセントリックな身振りを交えて動く姿には、たしかに意表を衝いたものがあり、「オイオイ、そんなことまでして、胎児は大丈夫かいな?」などと客席をハラハラさせるなど、ダンスとは異次元のナマの迫力や驚きがあったのだが、成程、こういうものがダンスとして成立しうるということ、それは認めてもよいだろう。

だが、その彼女が4人の踊り手たちに振り付けた作品は、構成も展開も稚拙、構築の論理はDancerの思わせぶりな心象的身振りにしかなく、時折見せる激しい動きはいくら重畳しても表現としての形成力をもたない。4人の衣裳たるや見るも無惨、そのセンスはさらにひどいもので、ジェンダーに拘りつづけるという振付者の、観念上の劇的な意味づけばかりが虚しく空転しつづける舞台だった。

さて既視感に満ちたと云った角君たちの即興のほうだが、彼の仕事はこれまでにも何度か接してきているのでやはりそういわざるを得ない。収穫は、演奏者たち-Saxの坂本公成、Kontrabassの岡野裕和、Voiceの北村千絵-との協働作業がかなり煮詰まってきていると感じさせることだろうか。とくにVoiceにおいては些か煩瑣に過ぎるほどにDancerと共鳴あるいは干渉しあっているが、このあたり飽和状態に達しているかとみえ、今後はむしろもっと削り込んでいく作業が必要ではないかと思われる。

即興のDanceにおいては、あらかじめの決め事が意外に多いとみえ、意想外の展開へとはこぶことはなかったのではないか。それゆえ表象の世界は予定調和的、波乱の契機は伏在していたとしてもそれが顕わになってくるような場面はなかった。角正之をシテとし、二人の女性-小谷ちず子と越久豊子-を脇やツレのごとくみえてしまう三者の関係性が、この場合問題だろう。彼らの場合、Trioで臨むより、各々Duoで試みたほうが世界はおもしろくなるという気がする。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-07

   風にふかれて帰る市人   

  なに事も長安は是名利の地  芭蕉

次男曰く、場を見究めて二句一章としている。

逆-理由-付気味に読める作りだが、はこびは初裏の入に当り、折立にふさわしい句姿と起情を必要とする。むしろ「なに事も」と観相化して次句を呼び込んだところが工夫、と見るべきだ。「市」とは長安に立つ市で、長安へ帰っていくわけではない。

「白氏文集」の「張山人ノ嵩陽ニ帰ルヲ送ル」感傷詩に曰く、「‥、四十余月長安に客たり、長安は古来名利の地、空手にして金無きものは行路難し、朝に九城の陌-ミチ-に遊べば、肥馬軽車 客を欺殺-ギサイ-す、暮に五侯の門に宿れば、残茶冷酒 人を愁殺す、春明門外城高き処、直下 便ち是れ嵩山の路、幸ひ雲と泉の此身を容るる有れば、明日は君-白楽天-を辞し且帰り去らん」

延宝8(1680)年冬の句文に、芭蕉は既にこれを引いている。「こゝのとせの春秋、市中に住侘て、居を深川のほとりに移す。長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し、と云いけむ人-張山人-のかしこく覚え侍るは、この身のとぼしき故にや、

  しばの戸に茶を木の葉掻くあらし哉」

このとき芭蕉、37歳だった、と。


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風にふかれて帰る市人

2008-04-28 21:48:00 | 文化・芸術
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―温故一葉― 田中勝美さんへ

晩春の候、室生寺や当麻の石楠花、談山神社や壷坂の山吹も満開とか、花だよりに誘われ、そぞろ野山散策のひとつもしたくなる頃です。

ご夫妻にて2月の京都アルティにわざわざご到来戴いての御目文字以来のご無沙汰も、恙なくお過ごしであろうと思いきや、この4月早々、なんと胸部大動脈瘤の大手術をなされたと伝え聞き、びっくり仰天しましたが、術後の回復もすこぶる順調に、退院の予定も早まったと併せ聞き、ひとまず安堵しているような次第ですが、聞けば、この3月末、目出度く退職、永年の勤務からようやく開放され、ほっと一息つく暇もなく、3.4日後には症状の発覚、即手術に到ったとの事。それにしても、まこと一寸先は闇、災厄というものは前触れもなく訪れるものでありますネ。

此の度のこと、誰よりも貴女ご自身が一番驚き且つ衝撃に襲われたのではなかったでしょうか。また京都の折、初めてお逢いしたご主人でしたが、この間の彼の心労もさぞ大変なものだったでしょう。遅ればせながらお見舞いの辞とともに退院の朗報を言祝、向後の快方を心より念じております。

一昨年の6月でしたか、舩引君が住職を務める福島区の蓮光寺の法話に美谷君が登場するとあって拝聴しに出かけたのが、貴女と親しく言葉を交すようになった機縁となり、その後15期の幹事会などでもご一緒するようになりましたが、顔ぶれも多彩に賑やかなのは結構だとしても、船頭多くしての喩えどおりいささか迷走気味の会議には、貴女のような一言居士は寸鉄人を刺すが如くにしてまことに貴重なもので、折々に此方も助けられてきた感があります。

傍ら、長野君音頭の古都めぐりも賑わいを増し活況のようだし、片山さんや内山さんたちは写真のほうにずいぶんと凝り型のようだし、ゴルフの会もすっかり定着しているようだしと、それぞれ思い思いに好みのほうを向いておのが林住期を謳歌しているものともみえ、善哉々々。

これも03年秋以来の、なにやかやと試行錯誤の積み重ねが攻を奏したものと受けとめ、本体-幹事会-のほうは、しばらくはこのままゆるりゆるりと歩めばよいとのんびり構えていますが、夏から秋にかけてのあたり、一度くらいは一同に会すべしという声も起きようから、その折は是非に元気な姿でお出まし願います。

なにはともあれ、術後の養生、くれぐれも御身大事とお努めあるように。

 08戊子 卯月穀雨

田中勝美さんは高校の同期。同窓会仲間ではめずらしくDanceCafeなどに関心を示して観に来てくれるようになっていた。
胸部大動脈瘤は自覚症状が乏しいらしく、破裂した場合の多くは死に到ると云われる。彼女の場合胸部圧迫などの自覚症状からか破裂前に発見され、直ちに8時間余りの手術、翌日また再手術といった大手術のすえ、ことなきを得たらしい。それが定年退職後の第二の職場もこの3月末ようやく辞して3.4日後のことだったというから、この巡り合わせも驚きだが、診察を受けるのが遅れていたらどうなっていたか、いわば不幸中の幸い、運よく命拾いをしたにひとしいともいえようか。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-06

  瓢箪の大きさ五石ばかり也  

   風にふかれて帰る市人   芭蕉

次男曰く、夕顔の忘れ形見のことはひとまず措いて、話を荘子へ持っていった越人の狙いは、「四山」瓢のよろしさひいてはその持主の心映えに寄せる賞讃だろう。それを含として、無用の用の極意を教えて欲しいと問掛けている。

答は、「子-恵子-、大樹有りて其の用無きを患ふ。何ぞ之を無何有-むかう-の郷、広漠の野に樹-う-えて、彷徨乎として其の側に無為、逍遙乎として其の下に寝臥せざるや。斤斧に夭-き-られず、物の害-そこな-ふもの無し。用ふべき所無ければ、安-いづくん-ぞ困苦するところ有らんや」-逍遙遊篇-。

先に続いて、規矩墨縄にもあたらぬ大儒についての問答だが、この句の作りにはもう一つ拠り所がありそうだ。

「唐土に許由といひける人の、さらに身に従へる貯へもなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさごといふものを人の得さしたりければ、ある時、木の枝にかけたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしがましとて捨つ。また手に結びてぞ水も飲みける。いかばかり心のうち涼しかりけん。」

「徒然草」第十八段に載せる「蒙求-もうぎゅう-」の説話である。許由は潁川に耳を洗い、箕山に隠れた賢人、一方、素堂が芭蕉に与えた銘は「一瓢 黛山より重し、自ら笑って簑山と称す、‥」。

許由にはなれぬが、「風に吹かれ」るその瓢箪ぐらいになれる、と芭蕉は云いたいらしい。栽ち入れて翻したところが諧謔のみそだ。「市人」が商估-しょうこ-か客かはわからぬが、無用の大瓢をとりまく凡俗の「かしがまし」さは自ずと言外に現れる、と。


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瓢箪の大きさ五石ばかり也

2008-04-26 22:17:33 | 文化・芸術
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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-05

   理をはなれたる秋の夕ぐれ  

  瓢箪の大きさ五石ばかり也   越人

次男曰く、初折五句目は最初の月の定座だが、ここは雑躰である。

秋の定座で始まった歌仙では月の座を第三、脇に上げ、季続も通例三句目まで、稀に四句目に伸ばすことがあっても、発句以下五句秋という例を見ない。月を引き上げたことが無意味になる。

夕顔・瓢の花は晩夏で、実は初・仲秋だが、云うところの「瓢箪」が生-な-り物でないことは一読してわかるだろう。といって性急に玉鬘の身の上をたねにするようでは、俤取りの楽しみはなくなるから、越人は、たくみに「荘子」を持ち出して、「理をはなれたる」を無用の用に移し、俳としている。

「恵子、荘子に請ひて曰く、魏王我に大瓢の種を貽-おく-れり。我之を樹-う-うるに、成りて実ること五石、以て水瓶を盛れば其の堅-おも-きこと自ら挙ぐること能はず。之を割いて以て瓢と為すに、即ち瓢落-こぼ-れて容るる所なし。云々‥‥」-逍遙遊篇-

後年、珍碩-酒堂-編「ひさご」-元禄3年仲秋刊-の序を請われたときにも、越人はこの話を引いて作っている。酒好だったから瓢問答はとりわけ気に入っていたのだろうが、じつは手本がある。

「顔公の垣穂に生へるかたみにもあらず、恵子が伝ふ種にしもあらで、我にひとつの瓢あり。是をたくみにつけて花入るる器にせむとすれば、大にして規にあたらず。ささえ-小竹筒-に作りて酒を盛らむとすれば、形見る所なし。ある人の曰く、草庵のいみじき糧入べきものなりと。まことによもぎの心あるかな。やがて用ゐて、隠士素翁に請ふてこれが名を得さしむ。そのことばは右にしるす。其句みな山をもて送らるるがゆゑに、四山とよぶ。中にも飯顆山は老壮の住める地にして、李白が戯れの句あり。素翁李白に代はりて、我貧を清くせむとす。かつ空しきときは、ちりの器となれ。得るときは一壺も千金をいだきて、黛-タイ-山も軽しとせむこと然り。」

  ものひとつ瓢はかろき我世かな  芭蕉

貞享3.4年の成稿らしい。芭蕉庵の瓢をいささか伝説的にした有名な句文だが、「瓢箪の大きさ五石ばかり也」と作って、蓬心の謂れや飯顆山の故事が話題にならなかった筈はなく、そもそもこの両吟の興のきっかけも、越人が深川で初めてその実物を手に取った「四山」だったのではないか、とさえ思われてくる。

折もよし、ちょうど後の月見-9月十三夜-のころだったから、併せてこれを玉鬘に執り成して夕顔の恋を偲ぼう、というぐらいのことは誘い誘われて十五夜を共にしてきた俳諧師なら容易に思い付く。更科の月見に続いて翌年の敦賀の月見-ほそ道-でも、芭蕉は等栽を誘って今源氏をきめこんでいる、と。


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理をはなれたる秋の夕ぐれ

2008-04-24 12:53:57 | 文化・芸術
Crossing_point

―四方のたより― CROSSING POINT

角正之君からDance Performanceの案内がきている。
New York在のEllis Wood Dance Companyとのコラボレーション・イベントだそうな。
主催は兵庫県立美術館アートフュージョン実行委員会とあり、会場を美術館アトリエ-1としている。日時は4月27日、午後3時30分開演の1回のみ。
チラシには、二つのだんす表現の、似て非なるものの、クロッシング・ポイント、とある。
Ellis Woodのほうは振付作品でタイトルが「Falcon Project」、テーマはジェンダーについてということらしい。
一方、角正之のほうはもちろん即興Collaborationだが、演奏にSaxの山本公成とKontrabassの岡野裕和が参加、音と動きの即興対話 、「Body Tide-身体潮流-」と題している。
角君たちの世界だけでなく、未知の振付家の作品にも接しうる機会とあれば、少なからず興も湧く。
早めに稽古をきりあげてひさしぶりに出かけてみようかと思っている。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-04

  藤ばかま誰窮屈にめでつらん  

   理をはなれたる秋の夕ぐれ  越人

次男曰く、三句で留めてよい秋を四句まで伸している。
しかも、打越に「この比の月」とあるのに、かさねて「秋の夕ぐれ」と、気分にたよった季節の印象を以てしたもつれかたが気になる。

「秋の夕暮れ空の気色は色もなく声もなし。いづくに如何なる故あるべしとも覚えねど、すゞろに泪こぼるゝが如し」-長明・無名抄-。

秋晩を理外と眺める感は越人ならでも覚えるが、藤袴をなぜ夕暮と結んだのだろう。と思って次句-これも越人である-に目を遣ると、「瓢箪の大きさ五石ばかり也」とあり、瓢箪は夕顔の実だということに気がつく。玉鬘は夕顔の娘である。「誰窮屈に」と問掛けられて、棟梁の俳諧歌に思及ばなかった筈はなく、「秋の夕ぐれ」の見定めもまずそのあたりからと読んでよいが、越人は、「源氏」好みの客に対する亭主の持成しの趣向にも気付いているらしい。「秋の夕ぐれ」の「夕」とは、師の「藤ばかま」の句が玉鬘つまり夕顔の娘のうえをかすめている、と読取った合図である。そう覚らせるように、次句を「瓢箪の」と起し二句一意の続としている。

両吟という形式は、長・短句の均分をはかるために、座順の取替を必要とする。したがって独吟による付合の箇所がいくつか生れるが、とかくこれは二句同根の発想に嵌りやすい。越人の二句作りも、「瓢箪」の執り成し、解釈のいかんによっはその危険があるだろう。

「秋の夕ぐれ」がたんなる時分ではなく、俤を立たせるための人情含の表現だとわかれば、「この比の月」-打越-とのもつれもこだわらなくて済む。手法、古風といえば古風だが、越人らしいしゃれた縁語の裁ち入れ方である、と。


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