山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

夕暮の雲飛び乱れ荒れて吹く‥‥

2005-11-30 16:01:31 | 文化・芸術
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-今日の独言-
猿も環境で鳴き声が変わる

 今朝は冬本番もまぢかと思わせる冷え込み。ベランダのガラス戸を開けると冷たい風が吹き込んで思わずブルッと身を震わせた。
昨日の報道だったか、京大霊長類研究所による長年の実験調査で「猿にも方言、住環境で鳴き声の音程変化」という記事が紹介されていた。屋久島の野生ニホンザルを愛知県大平山に集団移住させて、両者の生態を十年かけて調査したところ、鳴き声の高低に著しいほどの変化が見られたとのこと。鳴き声の変化が遺伝よりも学習において身につくことの証明となり、ヒトの言語のルーツを解く手がかりにもなるとされている。その階梯にひろがる距離はまだまだ遠いだろうが、肯ける説ではある。
それはそれとして、大平山のサルたちは屋久島のサルたちに比べてずいぶん鳴き声が低く変化しているらしいが、ぐっと冷え込んだ今朝の寒空に、どんな悲鳴をあげたろうか。きっと低音化した鳴き声もその時にかぎっては一段と高くなったにちがいない。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-1>
 たれぞこの昔を恋ふるわが宿に時雨降らする空の旅人  藤原道長

御堂関白集。康保3年(966)-万寿4年(1027)。平安朝、摂関政治全盛期に君臨し、我が世の春を謳歌。
「嵯峨野へ人々と連れ立って行った折、風情も面白く時雨が降り出したので、雨宿りかたがた水を飲みに、とある家に入って、土器(かわらけ)にこの歌を書いた」との長い詞書がある。
邦雄曰く、朗々として丈高い調べ、殊に初句の呼びかけ、結句の七音、美丈夫の立ち姿を遠望するかの趣きは、歌の位というべきか、と。


 夕暮の雲飛び乱れ荒れて吹く嵐のうちに時雨をぞ聞く  伏見院

玉葉集、冬、詞書に、五十番の歌合せに時雨を詠ませ給うける。
文永2年(1265)-文保元年(1317)。持明院統・後深草天皇の第二皇子、大覚寺統・後宇多天皇の皇太子となり、23歳で践祚。和歌を好み玉葉集勅選を命ず。和歌三千余首を自ら編集した自筆の御集が分散され「広沢切」と呼ばれ今に伝わる。
邦雄曰く、簡潔を生命とする短詩形に、無用とも思われるほどの描写用語、殊に動詞を連ねて、その錯綜から生れるただならぬ響きを以て、歌の心を如実に表現しようとする、これも玉葉歌風の一典型。「飛び・乱れ・荒れ・吹く・聞く」が生きているかどうか。「雲・嵐・時雨」と慌しく推し移る自然現象が、心の深みまで映しているか否かは疑問、と。


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言ひ渡るわが年波を初瀬川‥‥

2005-11-29 09:46:48 | 文化・芸術
041219-002-1-1

今宵は四方館Dance-Cafeにて

即興によるDance-PerformanceFree-Talkの一夜

四方館 Dance Cafe
  in COCOROOM Osaka-Festivalgate 4F

    Date 11.29 (Tue) 19:00 Start
    1coin(500) & 1drink(500)

-Improvisation-
  Transegression ‐わたしのむこうへ
     フロイトの無意識を
     「他者の語らい」と読み換えたラカンによれば
     私の欲望は他者の欲望であり
     無意識とは、厳密にいえば、他者の欲望の場
     他者による止むことなき語らいの場、となる


        Dancer Yuki Komine , Junko Suenaga
        Pianist Masahiko Sugitani
        Host Tetsu Hayashida


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雜-2>
 けぬなり賀茂の河瀬に千鳥鳴く今日もはかなく暮れむとすらむ
                                   圓昭


後拾遺集、雑。平安中期、十世紀の人。勅撰集にこの1首のみ。詞書に、中関白(藤原道隆)の忌に法興院に籠りて明け方に千鳥の鳴き侍りければ。
邦雄曰く、朝の歌に「今日もはかなく暮れむ」とは、哀傷の意も含んでいるが、初句切れ、三句切れの淡々とした侘しい調べも、特殊な余情を漂わせ、上・下句の脈絡も無類の味わい、と。


 言ひ渡るわが年波を初瀬川映れる影もみつわさしつつ
                                   顕昭


六百番歌合、老恋。生没年不詳、平安末期の人。藤原顕輔の猶子。歌論を能くし、新古今風形成期にあたり、俊成・定家らと激しく対立した存在。初瀬川は泊瀬川に同じ、三輪山の麓を流れ大和川へと合流する。「みつわさす」は「三輪さす」で、老いて腰が曲り三段に屈折した状態をいい、転じて耄碌(もうろく)したこと。
邦雄曰く、年甲斐もなく意中の人に言い寄ったものの、自らの頽齢隠れもなく、祈願の果ての初瀬川に映る影もひどく老けてしまって見る影もあらばこそ、と。


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空のふかさは落葉しづんでゐる水

2005-11-28 10:21:23 | 文化・芸術
ichibun98-1127-091-2
Information<四方館Dance Cafe>


<行き交う人々-ひと曼荼羅>

大阪市会議員奥野正美とのこと(承前)

 ともかくも翌年(‘87:S62)の4月、出足の遅れた候補者であったにも拘わらず、本番の選挙戦に突入した後半の追い込みであれよあれよという間に知名度を上げ、初挑戦で当選してしまったのだ。得票は9000票を越えて、港区内の議席三名の2位当選。時に38歳、若きパフォーマーの見事な勝利であった。選挙戦のなかで、実は私も選対本部から依頼を受け、あるイベントの演出をしている。さらには街頭宣伝のウグイス嬢に劇団の女性を送り込むという協力もした。しかし、全電通の組織内候補であり、選挙の実態はといえばどこまでも組合の動員による組織型の選挙であった。表層は候補者の新鮮な魅力でブームを呼び、裏へ廻れば全電通の出身支部が動員力にものをいわせてガッチリと支えていたのである。

 そしてさらに一年を経て、88(S63)年の5月、私は市会議員となった彼の事務所である港市民相談センターに身を置くようになる。高校を出て大学へも進んだものの、演劇や舞踊などという、古めかしい謂いならと蔑まれ身すぎ世すぎもままならぬ道を歩き、我が身を世間からずらしつづけてきたばかりの四半世紀を、あらためてというより正確には初めて世間という坩堝のなかへ投じたのであった。当時の私にとってみれば、そのような180度の転身をするに充分な理由なり背景はあったのである。以来、2000(H12)年8月に身を退くまでの丸12年を、私は港市民相談センター事務局長という形で、日々来訪する相談者への応対や、議員の後援会づくりや、或は情宣のための会報づくりなど、煩瑣なほどのさまざまな人々と雑務のなかにどっぷりと浸りつづけ、4年に一度必ずめぐってくる選挙戦を三度まで陣営を率いる立場で経験する仕儀となったのである。だが永年の馴染みとはいえ、議員となった彼と私の二人三脚に、この12年はあまりに長すぎたように思われる。私自身にとっては初めての、彼にとっては二期目の選挙を勝ち抜くまでの三年間がもっとも充実した期間であり、その間に私の立場から可能なかぎりの手立てというかプレゼンスは出尽くしたといっていい。いわば設計図と実践の見取り図はほぼ出来上がり、あとはこれを踏襲していくことのみが課題となって日々が費やされてゆく。彼が市会議員にとどまるかぎり、日々を支える私にはだんだんと退屈で鮮度のない味気ないものになってゆく。ゆっくりとだが私は自分の身の退き時を本気で考えるようになる。こうして長い年月を経た紆余曲折の出逢いと別れの一幕に終止符を打つべき時が準備されてゆく。

 この稿をひとまず閉じるに際し、もう15年も遡る古いものだが、
1990(H2)年1月、後援会向けカレンダーに12の句を配し「おくの正美12月」として掲載したものを書き留めておく。
いわゆるイメージ戦略としての市会議員奥野正美像づくりのため作したものである。


 1月 四方の空澄みわたりたれ’90大阪
     -21世紀へつらなる’90年代の幕開け、清新の気を漲らせて大阪の未来へ


 2月 氷る夜やみなとみらいに熱き心
     -支援者との心を結ぶ会報「みなとみらい」を今年も必ずお届けします


 3月 重き税民の痛みに春告げむ
     -確定申告の月です、消費税の痛みが重なって庶民は泣いています


 4月 花を愛で花に集いて平らか成らむ
     -花博がいよいよ開催されます、平和のシンボルイベントになるように


 5月 五月晴れ港めぐりてひろがる出会い
     -広報船「水都」を利用した港めぐりが地道に出会いをひろげていきます


 6月 夕映えの弁天新しき活気満つ
     -弁天駅前に登場するナウい遊空間、港のターミナルが大きく変貌する


 7月 満天の星の輝きのごと我が仲間
     -いろんな輝きを持ったたくさんの仲間、支援のみなさんが仲間です


 8月 海に遊び魚に学ぶ生命かな
     -天保山に誕生する大規模な水族館は「海遊館」と名づけられました


 9月 天を突けサンセットパーティに響く歌声
     -4回目を迎えるサンセット、後援会最大のイベントに育てましょう


 10月 きりぎりす身は三歳の市政のおさな児
     -機織女の機打つ音のように一心に鳴きつづける虫に我が身を映して


 11月 行く秋やふれあう温みの旅の友
     -露天風呂にひたりながら行く秋を惜しむ、和気藹々の旅行会です


 12月 木枯らしの街を走って呼ばむや春を
     -来春は統一地方選挙、二期目クリアーへ懸命に港の街を走りつづけます


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結ぶとも解くともなくて‥‥

2005-11-27 18:43:19 | 文化・芸術
Nakahara050918-022-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-
青い栞

    蛙等は月を見ない
    恐らく月の存在を知らない


 紅葉の見頃は今日あたりが最後の休日となるのだろうが、稽古のためそうもいかない。今年もまた出かける機会を失してしまったのはいかにも残念だが、明後日にDance-Cafeを控えているのだから致し方ない。
 午後2時半頃、帰宅してすぐに市長選挙の投票に行く。そういえばさすがに今回の期日前及不在者投票が6万7797人と前回(5万5762人)を上回っている由だが、財政再建という難題を抱えた出直し選挙という名分には選挙線自体ほど遠い低調さだったから、投票に行く前から結果に対する期待感はほとんどないにひとしい。考えてみれば奇妙な話だ。その行為に対してすでに意味を喪失してしまっているのにそれを為すというのは。この白々しさは愚劣きわまるものではないかとさえ思う。投票を済ませて青い薄っぺらな栞を手にしたとき、一瞬、虚しさが身体を突き抜けた。


    月は彼等を知らない
    恐らく彼等の存在を想ってみたこともない 
                     -中原中也「未刊詩篇」より-


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-3>
 妹等がりわがゆく道の細竹(しの)すすきわれし通はばなびけ細竹原
                                  作者未詳


万葉集、巻七、雑歌、草を詠む。「妹等(いもら)がり」は「妹許(いもがり)」と同義、愛しい人の許への意。細竹は篠。我れに靡けとばかり、肩で風切るようにして、腰の辺りまで伸びた青い篠原を、ただ愛する人に逢いたさに、駆けるばかりに急ぐ若者の姿が眼に浮かぶような一首。
邦雄曰く、結句「なびけ」の命令形も殊のほか爽やか。「われ」と「しの」の重複も弾みを与えて効果的。読後に、篠原が撓り、男の通った跡が水脈(みお)を引くかに、白々と光る光景も見えようか、と。


 結ぶとも解くともなくて中絶ゆる縹(はなだ)の帯の恋はいかがする
                                   大江匡衡


匡衡集。平安中期、10世紀後半から11世紀初期の人。小倉百人一首の「やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな」を詠んだ赤染衛門を妻とし、碩学の誉れ高い大江匡房の曽祖父にあたる。
「縹」は薄い藍色、醒めやすい色なので色変わり、心変わりの意味を持つ。望んでも結ばれず、願わずとも繋がれることもあり、まこと人の心は思うにまかせぬもの。なんら手立ても施さずままに、いつのまにか心変わりして疎遠になってしまったこの仲はどうしたものか。
邦雄曰く、結句「恋はいかがする」と字余りの余勢で、にじり寄るかの重みを感じさせる。出典は催馬楽の「石川」に「いかなる帯ぞ、縹の帯の、中は絶えたる」云々と歌われる、と。


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やつと郵便が来てそれから熟柿のおちるだけ

2005-11-26 19:17:50 | 文化・芸術
ichibun98-1127-018-1
Information<四方館Dance Cafe>

<行き交う人々-ひと曼荼羅>

大阪市会議員奥野正美とのこと

 前市長関淳一の突然の辞任で出直し選挙となった大阪市長選も盛り上がりを欠いたまま明日(27日)の投票日を迎えるのみとなったが、この選挙戦を奥野正美がどういう思いで見つめてきたのか、些か複雑なものがあろうとは想像できるものの、ずいぶんと遠ざかってしまった今となっては私のよく知るところではない。彼は現在、港区選出の大阪市会議員である。会派は民主党市民連合に属し、既に5期目のベテラン議員であり、本年は会派の幹事長を務めているから、このところの関市長辞任劇による市長再選挙騒動でTVの報道番組にもちらちらと顔を出していた。私の4歳下だから昭和23年生れの57歳。いわゆる団塊の世代の真っ只中、もっとも人口過密の生れ年である。

 彼が私の眼の前に登場したのは、ほぼ40年前、彼がまだ高校三年だったと記憶する。私が劇団9人劇場を立ち上げたのはいまからちょうど40年前(65:S40)の9月だった。創立メンバーが偶々9人だったせいもあるが、9という数字は無限に通じるという意味合いもあって、師の神沢が薦めてくれたものだった。そのメンバーのなかにたったひとり、中尾哲雄というまだ現役の高校生が居た。彼は私の出身高校と同じで演劇部の4年後輩でもあった。その彼の幼馴染みであり中学時代の親しい仲間のひとりが奥野正美で、たしか劇団が二年目に入った頃のある日、中尾に連れられて稽古場にやってきたのが初対面だった。奥野もやはり高校で演劇をしているということだったが、とにかく気散じな愛嬌たっぷりの少年というのが印象に残った。

 翌年(67:S42)、彼は高校を卆えるとすぐさま9人劇場に参加した。折もおり、大阪市大の劇団「つのぶえ」から宮本研の「明治の柩」に取り組むから、助けてくれないかと演出の平塚匡君から出演依頼がきた。平塚君とは嘗ての仲間でもあったし、私が神沢主宰のActual-Art同僚時代に京都で「サロメ」(64:S39)を演った時に助っ人をして貰ったこともある。私を含め4人で出演することにしたのだが、そのうちの二人は中尾と奥野のコンビだった。二人ともフレッシュな演技ぶりで溌剌と爽やかな舞台姿であったと印象に残る。この上演は5月だったが、それで勢いづいたのだろう、それから夏にかけて、このコンビの幼馴染みというか同窓仲間というか、同年の者たちをそれこそ芋づるのように誘い合って、劇団はいちどきに賑やかになった。さて若い者たちで活気づくのはまことに結構だけれど、経験もない素人ばかりが増えたのだから、どんどん勉強させ経験を積ませなければならない。秋には早速、勉強会と称しアトリエ公演に取り組んでみたが、まあ結果は推して知るべし、散々だったとは言わぬまでも、小額とはいえ金を払ってわざわざ観に来てくれた人たちに、あまり顔を上げられる出来栄えではなかったろう。そんなことから翌年(68:S43)、私は些か思いきった手を打つことにした。9人劇場の芝居小屋と称して、毎月ペースの稽古場での試演会である。といっても上演形式をとるには金もかけられないし、素舞台での素面のままの会とし、観客にも無料とした。これを2月から始めて暮の12月まで、客席は時に数人というようなお寒いかぎりの日もあったが、とにかくやりきって計13回をこなした。この芝居小屋シリーズをとおして、集まり来たった若い仲間たちも自然に篩いにかけられたことに、結果としてなる。仲良しグループくらいの感覚ではとても続かないのは当然で、上昇意欲をもって本格的に続けていこうとする者と、青春のほんのひとときを飾った思い出の一頁として自ら幕を降ろしてゆく者とに別れゆく。もちろん中尾と奥野は主力として残り、’75(S50)年頃まではつねに主軸として活躍してくれた。彼らとの舞台で強く記憶に残るのは、私の仕事としても20代のエポックともなった’72(S47)年の「身ぶり学入門-コトバのあとさき」に尽きる。それまでの実験的な試行錯誤にとにかくもひとつの終止符を打てたものだったと今振り返ってもそう思えるものだが、その成果も彼ら二人なくしてはあり得ぬ舞台だった。

 以後は間遠になったとはいえ、それでも’83(S58)年「鎮魂と飛翔-大津皇子」の舞台では久しぶりにご登場願ったこともあった。ところがそれから三年後(‘86:S61)の秋だったが、突然我が家に訪ねてきて、市会候補として港区から立つことになったとの報告に驚かされる。この藪から棒のような展開には遡っての解説が必要だ。奥野は高校卒業の翌年、68(S43)年春に日本電信電話公社(現NTT)に入社している。この就職については私も些か関与したのである。当時、喰えもしない演劇を続けていくに身すぎ世すぎをどう立てていくかは問題だった。どんな仕事に就くか、その勤務条件のなかで活動の幅もずいぶんと左右されるものだ。そこで私は当時、高校同期のT君が電電公社(現NTT)に勤務し、全電通労組末端の分会長をしていたので、彼が宿直で局に泊りの夜に訪ねて行って、勤務内容や採用基準などいろいろと聞き合わせた上で、その年の秋の採用試験を受けてみるように奥野に勧めてみたのだ。後に民営化されNTTとなってからは、大卒エリートの難関就職先としてつねにトップクラスに君臨するのだが、昭和42.3年当時は高卒で普通よりやや上位の学力程度であれば採用されるチャンスは充分あったのである。公社に入ってからもこの気散じな愛嬌たっぷりの若者は軽快なフットワークを発揮して組合活動でもかなりの活躍をしたようだ。組合関係の青年部は20代で構成されるが、そのなかではいつのまにか頭角をあらわしやがてリーダー的存在となり、仕上げは大阪総評青年部議長にまでなっていたそうである。ところが30代になって青年部を退き、組合支部に戻ってみれば、このまだ青年臭を残したパフォーマンスの得意な若きリーダーには、それに相応しいようなポストはなかったらしく、いわば組合内部で本流から外れ冷や飯を食うような存在となっていく。以後数年間、彼自身も長い停滞期と感じる日々ではなかったか。そこへ降って湧いたような市会候補としてのご指名による打診が組織上部からあったのである。86(S62)年当時、労働組合関係は総評・同盟が連合へと再編していこうとする転換期であり、全電通(現NTT労組)を中心にした情報労連委員長山岸章がやがて連合会長へと転身して前夜である。政府与党は売上税導入を画策準備しており、自民党離れの現象も起こり国政は波乱含みであった。そんななかで山岸章らは国会議員だけではなく全国自治体に地方議員を拡大していくべしという作戦に出たのだが、そこで人受けのよい愛嬌者で大阪総評の青年議長という勲章をもつ奥野はその任に相応しいとされ、白羽の矢が立てられたというのが真相であったように思われる。 (この稿つづく)

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