山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

逢へば別れるよしきりのおしやべり

2005-05-27 13:58:22 | 文化・芸術
N-040828-028-1
   「In Nakahara Yoshirou Koten」

<古今東西> 

<マルクスの愛・贈与論>

はじめにことわりおくが、恥ずかしながら、私はこの年に至るまで、マルクスの著作を直かに読んだことはない。すべて誰かの書を通して、ということはその書き手の批評や解説の類、鑑識の眼を通してであり、その書き手の数も十指に余りあろうが、それらの集積のなかでマルクス像を結んできたにすぎない。いくら振り返っても、遠い昔に、誰でも知っているエンゲルスとの共著「共産党宣言」を読みかじったくらいの体たらくなのだが‥‥。

初期マルクスの「経哲草稿」には、愛に触れたこんな一節があるとは些か不意をつかれた感がした。
「きみが愛することがあっても、それにこたえる愛をよび起すことがないならば、換言すればきみの愛が愛として、それにこたえる愛を生み出すことがないならば、きみが愛する人間としてのきみの生活表現によって、きみ自身を、愛された人間たらしめることがないならば、きみの愛は無力であり、一つの不幸なのである。」


この言を引いていたのは、中沢新一氏のカイエソバーシュ-3の「愛と経済のロゴス」
これはまさしく愛の互酬性、贈与としての愛の言説ではないか、と。
自分自身を愛するのではなく、他者を愛することによって、かえって自分自身が愛される人間になるという、愛についてのこの謂いが格別特殊なものでもなく、ごく自明の言質というべきなのだが、マルクスの言というだけで、私が抱いてきたマルクスへの既視感を逸脱して、私にはかなり新鮮に映るのだから奇妙なことではある。


本書で中沢は「資本論」に結実していくマルクスの思考は、その出発の時点では贈与論の思考をあらわに表に出しながら展開されていたものとし、マルクスは最後まで贈与論的な思考に支えられていたと想定したうえで、
マルクスの思考の背景に流れる、愛の互酬性、贈与としての愛を読み解き、貨幣の交換原理に互酬と純粋贈与の贈与論を対置させ、すでにグローバル化してしまった資本主義社会に対抗し、これを突き抜けうる人間世界の理論を構築しようとする。


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田植唄もうたはず植ゑている

2005-05-25 13:44:23 | 文化・芸術
<言の葉の記>

<早苗とる-田植え>

   白河の関こえて
 風流のはじめや奥の田植うた 芭蕉


日本列島はいま田植えの真っ盛りだろう。
彼方此方からの田植えニュースがひつきりなしにある。
古歌では田植えのことを「早苗とる」と言っている場合が多いようで、
その古意の面影を宿して芭蕉の詠んだであろう句が

 早苗とる手もとや昔しのぶ摺  芭蕉

田植えが村挙げての行事であり、神事でもあった頃の田植えの指揮者は、
祭りの故実に通じ、数百章もの田植え歌をそらんじていなければ勤まらなかった、
というから今の世では想像しがたいような話だ。


 つれよりも跡へあとへと田植かな  千代女

 勿体なや昼寝して聞く田植唄  一茶

今に残る田植え歌を聞かせてくれるサイトを探してみた。
都会のコンクリートジャングルの中で、
ひととき田植え風景を連想しながらお聴きになっては如何。


「鹿児島・喜界島の田植え歌」
「広島・安芸地方の原田はやし田の半掛という田植え歌」


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源平などの名のある人の事を、花鳥風月に作り寄せて

2005-05-24 12:46:32 | 文化・芸術
N-040828-035-1
    「In Nakahara Yoshirou Koten」

風姿花伝にまねぶ-<15>

<物学(ものまね)条々-修羅>

 これ又、一体の物なり。よくすれども、面白き所稀なり。さのみにはすまじき也。
 但、源平などの名のある人の事を、花鳥風月に作り寄せて、能よければ、何よりもまた面白し。
 是、殊に花やかなる所ありたし。これ体なる修羅の狂ひ、やゝもすれば、鬼の振舞になる也。
 又は、舞の手にもなる也。それも、曲舞懸りあらば、少し舞懸りの手遣ひ、よろしかるべし。
 弓・箭(やな)ぐひを携へて、打物をもて厳(かざり)とす。その持ち様・使ひ様を、よくよく伺ひて、その本意を働くべし。
 相構(かまえて)々、鬼の働き、又舞の手になる所を、用心すべし。


阿修羅-asura-、略して修羅は、六道説において、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に対し、修羅・人・天の三善道と配され、元来、善神を意味していたが、帝釈天などの登場とともに彼らの敵と見做されるようになり、常に彼らに戦いを挑む悪魔・鬼神の類へと墜とされてゆく。
ある仏説では、帝釈天宮に攻め上った阿修羅王が日月をつかみ、手で覆うことから日蝕・月蝕が発生するのだと説かれている。


修羅物とは、世阿弥の父観阿弥の頃より、「よくすれども、面白き所稀なり。さのみにはすまじき也」とあるように、曲は多彩を誇り、数々演じられるけれど、あまり評価は高くなかったようである。
しかし、世阿弥は、修羅物としての「軍体」の新しき創出を次々と世に送り出す。
それは、南北朝内乱の余波なお鎮まらぬ「太平記」的な背景からくる時代的要請であったろうし、
討死にという不覚の一瞬に凝固する、あり余る生への執着を残したまま冥界に去っていった死者たちの無念の思いへの関心は、多くの人々の共有するところ故であろう。
今日残されている修羅能の名曲には、世阿弥の作が多い。
世阿弥の発見は、「源平などの名のある人の事を、花鳥風月に作り寄せて、能よければ、何よりもまた面白し」によく顕れている。
世阿弥はのちに「三道」の中でも、軍体の能は「殊に殊に、平家の物語のまゝに書くべし」とまで言っている。
「忠度」「実盛」「頼政」「清経」「敦盛」などは世阿弥の自信作であったろう。
なかでも「忠度」を自ら「上花」(秀作の意)と評価しているあたり、世阿弥の自負のほどが覗える。


「これ体なる修羅の狂ひ‥‥」以下、
とかく「修羅の狂ひ」は「鬼の振舞」にもなりやすく、また、逆に花やかにしようとすると「舞の手」になりやすく、とちらかへ偏りがちなものだ。装束に弓箭や太刀長刀を帯びているから、その持ち方や使い方をよほど熟練して働かせなければ、曲舞がかりの拍子に乗る動きもなかなか難しく、少し舞懸りの手の工夫が加味されるのがよいだろう。よくよく注意して、鬼の働きにも偏らず、舞の風流にも偏らず、工夫せよ。
というほどの意か。


この修羅能における「軍体」の演技について、のちの世阿弥は、「砕動」と「力動」という対照的な語を用いて、より深まりをみせる
砕動とは、心を砕いた所作、人間的な心をその動きにしっかりと込めた所作とでもいうべきか。
鬼の所作として大仰な派手々々しい表現の力動に対置し、砕動を用いて芸の工夫とする。
さらには、後日の鬼の段に再出しようが、鬼の一風体としての「砕動風鬼」をも生み出すことになる。


――参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫


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ひよいと穴からとかげかよ

2005-05-21 11:28:12 | 文化・芸術
靖国問題

<古今東西> 


<靖国問題を根源から問う>

中国や韓国から歴史認識問題や首相の靖国神社公式参拝で厳しくも激しい批判を浴びるなか、就任以来の高支持率も低落の一途をたどり今やただのガンコおやじに成り下がりつつある小泉首相は、なおも参拝の継続に意欲を滲ませている。
そんな時期にタイミングよく発刊(4/10付)され、朝日新聞や毎日新聞の書評で採り上げられていたのが、
ちくま新書「靖国問題」である。
本書を読了して「靖国」」のあまねく日本国民の心性への呪縛の深さがいやというほど思い知らされる。
著者高橋哲哉の専門は哲学、20世紀西欧哲学を研究し、政治・社会・歴史の諸問題を論究。最近、「NPO前夜」を共同代表として立上げ、季刊「前夜」(第1期1号~3号既刊)において主筆的立場で健筆を奮っているようだ。
本書「靖国問題」をひもとけば、靖国神社とは如何なる存在か、その歴史的背景、日本国内を布置とした場合と東アジア全体を布置とした場合との差異など、「靖国」を具体的な歴史の場に置き直しつつ、その機能と役割を徹底的に明らかにした上で、著者流の哲学的論理で解決の地平を示そうとしている。
朝日書評で野口武彦氏は「ナショナリズムと国際感覚のはざまで考えあぐみ、正直なところ、戦死者を祀るのは自然だが、自分が祀られる事態は迎えたくないと感じているごく平均的な日本人が、各自と靖国とのスタンスをさぐるのに便利な一冊である」と。また毎日の書評子は「靖国問題がいかに感情的な問題かを述べたあと、著者は極めて論理的に、靖国がどのような装置であるかを明らかにしてくれる。難しい複雑な問題だ、と思われている靖国問題が、こんなにすっきりわかるのは不思議なくらいだ」と書くように、骨太な労作の書である。
本書を案内するには、冒頭の「はじめに」において本書構成の各章について著者が示してくれているのが役立つだろう。
以下引用する。


第一章の「感情の問題」では、靖国神社が「感情の錬金術」によって戦死の悲哀を幸福に転化していく装置にほかならないこと、戦死者の「追悼」ではなく「顕彰」こそがその本質的役割であること、などを論じる。
第二章の「歴史認識の問題」では、「A級戦犯」分祀論はたとえそれが実現したとしても、中国や韓国との間の一種の政治的決着にしかならないこと、靖国神社に対すね歴史認識は戦争責任を超えて植民地主義の問題として捉えられるべきこと、などを論じる。
第三章の「宗教の問題」では、憲法上の政教分離問題の展開を踏まえた上で、靖国信仰と国家神道の確立に「神社非宗教」のカラクリがどのような役割を果たしたのかを検証し、靖国神社の非宗教化は不可能であること、特殊法人化は「神社非宗教」の復活にもつながる危険な道であること、などを論じる。
第四章の「文化の問題」では、江藤淳の文化論的靖国論を批判的に検証するとともに、文化論的靖国論一般の問題点を明らかにする。
第五章の「国立追悼施設の問題」では、靖国神社の代替施設として議論されている「無宗教の新国立追悼施設」のさまざまなタイプを検討する。不戦の誓いと戦争責任を明示する新追悼施設案はどのような問題を抱えているのか、千鳥ヶ淵戦没者墓苑や平和の礎をどう評価するか、などを論じる。


著者の反植民地主義思想は本書において徹底して貫かれている。

朝日新聞書評-2005.05.15付 評者:野口武彦
毎日新聞書評-2005.05.15
NPO「前夜」HP


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はれたりふつたり青田になつた

2005-05-20 08:42:40 | 文化・芸術
biwa-1 
「奥村旭翠さんの琵琶演奏」

<四方の風だより>


<プレ花の宴:筑前琵琶の弾き語り>

大阪文化団体連合会(略称・大文連)が、加盟参加の邦楽・邦舞団体の協力のもとに、「花の宴」と題する伝統芸能の祭典ともいうべきイベントが6月11(土)、12(日)の両日、豊中市のアクア文化ホールで行われる。在阪の邦舞・邦楽界で活躍している団体が大挙して出演、華やかに艶を競う。毎年この時期に開催されもう30年近く続けられている年期のいった行事でもある。
ここで紹介するのはこの「花の宴」のプレ企画として、今夕(5/20)開催される
「筑前琵琶の楽しみ」と題された琵琶の演奏会
会場は、豊中市立伝統芸能館 Tel 06-6949-4646
阪急宝塚線「岡町」駅から徒歩3分。大石塚・小石塚古墳の手前にある。
開演は、午後6時30分  入場は無料
出演は奥村旭翠と琵琶の会
演目を列挙しておくと
 1.「湖水渡り」   新家旭桜
 2.「大楠公」    田中旭謡
 3.「間垣平九郎」  奥村旭翠栄
 4.「衣川」     野田旭勝
 5.「敦盛」     奥村旭翠


琵琶界の人間国宝・山崎旭翠の後継と目される奥村旭翠の弾き語り芸は必見の価値あり。
お近くにて心惹かれる方はどうぞお出かけあれ。



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