―四方のたより― 育ちゆくもの、老いゆくもの
インフル休校の、週半ばの2.3日は、喘息症状に悩まされたKAORUKOも、明けて学校が始まるや、此方の心配をよそに本人はいたって元気な様子、学校から戻るや、その表情は見違えるようで、心身ともに溌剌としていつもの明るさを取り戻していた。
この時期の子どもにとって、学校生活というものが精神性-心理面においてどれほど大きい座を占めていることか、つくづく思い至らされた学校再開である。
近頃思うこと-7月が来れば否応もなく満65歳になる私だが、この年にもなってくると、まだまだ緩やかなものとはいえ、やはり老いゆく身というものを感じないわけにはいかない。やがて身体の不自由さをかこつことにもなりゆくのだろうが、そんな日々には、白川静の世界などを友連れ、慰みにするのもいいかもしれないな。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「灰汁桶の巻」-34
昼ねぶる青鷺の身のたふとさよ
しよろしよろ水に藺のそよぐらん 凡兆
次男曰く、只管打坐して一景を悟った、読んでもよし、はこびに即して云えば、景に執成して座を安くした、読んでもよい。
因みに「らん」は、先の「うそつきに自慢いはせて遊ぶらんの「らん」と同じ。先の「うそつきに自慢いはせて遊ぶらん」の「らん」と同じ、とぼけの云回しである。凡兆は、自分の句-人もわすれしアカソブの水-を虚に執成した野水の工夫に倣った、と告げているのだろう。明らかに呼応させた作りである。
「しよろしよろ水」か「死よろしよろ、水」判然しない句だが、凡兆の遺墨に「ひめゆりやちよろちよろ川の岸に咲く」というのがある。「しよろしよろ水」だろう。
藺-イ-草は古俳書に花を初乃至仲夏とし藺草を晩夏とする。藺とだけでは雑の詞である、と。
-読まれたあとは、1click-
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