Information-Shihohkan Dace-Café-
今宵(9/28)は、久しぶりのダンスカフェ。
このところの杉谷君、そのピアノの即興演奏は進境著しい変容ぶりをみせ、付き合っていてとても愉しい思いをさせてもらっている。
昨年暮れ頃からだと思うが、音世界に遊ぶというか、自由度がすこぶる高まってきたのではないか。
こうなってくると、おのずから踊りと音との関わり-即く・離れる―も変わり、それぞれの遊び心を奔放なまでに解き放ってゆけるはずだ。
-表象の森- 高橋悠治的
高橋悠治の「音の静寂・静寂の音」を読んでいる。
さすが求道者にも比しうる類なき実践の人、その達意の文は分野を超えて蒙を啓かせ胸に響く。
書中、論語第一章の「学而」を引いて、実作の手法、修練に珠玉のコトバを紡いでいる。
「子曰学而時習之不亦説乎」
子曰く、学びて時に之を習う、亦(マ)た説(ヨロコ)ばしからずや
と読み下すが、
著者は、「文字を書きながら これを身につけるとはどういうことか」と問いつつ、これを一語一語の原義的イメージへと解体していく。-以下引用抜粋-
子 生成するもの
曰 内からひらかれるもの
学 さしだす手とうけとめる手のあいだに うけわたされるものがあり ひとつの屋根の下に育つものがある
而 やわらかくつながりながら
時 太陽がすぎていく
習 羽と羽をかさね またはくりかえし羽ばたき
之 足先をすすめる
不 口をとじてふくらませる
亦 両腕を下からささえ
説 ことばのとどこおりは ほどかれる
乎 胸からのぼる息が解放される
文字によってまなぶということ、文字をならうということ
それぞれの文字にはことなる運動の型がある
文字を組み合わせてなめらかな文章を編むのではなく
文字のつながりを切り離し
孤立した文字がそれぞれ内蔵する運動をじゅうぶんに展開しながら
それらが同時に出現する場を設定する
からだの統一を一度断ち切って
多方向へ分裂する複合体としてとらえ
それらの相互作用の変化する局面を観察する
それは全身をつかっての運動であり
時間をかけた修練であり
それがからだにしみこんでいけばからだも息も
そして心もひらかれ らくになっていく
―― 参照:高橋悠治「音の静寂-静寂の音」平凡社
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<秋-62>
展転(コイマロ)び恋は死ぬともいちしろく色には出でじ朝貌(アサガホ)の花
作者未詳
万葉集、巻十、秋の相聞、花に寄す。
邦雄曰く、忍恋の極致に似て、展転反側、眠りもやらず、焦がれ死のうとも、顔色にも出すまいという。その譬えに朝顔を用いたのは、ただ一日で儚くなることを意識してのことだろうか。「言に出でて言はばゆゆしみ朝貌のほには咲き出ぬ恋もするかも」がこれに続く。恋の心は言葉にさえ出さず、朝顔のようにつつましく胸中深く慕っていると歌う、と。
けさ見ればうつろひにけり女郎花われに任せて秋は早ゆけ 源順
源順集、あめつちの歌、四十八首、秋。
邦雄曰く、一首の冒頭と末尾が先に決まっているという制約上の非常手段が、逆に効果を齎したとも考えられるが、命令形結句が意外な諧謔を生み、第四句の稚気を隠さぬ「われに任せて」がまことに愉しい。秋草の歌では前例のない一首だ。二句切れ、三句切れと見えながら、意味上は断ちがたく連なっているところなども、この人ゆえ、計算の上の調べだろう、と。
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