山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

恋ひ侘びてながむる空の浮雲や‥‥

2007-06-23 17:41:29 | 文化・芸術
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-表象の森- 「夜色楼台図」と「月天心」

俳諧では若くして宗匠となるなどその文才を早くから発揮した蕪村だったが、絵画における熟達の道はなかなか険しかったようで、晩年に至るまでずいぶんと技法研鑽の変遷を経たようである。
その蕪村の遺した画群にあって、ひときわ異彩を放っているのが「夜色楼台図」であろうか。
縦は尺に足らず、横長は4尺余りの画面一杯に、「ふとん着て寝たる姿や東山」の嵐雪の句を髣髴とさせる東山三十六峰の山脈を背景に、市街地の無数の町屋根がつづき、山々や市街も一面の銀世界という、夜の黒と雪の白だけのモノクローム。
夜の街なみ風景が画題となるのは、京都でいえば祇園・島原などの歓楽街が発達し、燈火の菜種油がかなり廉価で流通するようになった江戸期になってからのようだが、蕪村のこの絵には、あたり一面の雪景色の中に、街の火影があちこちと点在して、その下で暮らす市井の人々の温みがほのかに感じられる。


蕪村は、街に生き街に死んだ、文人画家であった。
俳諧を通じて親交のあった上田秋成は、蕪村薨去に際し
「かな書きの詩人西せり東風吹きて」と追悼の句を詠んでいる。
漢詩における主題や語法を巧みに採り入れて、俳諧に新境地を拓いた蕪村を、「かな書きの詩人」の一語がよく言い当てている。


「月天心貧しき町を通りけり」
誰もが知る蕪村の代表句の一つだが、安東次男の教えるところによれば、この句の初五ははじめ「名月や」また「名月に」であったという。
「名月や」ならば、あくまでも下界から眺めている月とみえようが、「月天心」となれば、月を仰いでいるというよりも、体言切れの強勢がむしろ逆に天心の月から俯瞰されているような感じを惹起する。
くまなく照らし出された家並みの下には、微視的に見れば月の光の届かぬ生活の気配がある。蕪村はこの巨視の眼の中に、人界の営みを包み込みたくて改案したのはないか。暗い町裏の軒下をひたひたと歩いてゆく蕪村の足音と、月明りの屋根の上を音もなく過ぎてゆくもう一人の蕪村の気配が、同時に伝わってくるところが面白い、と。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-53>
 いかにせむ宇陀の焼野に臥す鳥のよそに隠れぬ恋のつかれを  元可

公義集、恋、顕恋。
邦雄曰く、恋ゆえに身を細らせる、その衰えをやつれを、隠そうとは努めていても、「ものや思ふと人の問ふまで」目立つようになった。上句全体が序詞になっている歌、14世紀の北朝武士としては、珍しい例であろう。その序詞も、恋の火に身を焦がしたことを、「焼野」の彼方に暗示した。結句の「恋の疲れを」も新しく、親しみがある。俗名は橘公義、と。


 恋ひ侘びてながむる空の浮雲やわが下燃えのけぶりなるらむ  周防内侍

金葉集、恋下、郁芳門院の根合せに恋の心よめる。
邦雄曰く、この歌の誉れによって「下燃の内司」と呼ばれたと伝える秀歌。新古今・恋二巻首の「下燃の少将」俊成女の作は、これに倣ったと思われるがやや劣るか。歌合は寛治7(1903)年5月5日。左は女房の大弐「衣手は涙に流れぬ紅の八入は恋の染むるなりけり。右、周防内侍の作は結句「けぶりなるらむ」。判も判詞も不詳であるが明らかに右勝、と。


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恋ひ恋ひてよし見よ世にもあるべしと‥‥

2007-06-22 12:07:04 | 文化・芸術
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-世間虚仮- 堀本弘士君の自殺と災害共済給付金

今年の正月を迎えてまもない1月早々の報道だったと記憶するが、昨年8月、いじめを苦に自殺した今治の中1生の、実名公表へ苦渋の選択をしたという祖父によって、あらためて事件の詳細を知ることとなったのだが、この堀本弘士君の自死に至るまでの健気な振る舞いぶりに、私は激しく胸を揺さぶられた。
貧しさをいじめの対象にされていた彼が、お年玉をコツコツ貯めていた20万円という大金を、毎週末、幼い弟を連れて広島までバスで出かけ、遊園地で好きなだけ遊ばせてやることに、数ヶ月かけて使い切ったうえで、遺書を残して死んだというのだった。その遺書の全容は知る由もないが、記事に紹介されている断片の限りでは、潔いほどにきっぱりしている。これを短絡的という誹りもあろうが、まだ幼さを残した彼の面影から察するに、精一杯よくよく考えた末の、本人なりの整合性のある帰結だったかと受けとめざるを得なかった。
この記事を読みながら私は年甲斐もなく、込み上げてくるものを抑えきれず涙してしまった。正直に言えば激しく泣いた。この子の心優しさと小さな正義感と潔さが愛おしくも胸に痛く突き刺さった。この国の現在は、こういう子どもをまで自死に追いやってしまうのかと、やり場のない無念に囚われた。


半年も経って、何故この件に触れているのかといえば、学校などで起こった生徒の負傷や疾病、障害や死亡などに対して給付する「災害共済給付制度」なるものがあるが、これを所管しているのが独立行政法人日本スポーツ振興センターだそうで、昨年12月、今治市教委が堀本君の自殺に対して死亡見舞金(最高額2800万円)の支給申請をしたところ、センター側はこれを不支給と決定、4月中旬頃、今治市教委に通知。市教委はこれを不服として不服審査請求を申し立てたという記事を、偶々見かけたからだ。
この場合の争点は「学校の管理下」をどう解するか、あくまで学校内とすべきか、学校の外であってもその管理下において起こった事件と見做しうるかという問題だ。
別の記事によれば、この制度の死亡見舞金は、学校内における子どもの自殺に対してはすべて支給され、自宅であったり別の場所であったり、学校の外で自殺した場合は不支給になるとセンター側は説明しているのだが、学校外の自殺で支給されているケースも過去に1件あるというから、始末が悪い。
この1件は、小6の子どもの自殺だっらしいが、事件発生が94年、見舞金の給付決定が00年12月と、どういう訳か6年もの年月を経ている。同センターのサイトによれば、給付金支払請求の時効は事由発生から2年問とされているから、少なくとも4年以上の歳月をこの給付決定に費やしたことになる。そこに何があったかは知る由もないが、制度の運用にばらつきがあっては批判の起こるのも無理はない。
この問題を突かれ同センターは「ケースバイケースで総合的に判断する」といい、また「個別事例については答えられない」と応じていると記事は報じている。
大人社会の、それも官公に近いところほど、今世間を騒がせている消えた年金問題にかぎらず、ことほど好い加減さが罷り通っているこの国である。
仮にもし私が自死した堀本君の祖父であったら、この顛末を、墓前になんと報告できようか。あまりに潔く散ってしまったその小さな心に、いったいなにを手向けたらよいのだろうかと途方に暮れては、ただただ涙するしかあるまい、とまたしても胸を熱くしてしまった昨日の昼下がりであった。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-52>
 恋ひ恋ひてよし見よ世にもあるべしと言ひしにあらず君も聞くらむ  式子内親王

萱斎院御集、前小斎院御百首、恋。
邦雄曰く、式子の余情妖艶、玲瓏たる恋歌は、二首三首など選び煩うくらいだが、この死を懸けた殉愛の宣言は、一読慄然たるものあり。生きていようとなど言ってもいない。ご承知の筈だ。恋い続けて、とにかく見ていてくださいと、迫るような語気は、すでに恋歌の範疇から逸れようとする。勅撰集に不截の傑作で特に記憶さるべき一首、と。


 幾夕べむなしき空に飛ぶ鳥の明日かならずとまたや頼まむ  後伏見院

風雅集、恋二、契明日恋といふことを。
邦雄曰く、女人代詠の待宵歌、来る日も来る日も「明日必ず」訪れるとの口約束ばかり、愛する人は「むなしき空に飛ぶ鳥」のように、空頼めのみ与えて姿を見せぬ。「とぶとりの・あすか・ならず」とまで懸けている面白さ。詩帝伏見院の第一皇子、第三皇子花園院とともに歌才は玉葉・風雅の俊秀に伍して、いささかも遜色はない。風雅入選35首、と。


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恋ふる遠山鳥のますかがみ‥‥

2007-06-21 11:41:45 | 文化・芸術
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―表象の森- フェノロサと芳崖

1882(明治15)年、内国絵画共進会-第1回日本画コンクールとでもいうべきか-の審査員を務めたフェノロサは、「田舎の気違いおやじ」と揶揄されていた狩野芳崖の絵に「本会最大の傑作」と絶賛を惜しまなかった。
日本の伝統美術に惚れ込み、日本画復興運動に若き情熱をたぎらせていた青年フェノロサと、溢れる才能のままに新風を求めて奔放な画風を拓いてきたものの、時流に合わず不遇をかこっていた狩野芳崖の、運命の出会いである。時にフェノロサ29歳、芳崖はすでに54歳を数えていた。
翌1883(明治16)年に芳崖は、第2回パリ日本美術縦覧会に2点を出品、芳崖の才能にいよいよ確信を深めたフェノロサは、この年の末より自宅(現・東大キャンパス)の近くに転居させ、月俸20円を支給し、画業に専念できるようにした。
こうして二人の新日本画創造の共同作業がはじまり、さまざまな新工夫が試みられた。


写真「仁王捉鬼図」はこの二人の共同作業が結実した集大成的作品とされる。
従来制約の多かった鍾馗図を仁王に置き換えることで構図の自由化を図ったといわれ、フランスから顔料を取り寄せては、常識を破る色彩効果を狙った。
成程、不思議といえば不思議な絵である。
仁王が忿怒の相で邪気をひと捻り、その主題の図に対し背景に配された形象の奇異なこと夥しいものがある。龍が描かれた装飾文様の柱や煌々と灯されたシャンデリアがあれば、床は植物文様の絨毯か。
どうやらこれらの装飾モティーフは、当時、工芸品の図案考案を課せられていた新日本画における実用的要請からのものらしい。
それにしても、不動明王なら火炎となるべきが、この仁王の背後から涌き立つ緑色の雲煙のごときは、仁王の肉身の朱色と相俟って、卓抜な色彩の妙を発揮している。複雑怪奇な形象を多岐に描きながら、破綻のない迫力で画面を埋めつくした表現力とその技法の熟練は、たんなる新奇を越えて非凡な魅力を湛えている。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-51>
 すずき取る海人の燈火よそにだに見ぬ人ゆゑに恋ふるこのころ  作者未詳

万葉集、巻十一、物に寄せて思ひを陳ぶ。
邦雄曰く、遠目にさえ見ることのできない人、それでもさらに愛しさの募る人、われから不可解な恋の歎きを、意外な序詞でつなぐ、「すずき取る海人の燈火」こそ「よそ」を導き出す詞である。鱸は古くから愛され、万葉にも数首見える。しかも暗黒の海にちらちらと燃える漁り火が、作者の胸の思いの火の象徴となる。序詞が生きて働く、万葉歌のみのめでたさか、と。


 友恋ふる遠山鳥のますかがみ見るになぐさむほどのはかなさ  待賢門院堀河

邦雄曰く、山鳥は夜毎雌雄が山を隔てて別々に寝るという。二羽が互に伴侶を恋うて呼び合う。「真澄鏡-ますかがみ」は万葉以来「ますかがみ見飽かぬ君に」のように「見」の枕詞、愛する人の契りなど思いもよらず、ただ、それとなくまみえるのみの悲しみ。下句に収斂された忍恋の趣き、さすが中古六歌仙の一人、神祇伯顕仲の女のなかでも第一と謳われた作者ではある、と。

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むすぶ手の雫に濁る山の井の‥‥

2007-06-19 23:15:01 | 文化・芸術
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―表象の森- 吉田修一の「悪人」

「ブックレビューガイド」http://www.honn.co.jp/ というWebサイトがある。
年間15万件以上あるという新聞・雑誌などの書評紹介記事をデータベースに、多種多様の氾濫するBooksの現在まさに旬の情報を提供しようというものだ。このサイトによれば、本の紹介件数ランキングでこのところトップに君臨しているのが、昨年の朝日新聞の朝刊小説でこの4月に単行本化された吉田修一の「悪人」なのだ。
私はといえば、毎日新聞の今週の本棚(5/20)にあった以下のような辻原登の書評に動かされて本書を買い求めたのだったが、昨夕から今日にかけて一気呵成に読み継いだ。私にすればめずらしく久しぶりの小説読みに酔った時間といっていい。


辻原曰く「すべての『小説』は『罪と罰』と名付けられうる。今、われわれは胸を張ってそう呼べる最良の小説のひとつを前にしている。
渦巻くように動き、重奏する響き-渦巻きに吸い込まれそうな小説である。渦巻きの中心に殺人がある。
日常(リアル)をそのまま一挙に悲劇(ドラマ)へと昇華せしめる。吉田修一が追い求めてきた技法と主題(内容)の一致という至難の業がここに完璧に実現した。
主題(内容)とは、惹かれあい、憎みあう男と女の姿であり、過去と未来を思いわずらう現在の生活であり、技法とはそれをみつめる視点のことである。視点は主題に応じてさまざまに自在に移動する。鳥瞰からそれぞれの人物の肩の上に止まるかと思うと、するりと人物の心の中に滑り込む。この移動が、また主題をいや増しに豊かにして、多声楽的(ポリフォニック)な響きを奏でる。無駄な文章は一行とてない。あの長大な『罪と罰』にそれがないように。
主人公祐一の不気味さが全篇に際立って、怪物的と映るのは、われわれだけが佳乃を殺した男だと知っているからだが、もし殺人を犯さなければ、彼はただの貧しく無知で無作法な青年にすぎなかった。犯行後、怪物的人間へと激しく変貌してゆく、そのさまを描く筆力はめざましい。それは、作者が終末の哀しさを湛えた視点、つまり神の視点を獲得したからだ。それもこの物語を書くことを通して。技法と内容の完璧な一致といったのはこのことだ。
最後に、犯人の、フランケンシュタイン的美しく切ない恋物語が用意されている。悔悛の果てから絞り出される祐一の偽告白は、センナヤ広場で大地に接吻するラスコーリニコフの行為に匹敵するほどの崇高さだ。」と。


読み終えての感想はといえば、とても小説読みとはいえそうもない私に、この書評に付け加えるべき言葉など思い浮かぶべくもない。彼の書評に促されてみて、決して裏切られはしなかったというだけだ。
「彼女は誰に会いたかったか?」、「彼は誰に会いたかったか?」、「彼女は誰に出会ったか?」、「彼は誰に出会ったか?」、そして最終章に「私が出会った悪人」と、些か哲学的或いは心理学的なアナロジーのように章立てられた俯瞰的な構成のもと、紡ぎだされてゆくその細部はどれも見事なまでに現実感に彩られ、今日謂うところの格差社会の、その歪みに抑圧されざるをえない圧倒的多数派として存在する弱者層の、根源的な悲しみとでもいうべきものが想起され、この国の現在という似姿をよく捉えきっている、と書いてみたところで、辻原評を別な言葉で言い換えて見せているにすぎないだろう。


また、辻原評に先んじて、読売新聞の書評欄「本よみうり堂」(4/9)で川上弘美は、
「殺された女と殺した男とそこに深く係わった男と女と。そしてその周囲の係累、同僚、友人、他人。小説の視点はそれら様々な人々の周囲を、ある時はざっくりと、ある時はなめるように、移動してゆく。殺されたという事実。殺したという事実。その事実の中にはこれほどの時間と感情の積み重なりと事情がつまっているのだということが鮮やかに描かれたこの小説を読みおえたとき、最後にやってきたのは、身震いするような、また息がはやまって体が暖まるような、そしてまた鼻の奥がスンとしみるような、不思議な感じだった。芥川龍之介の『藪の中』読後の気分と、それは似ていた。よく書いたものだなあと、思う。」
と記しているが、この実感に即した評も原作世界によく届きえたものだと思われるが、果たしてこの川上評から促されて本書を求めたかどうか、おそらく私の場合そうまではしなかっただろうというのが正直なところだ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-69>
 思ひおく種だに茂れこの宿のわが住み捨てむあとの夏草  慈道親王

慈道親王集、夏、夏草。
邦雄曰く、出郷に際し、自らへの餞を夏草に向かってする、かすかに悲痛な趣きをも交えた歌。今、残してゆくわが思いの種を宿して、青々と生い立てと命じ、祈る心は、かりそめのものではない。「住み捨てむ」の激しい響きも読む者の胸を搏つ。慈道法親王、玉葉3首、風雅4首、勅撰入集は計21首とも25首とも。歌集には200首近くを収める、と。


 むすぶ手の雫に濁る山の井の飽かでも人に別れぬるかな  紀貫之

古今集、離別。
邦雄曰く、「志賀の山越えにて、石井のもとにて、もの言ひける人の別れける折によめる」と詞書あり、貫之第一の秀歌とも言われた作。浅い山の井はすくえば濁り、濁れば存分に、飽くほどは飲まぬという上句が序詞になっている。現実の行動が裏づけられてはいても、まことに悠長で、夏の清水がぬるくなってしまいそうだが、それも古今集の面白みであろう、と。


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思ひやれ訪はで日を経る五月雨に‥‥

2007-06-18 22:11:01 | 文化・芸術
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-世間虚仮- Festival Gate 7月末閉鎖へ

DanceBoxことArt Theater dBもCOCOROOMも、とうとう7月末で姿を消すことになったらしい。
5月も末頃の記事だったか、新世界の「フェスティバルゲート民間売却へ」と大阪市が決定したことを報じていたが、
大都会のど真ん中、ビルの谷間を縫って走るジェットコースターで市民の度肝も抜いた光景も、今は遠く夢の跡形の如く、閑古鳥の鳴くようなガランとしたゴーストタウン化した空間に、いくつかのフード店やコンビニなどと、新世界アーツパーク事業としてDanceBoxやCOCOROOMなどがアーティストたちへ活動の場を提供してきたユニークスペースも、破綻による累積赤字の肥大化には抗いようもなく、とうとう露と消えゆくことになったのだ。
大阪市は利用者たちへの言い訳がましい取り繕いのように、昨年末、施設空き区画の公共的な利用案を募集したものの、一旦売却へと舵を切った大方針が転換するはずもなく、折角寄せられた5つの回生案も、書類による一次審査だけで却下、いわば門前払いのようなもので、こうなることは端から織り込み済みのことではなかったかとさえ思われる。
これで、総工費393億円をかけた土地信託事業の施設が、現状有姿のままで、時価評価額8億円程度で叩き売られことになった訳だが、さすが太閤さんのお膝元、なんと気前の良いことかと開いた口もふさがらぬ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-68>
 思ひやれ訪はで日を経る五月雨にひとり宿守(も)る袖の雫を  肥後

金葉集、恋上、堀河院の御時、艶書合によめる。
邦雄曰く、訪れのない日々はさらぬだに悲しいものを、まして明けても暮れても雨、雨。来ぬ人を待つ袖は、雨のみか涙でしとどに濡れる。日を「経る」も宿「守る」も、「降る・漏る」と雨の縁語。命令形初句切れが切迫した作者の思いを伝え、口説くような粘りのある調べもこの恋歌に相応しい。肥前守藤原定成の女で、白河天皇皇女令子内親王に仕えた、と。


 呼ばふべき人もあらばや五月雨に浮きて流るる佐野の舟橋  越前

邦雄曰く、いささか劇的な二句切れに、すわ何事と目を瞠る。歌枕の「佐野の舟橋」が、増水で流失したという。拉鬼体(らっきてい)の一種であろう。作者は後鳥羽院皇女嘉陽門院に仕えた才媛で、正治2(1200)年院二度百首以来注目を集め、新古今初出のなかのなかの技巧派だ。判者急逝のため無判だが、左は藤原隆信の「空は雲庭のあさぢに波こえて軒端涼しき五月雨の頃」、と。

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