山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

ひきずるうしの塩こほれつゝ

2008-10-31 11:07:42 | 文化・芸術
Db070509rehea225

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―世間虚仮― 取り出し

‘07年度から全国の小中校で完全実施されたという特別支援教育。
ADHD –注意欠陥多動性障害-やLD-学習障害-など、比較的軽い発達障害を含め、障害のある子どもを手厚くサポートする制度ということだが、先生の指示に従えなかったり、人の話に集中できなかったりする子に対して、突然、学校に呼び出された父母が、「お子さんを病院で診てもらうように」と指示され、狼狽えてしまうといった騒ぎが起こっているらしい。

診断を求められた子どもたちは、特別支援学級へ移したほうがよいと、担任教師らに判断されているというわけだが、この児童や生徒を特別支援学級に移すことを「取り出し」と、教育界では呼んでいるそうな。

まさに、円滑な授業の妨げとなる異物を排除する、取り除くといった意味なのだろうが、まったく不快きわまる言葉である。教師たちのこういった視線が教室を覆うなかで成立する授業とは、いったいいかなるものか、思うだに悲しくなってくるというものだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-04

  樫檜山家の体を木の葉降   

   ひきずるうしの塩こぼれつゝ  杜国

次男曰く、冬三句のあと、次に最初の月の座をひかえて、雑の句。其の場のあしらい付の趣向だが、「樫檜」の位を曳けども動かぬ牛に移し、「木の葉降」の位をその俵からこぼれる塩に移して、さながら宋元文人画にでもありそうな一幅の景にまとめあげている。

牛飼は垣の外を通っていてもよし、門構えの内の情景であってもよい。坂道とはかぎらぬ。たまたま牛が動こうとせぬ理由など穿つまでもないが、杜国は、前を清廉の隠士と見定めているらしく、「塩」と云い「こぼれつゝ」と工夫したのは、木の葉の降らせ様、庭の調え様にまで主の行届いた人柄を偲ばせる手立でもあるだろう。

「塩」と思いついても「こぼしつゝ」とすれば、乱雑な印象だけがのこる。このあたりの目配りは、前句が山家の「体」と設けた抑制とよく響き合っている。一句明晰、とかく安易になりやすい四句目にしては、はたらきのある作りだ、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

樫檜山家の体を木の葉降

2008-10-29 12:35:09 | 文化・芸術
Alti200651

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―表象の森― 近代文学、その人と作品 -3-
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

・江戸川乱歩と「陰獣」
「陰獣」は乱歩の他の作品と同じく、仮面を巧妙に生かした小説だ。この作品のきわだった特徴は、大正から昭和初期の時代性を感じさせることである。

大正デモクラシーや大正ナショナリズム、吉野作造や大山郁夫の民本主義にしても、美濃部達吉の天皇機関説にしても、仮面と同様、作り物といった感が拭いきれぬ。天皇というものに「機関」という仮面を被らせたのが、天皇機関説だと言えそうだ。乱歩の小説で、登場人物が仮面を被った途端に人格が変わるのと、絶対的に神聖な天皇が、機関という仮面を被ると全く別なものになるのと、よく似通っているように思える。

・横光利一と「機械」
彼の小説は「機械」を境に前期と後期に分けられる。前期の小説からは溢れるほどの才気が感じられ、モダニズムの一方の旗頭的存在であった。意識的に粘っこい文体で描かれた理知だけの人間の絡み合いの描写は、機械の歯車の狂いを比喩させている。フランスの心理主義文学を移入していた当時の影響下で、彼の才能と資質の兆候を微妙な釣り合いで総合した作品だった。

「機械」以後は、意識して人工的に作った知的部分が消えていく、いわゆる小説らしい小説に、その頂点と言えるのが「紋章」である。彼の「四人称小説」といい「純文学にして通俗文学」といった「純粋小説」の主張から生まれ出た結晶と言っていい。

・川端康成と「雪国」
初期のモダニズム的な作品から日本の古典主義的な美意識に連なる作品へと転換していく最初の優れた小説として位置づけられるのが「雪国」である。

彼の小説における男女の関係のあり方、あるいは自然への対処の仕方、物への接し方など、対象に対する「浸透力」が特徴だと言える。中性という概念を幅広くとると、登場する男も女も、その中に囲い込まれてしまうと思える。性の物語を描いても、性欲の葛藤が物語になるのではない。男女が互いに浸透しあう姿が、作品の主眼になる。

川端康成の「浸透力」を、岡本かの子の「生命力」と比較してみるのも面白い。かの子も性を性欲の葛藤としては描かない。生命力の問題として捉える。彼女は仏教に造詣の深い作家なので、その思想が背景にあるのだろう。

「雪国」にはドラマティックな起伏や葛藤はあまり存在しない。そこには駒子と島村の淡い交情が描かれているだけなのだが、文体の間から、浸透力がさまざまに表現されているのを感受すると、見事な作品に思われてくる。なまめかしくてつややかな文体の底に、細かい網の目を通っていくように、対象の肌から内蔵にまで達するような浸透力の動きが描かれている。決して粘っこくはないが、霧のようにひろがり、それが対象の奥にまで浸透して、島村と駒子の淡い交渉が一つの世界にまで昇華されて感じられる。

人間はすべて男か女かだというのは川端康成の文学の基本的な認識だが、この男と女は性欲的な存在ではないというのも、川端文学の重要な人間認識でもある。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-03

   冬の朝日のあはれなりけり  

  樫檜山家の体を木の葉降   重五

訓は「かしひのきさんかのていをこのはふる」

次男曰く、木の葉とか木の葉降るといえば、連・俳では冬の季題とされている。落葉の状態よりもむしろ散る現象のことを云う詞であるから、残り葉に覚える興もそのなかには含まれ、併せて遣う。むろん落葉樹のことで、樫や檜、松や杉などのように初夏にその葉をふるうものは、木の葉とは云わない。

「万葉」「古今」さらに「後撰」「拾遺」あたりまでは、これをまだ秋に扱っているが、俊成の「千載集」には、取合せる景物によって、秋冬双方に部類している。概ね、冬のものと考えるようになったのは、「新古今」以後のことである。これは隠遁思想流行と関係があるだろうが、やがて山居の実態が形骸化してくると、常緑樹に構えの基本を示し、配するに効果的な落葉樹をもってするという、山家らしき「体」が洛中の数寄として確立されてくる。在俗遁世の心を現すごく普通なかたちである。

重五の作りは、散るに任せた辺り一面の木の葉と考えると趣向がわからなくなる。諸評は「樫檜」と「木の葉降」との関係について、常磐木に亭主の志を見せる庭構えであるからこそ木の葉の降らせ様も活きる、という作意を見落としてしまっている。

「田家眺望」は平凡な農家の眺めなどではない、と見立てたこの第三の起情はよい着想だ、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

冬の朝日のあはれなりけり

2008-10-27 23:57:27 | 文化・芸術
080209019

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―四方のたより― 窮鳥懐に入らずんば

昨日は稽古場で、ARISAの幼い頃からの舞踊歴というか研究所歴といったものを、あらまし本人から聞いた。

今日は弁天オーク200の喫茶店で、ARISAのお母さんから現在通っている所の状況などを聞き、今後の考え方などについて話をした。

聞けば聞くほど、話せば話すほど、狭い世界、悪しき業界癖とでも云うべきバレエ界の慣習や窮屈さが立ちはだかるように、ARISAの将来への見取図を描くのにfree handではいられなくなる。

門外漢の私などには、どうにも困った世界だ、というのがまずは本音のところだ。
バレエ・テクニックのことなど皆目知りもしない私だが、表現者としてなら、彼女に足らぬもの、何を身につけるべきか、心するべきか、語るべきことは相応にあろう。

だがバレエ界という長年にわたってつくられてきた特殊世界で、目先のことならいざ知らず、どのように身を立てていくかと考えることなど、外からさまざま類推しながらあれこれ思量したところで当を得たものになろう筈もない。

彼女にとってこの1年、長く見積もってこの2年、その培ってきた技量とまだ幼さを残す心の成熟度というアンバランスが、それだからこそおもしろいし限りない可能性を秘めているともいえるのだが、どれほど動的に縒り合わされていって、将来において見事な華を咲かせるか否かの決め手となる日月であろうことだけは、私の眼にはっきりと映るのだが、はてさて‥。

とはいうものの、斯様な悩み煩いは、よほど愉しくもあり心の贅沢でもある。窮鳥懐に入らずんば、と古い喩えもある。大いに愉しみつつ思い煩ってみようかと思うこの頃だ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-02

  霜月や鸛の彳々ならびゐて  

   冬の朝日のあはれなりけり  芭蕉

次男曰く、時節と時分の見究めを以てした打添の付である。

「て」留の発句に「なりけり」の治めは自然の成行で、「発句をうけて一首のごとく仕なしたる処、俳諧なり」-三冊子-とでも云うしかないが、和歌仕立すべて佳い脇になるわけではない。発句が景のなかに情の現れるさまに作られているから、「あはれなりけり」も俳を生む。凡にして非凡というべきか、去来は終生この句を脇作りの手本にしたという。

露伴は「元来あはれという語は日に縁のある語と云はんよりは、日の美しく照るところより起りたる語とされ居れば、芭蕉もここにおもしろしと用ゐたるなるを、哀れなどとのみ取りては、それにても七八分は済めども十分には済めず」と説く、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

霜月や鸛の彳々ならびゐて

2008-10-26 23:57:09 | 文化・芸術
Db070510052

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―世間虚仮― イタリアでも

市民記者が綴るNews SiteにJanJanニュースというのがある。
イタリア在住で翻訳に携わるという日本人女性の伝えるところによると、近年この国でも日本同様、貧困格差問題が深刻な状態を呈しているらしい。

プレカリアートと呼ばれる非正規雇用の労働者や、ネーロという外国人の日雇い不法就労が激増、建設業などこれらの人々が働く現場では、就労中の不慮の事故や災害による死亡が多発しているというのだ。今年の上半期だけでも555人がそういった労働災害で死亡し、444,755名がなんらかの傷害に遭っているというから凄まじいの一語に尽きる。

もう少し詳しく知りたければ「此処」を見られるといい。

イタリアのみならず、EU加盟の先進諸国は大なり小なり、軒並み似たような状況を呈しているのではないかと推量される。
米国発のファンド・バブルが世界を席巻した挙句に残されたものは、世界経済の破綻という危機とともに、先進諸国にあまねく深刻な貧困格差をもたらしただけではなく、発展途上国の飢餓と難民をさらなる窮状に追い込むばかりか、きっとそのスケールを爆発的にひろげていくことになるのだろう。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-01

  霜月や鸛の彳々ならびゐて  荷兮

詞書に「田家眺望」とある。
鸛-コウ-こうのとり、彳々-つくつく

次男曰く、「霜月の巻」は、尾張五歌仙の「冬の日」-荷兮編、貞享2年春板-に収める「炭俵の巻」に続く第五の巻である。

霜月は陰暦11月。まず、貞享元年10月下浣にはじまった尾張五歌仙の興行は、月内には成就しなかったらしいとわかる作りだが、霜月は鍬納め、一陽来復の月である。興行納めの巻という含みをこめて初五としたものだろう。

鸛は、音はカン、コウノトリである。コウヅルともいう。形態・大きさともに丹頂鶴に似て見間違われやすいが、頭上に赤く露出した部分や頬から喉にかけての黒毛はなく、またツルとは目・科も違う。留鳥として周年棲息し、往時は日本各地で繁殖していたらしい。そのせいか季語にも立っていないが、ツルは湿原に、コウノトリは森や林の喬木に営巣する。

句は、用意された題詠で当座嘱目とは到底考えられぬが、それにしても、鶴の名声に隠れ、和歌にも俳諧にも採り上げられなかった鳥の名を、どうしてわざわざ持ち出したのだろうと思う。

「霜の鶴」という伝統的歌語-凍鶴の傍題-がある以上、「霜月や鶴の彳々ならびゐて」では句のさまにならぬ。「詩経」の「豳風-ひんぷう-」に、「我、東より来れば、零雨それ濛たり。鸛は垤-てつ-に鳴き。婦は室に嘆ず」。けぶる雨のなか、鸛は蟻塔を見付けてよろこび鳴いているが、故国では妻がさぞ恨んでいよう。東征の帰途を長雨に阻まれた兵士の歌で、鸛・鸛鳴を俗に雨降らしというのはここから出たものだ。

句の目付はそこにあるか。霜月ともなれば鸛も鳴くに術なく、彳歩する、と読めば俳になる。霜は雨を嫌う。

彳は少歩のさま、転じて佇む意にもなる。つくつくは「詩」にからうた、「燕」にさかもり、「時」によりより、「虚谷」にこだま、「夷衣」にひなごろも、「背」にきたのねや、「吟」にさまよふ、「長」におとなし、と振る類で、「虚栗」馴染みの用字である、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

枕もちて月のよい寺に泊りに来る

2008-10-25 22:24:31 | 文化・芸術
981229990102034

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―山頭火の一句―

「大正14-1925-年2月、いよいよ出家得度して、肥後の片田舎なる味取観音堂堂守となったが、それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいとおもへばさびしい生活であった。
  松はみな枝垂れて南無観世音
」と、山頭火は第一句集「鉢の子」の冒頭に記している。

味取観音堂は、義庵和尚の座す法恩寺の管理下にあった末寺である。
現在の熊本県植木町、味取のバス停の傍に、観音堂への登り口があり、「味取観世音、瑞泉寺登口西国三十三箇所霊場アリ」の石碑が立つ。それより急な石段を登り切ったところ、ひっそりと観音堂が佇んでいる。

当時、この寺の檀家は51軒だったから、その布施による収入はたかだかしれたもので、暮しのしのぎはおおかた近在への托鉢によるものであったろう。彼に課された仕事といえば朝晩に鐘を撞くことくらいで、ずいぶん気ままな生活だったようである。雨の日は落ち着いて読書もできたろう。夜などは、近在の青年を集めて、読み書きを教えたり、当時の社会情勢なども説いて聞かせたという。

日々の暮しのなかで困ったのは水である。檀家の51軒が順繰りに、毎日手桶二杯の水を運んでくれたらしいのだが、それでは充分とはいえず、水の不自由は悩みの種だったようである。
そんな苦労からであったか。後の個人誌「三八九」に「水」と題された随筆がある。

「禅門-洞家には「永平半杓の水」といふ遺訓がある。それは道元禅師が、使い残しの半杓の水を桶にかへして、水の尊いこと、物を粗末にしてはならないことを戒められたのである。-略- 使った水を捨てるにしても、それをなおざりに捨てないで、そこらあたりの草木にかけてやる。-水を使へるだけ使ふ、いひかへれば、水を活かせるだけ活かすといふのが禅門の心づかひである」と。

―世間虚仮― 映画館は怖い!

朝から揃って「崖の上のポニョ」を観るべく出かけた。
映画館での鑑賞は、暗がりの中で大音量だから、KAORUKOは怖がってとてもそれどころではあるまいと、これまで一度も行ったことがなく、今日が初見参なのだ。

案の定、暗い館内に入って椅子に座るや、もう落ち着かない様子。前から3列目という至近距離で大きな映像とともに音が鳴り出して数分で、やっぱり音を上げた。私の腕に喰らいつくように、「出よう、出よう」と訴えかけてくる。

ポニョと宗助の明るい場面では、画面に惹き込まれているようだが、魚群が動き、海が荒れたりするともう駄目で、私の腕にしがみつく。そんなことを何度も何度も繰り返して、ようやくendmarkまでこぎつけた。予期していたとはいえ、大変な初体験であったことよ。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。