※ 写真は「若冲と江戸絵画」展-公式ブログフォトライフ-より転載。
-世間虚仮- 看板に偽りあり? 「若冲と江戸絵画展」
祝日、おまけに3連休の初日とあって、昨日の京都は古都の秋を訪れる人びとで溢れかえっていた。
とりわけ岡崎公園界隈は、向かい合って建つ京都市立美術館の「ルーブル美術館展」と国立近代美術館の「若冲と江戸絵画展」に、どちらも5日までの会期とあってか、詰めかけた人の列が絶えることもないほど。
その若冲展のほうに家族3人で出かけ、ひたすら人波に揉まれ疲れ果て、いまさらに注目の美術展通いは休日を避けるべし、と性懲りもなく前評判に踊らされたわが身を悔やんでみたりしている始末だ。
しかし、それにしても東京国立博物館に始まり今回の京都、さらには九州国立博物館、愛知県立美術館と巡回するという、鳴り物入りの「若冲と江戸絵画展」には少なからず失望させられた。
展示総数109点の内、若冲の作品は最も多いとはいうものの17点で全体から見れば二割にも満たず、他に幕末から明治初期の鈴木基一なる画家の作品が10点、長沢蘆雪が6点、曽我蕭白が伝も含めて3点、あと円山応挙にはじまり江戸中期から後期、明治にいたる画家たちの作品がそれこそ玉石混淆といった感でアトランダムに並ぶ展示は、「若冲と江戸絵画展」と銘打つには、その作品の雑多な顔ぶれも含めて、些かお寒い内容ではなかったか。
近年の蕭白や蘆雪、若冲のブームに便乗した感はどうしても否めない。プライス・コレクションと副題されているようにアメリカのジヨー・プライス氏のコレクションならば、展示総体の内容についてそれはそれで致し方ないとしても、-若冲-と-江戸絵画展―のように、若冲を前面に押し出して「と」で括ったタイトルはとても相応しいとはいえないだろう。どうみても上げ底の誇大コピーと言わざるをえず、そんな誇大宣伝の展覧会が卑しくも国立の博物館や美術館で巡回されるというのは首を捻りたくなるのだが、これもそんなご時勢なのさ、むしろそういった国民的レベルにおける文化現象をリードし代表するような先端的な部分でこそ、これみよがしの大仰な身振りの仕掛けが罷り通っているのだといわれるなら、今後は自省して迂闊に踊らされぬようより注意深くなるしかあるまい。
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<秋-87>
浅茅生の末葉おしなみ置く露の光に明くる小野の篠原 頓阿
草庵集、秋上、和歌所月次三首、暁露。
邦雄曰く、暁闇の、眼も遥かな篠原の千の小笹の群立ちが、徐々に、日の出と共に明るむ。霜と凝る前の露の白玉にまず光は宿る。「露の光に明くる」にこめた作者の心映えが、まことにゆかしい。「下葉にぞ露はおくらむ秋風のたえず末越す庭の萩原」は「庭萩風」。井蛙抄を著わした、二条為世門四天王の一人であり、地味ながらゆるぎのない文体を誇る、と。
風にきき雲にながむる夕暮の秋のうれへぞ堪えずなりゆく 永福門院
玉葉集、秋上、秋夕を。
邦雄曰く、漢詩の対句風に第一・第二句を照応させて、新古今時代に流行した「夕暮の秋」を、上・下句、「堪えず」で切らず「堪えずなりゆく」と暈し、弱音化するのも当時の流行もしくは習わしであろう。女歌として一種のしをりを加えるには有効と思われるが、濫用は勿論、歌をくだくだしくする、と。
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