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Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」
―表象の森― 真と仮とのあいだ
中国の古代歌謡、「詩経」の周南、漢江に、
「南に喬木あり 休 -いこ-ふべからず 漢に遊女あり 求むべからず」の詩句がある。
南に喬木あり、とは女神出現の暗示である。喬木は神の宿る木であり、近づいてそれに休むことのできない、神聖な木のこと。また、漢水や洛水など、河川では古くから水神の祭祀が行われ、その神は女神であった。江・河のような滔々たる大河には男神、清麗な水の流れには女神が住む定めであった。
女神は、常には幽処に身を隠し、年に一度だけ、農耕祭祀の豊饒神として人々の前にあらわれる。漢水に遊ぶものはその女神であり、女神に対する祭式は恋愛的な表現をもつが、求むべからず、人神の世の異なるがゆえに、その思慕の遂げがたいことを嘆くのである。
かくて「遊女」とは出行する女神である。のちに遊行女婦とされるものの原型は女神であり、江口の君はその末裔の姿である。
遊女は、おそらく地上が再び若々しい生命力を蘇らせてくる次の春まで、深い幽暗のうちに身を隠すのであろう。かように隠れるもののみが遊行することができる。幽顕の世界に自在に往来することが、遊であり、逍遥であった。
それはまた、真と仮との間である、といえよう。
-白川静「文字逍遥」-遊字論-より抄書-
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「空豆の巻」-06
寝処に誰もねて居ぬ宵の月
どたりと塀のころぶあきかぜ 孤屋
次男曰く、投込の「あきかぜ」を野分と読めばよくわかる。野分に宵の月は寄合とされるが-類船集、延宝4年刊-、じじつ二百二十日頃は仲秋の宵の月である。
第三の句以下、「上張を通さぬほどの雨」と云えば、「酒の最中」と云い、「寝処に誰もねて居ぬ」と云えば「どたりと塀のころぶ」と云い、外から内へ、内から外へと目配りを移しながら、虚-実、虚-実と付遣って興のたねをさぐっている。野分に吹倒された塀を「どたりところぶ」と云えば俳になる。籬-まがき-や立蔀-たてじとみ-の破れではこうはゆかぬ、と。
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