山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

門守の翁に帋子かりて寝る

2008-09-24 17:11:49 | 文化・芸術
080209007

Information<四方館 Dance Cafe>

―四方のたより― 稽古も酣

昨日-23日-は、21日の日曜につづいて稽古。
21日が、谷田順子さんの気功ワークの2回目で、前回同様3時間ほどを要したから、「襲Ⅲ」へと向けた本格的な稽古は、今日かぎり、Dancerたちそれぞれ、どんな見通しを立てられるかは、この日が生命線だ。

忙しいはずの清水-デカルコマリィ-君も時間をやりくりして12時半頃駆けつけてくれた。おかげで全体の構成、その概容は見わたせた。

短い1分ほどのBalletを5箇所挿入することで構成づけたのだが、その役を担うありさは、自分なりに懸命に考えて細かく振りを使い分けているが、もう身も心いっぱいというのだろう、今朝はダウンしたとかで、これまた12時過ぎに推参、彼女のペースに気を配りつつ、稽古に加えていく。

午後4時過ぎ、会場となる九条のMULASIAへと、みんなで下検分に。
4本の白木柱の間隔が思ったよりずっと狭いのに驚いた。以前に見ていた筈の私の記憶もずいぶんと好い加減なものである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-13

   火おかぬ火燵なき人を見む  

  門守の翁に帋子かりて寝る  重五

門守-かどもり-、帋子-かみこ-紙子、紙衣のこと

次男曰く、初裏も七句目、前句の作りには話の一つも誘う体があると見て、無常迅速の趣向を持ち出している。主人亡き家に偶々一夜の宿りを請うた旅人の観相、とでも読んでおけばよい。

炬燵に灯も入れぬぐらいなら着て寝る紙子もなかろう、というのは陳腐な思付に過ぎまいが、「かりて寝る」と治めたところが工夫だ。つれて、貸す人の位の釣合は「門守の翁」だと作っている。

故人は生前何らかの縁につながる人ではないらしい。それだけにいっそう、回向の情が「かりて寝る」に沁み渡る。仮の世にふさわしいのは借着だ、と含ませた作りで、「火おかぬ火燵」も掘炬燵ではなく置炬燵と見ているのだろう、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

火おかぬ火燵なき人を見む

2008-09-22 23:58:10 | 文化・芸術
Chagall_p01

Information<四方館 Dance Cafe>

―表象の森― シャガール展

久しぶりに霽れた秋空にそぞろ誘われたわけではなく、また気鬱ばらしというわけでもないのだが、偶さか連合いも月休とあって、シャガール展を観に兵庫県立美術館に行ってきた。

昔、京都で観た「シャガール展」は、はていつのことだったか、記憶は遙か彼方にあっていっかなはっきりしないが、おそらく40年以上もの時を隔てているのだろう。

初期作品から詳しく解説を読みながら観た所為で、後半期の大作や著名作品が並ぶ展示室に入った頃は、少々草臥れてきていた。すべて見終わって、とどのつまりは2300円也の図録冊子を買い求めるくらいなら、要所々々でたっぷり時間をかけて鑑賞すればよかったとちょっぴり後悔。

最後尾の展示、大画面のタペストリー「平和」などを見ると、中原喜郎氏の「我等何処より来たりて」シリーズの大作が想起され、なにやら懐かしいような感懐に浸らせてくれた。

今日観たなかでのお気に入りは、大作ではないが「ソロモンの雅歌」シリーズ。ところがこの作品、ⅠからⅤまで5枚あるはずだが、Ⅱが展示されていない。いずれもニース国立シャガール美術館に所蔵されている筈だから、何故揃わなかったのか判らない。

版画集の「ラ・フォンテーヌの寓話」や「死せる魂」シリーズもよく見ていくとずいぶん愉しめる。ところが1930年当時のフランスは、ユダヤ人への排他的な風潮が支配的で、国民文学ともいうべきフォンテーヌの古典に、なぜ異邦人のシャガールを起用するのかと批判が噴出、フランス議会にまで採り上げられ問題とされた、というから時代的状況の暗部を照らしておもしろい。

―今月の購入本―
・梁石日「闇の子供たち」幻冬舎文庫
貧困が人ひとりの命を限りなく軽くする。アジアの最底辺で今、何が起こっているのか。幼児売春、臓器売買、モラルや憐憫を破壊する冷徹な資本主義の現実と人間の飽くなき欲望の恐怖を描く。

・吉本隆明「日本近代文学の名作」新潮文庫
毎日新聞の文化面で週1回連載した「吉本隆明が読む 近代日本の名作」-2000年4月~2001年3月-をまとめた一冊。昭和の太宰治から明治の夏目漱石にさかのぼる24人。

・上野千鶴子・編「「女縁」を生きた女たち」岩波現代文庫
20年前の、著者と電通ネットワーク研究会による「「女縁」が世の中を変える」を母体にⅡ部・Ⅲ部を書き下ろし付加した新版。

・草森紳一「不許可写真」文春新書
第2次上海事変から日中全面戦争へと突き進んだ時代、陸軍・海軍・内務省・情報局の検閲をかいくぐり残された、毎日新聞社秘蔵の不許可写真を収録、解説する。

・多田富雄「生命へのまなざし-多田富雄対談集」青土社
今年の小林秀雄賞「寡黙なる巨人」の免疫学者多田富雄が、多くの文化人らと、免疫、自己、老化、脳死と臓器移植、ウイルス、エイズなど、生命科学と文化の接点を語り合った対談集。

・「シャガール展-色彩の詩人-」西日本新聞社
・広河隆一編集「DAYS JAPAN -この地球の子どもたち-2008/10」ディズジャパン

―図書館からの借本―
・李禹煥「時の震え」みすず書房
「今日という地平では、一つの塊のような対象、一つの出来上がったメッセージと向き合うことは堪えがたい。物も人も、在って無きがごとくの在りようが好ましい。むしろ向き合うことなしに、間を意識すること、ひいては見えないがより大きな辺りの時空間をこそ感知し、そこにおのれを解放したいのである」 2004年刊。

・別冊環「「オリエント」とは何か」藤原書店
西洋史でも東洋史でも捉えられない、世界史の中心としての「オリエント」。世界が大きく変動する今日、オリエントの重要性を問う特集。2004年刊。

・別冊環「子守唄よ、甦れ」藤原書店
人々の暮しや生活の中から生まれた心の唄であり魂の伝承でもあった子守唄が、なぜ喪失してしまったのか。子どもたちの未来に向けて、今こそ、人間にとって子守唄とは何か、そして子守唄をどうやって甦らせるのか。2005年刊。

この2週間ほどは読書どころではない日々が続いた。よって借本もいつもより少なく、それもほとんど手つかずのありさまで、先月から借りていた丸山健二の新作「日と月と刀」下巻をそのまま借り越して、昨夜やっと読み終えたばかり。

この小説、短い一節々々を2行ほどの文を小見出しよろしく冒頭に掲げ、そのまま描写を進めて、延々と読点で数珠繋ぎに繰り延べ、一節の終りまで句点をまったく打たないという型破りの文体で、それが却って流し読みを許さない。声こそ出さねどブツブツと音読するが如くで、上下巻読了にまあ時間の要したこと夥しいが、それだけにずいぶん愉しめたともいえる。

読み終えてから、小説の動機となった作者不詳の「日月山水図屏風」が、女人高野とも謂われた河内長野の天野山金剛寺に伝えられてきたのを知った。この絵、寺では毎年5月5日と11月3日の二日のみ特別拝観しているという。近く是非まのあたりにしてみたい。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-12

  捨られてくねるか鴛の離れ鳥  

   火おかぬ火燵なき人を見む  芭蕉

火燵-こたつ-

次男曰く、「捨られてくねる」を、オシドリなら死別だろうと見定めて、火のない炬燵に寄って亡き人を偲ぶ情に移した句だが、いきなり話を拵えているわけではない。

「鴛の離れ」から「火おかぬ火燵」まず思い付いたところがみそである。火がなければ火燵も無用を嘆く、と考えれば俳になる。

こういう句を、怨みかこつ前句の姿から思慕の情に転じたなどと読んでは、屋上屋を架す式の付伸しにすぎないことは容易にわかる筈だが、諸注殆どそう読んでいる。

「是は夫に離れたる女などの、夫を慕ふ心也」-越人注-、「火置ぬ炬燵といふに鴛のしば啼寒さを見せたり。‥故人を算へ居る老の身の侘しさ、其余情句外にあふるるものならし」-升六-。

また、「前句捨てられてとあるを、死にあらずんば離れざる禽故、ここには無常と取りて、亡き人を見んとは作れり。‥今は其人既に亡せて其物猶存し、旧物眼に入るにつれて深感の胸に添はるところを云へるなり」-露伴-、などと。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

捨られてくねるか鴛の離れ鳥

2008-09-20 22:11:04 | 文化・芸術
Db070509t094

Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― Soulful days -7-

「3人の兄と、ひとりの妹へ」

電話にてお知らせしようと思いましたが、書面FAXにて連絡するほうが、事態の流れをより正確に遺漏なく伝えられるかと思い直し、文章にしています。

RYOUKOのことです。
9月13日未明現在、RYOUKOは、法円坂にある独立行政法人国立病院機構「大阪医療センター」-以前の国立大阪病院-の集中治療室にあります。

9月9日午後8時30分過ぎ頃-推定-、そのRYOUKOを乗せたタクシー-車種エステマ-が、波除の家を出た矢先の辰巳橋南交差点を右折する際、九条方面より直進してきた自動車-車種ハイエース-と衝突するという事故が発生。
近頃のRYOUKOは、費用も安くつくとかで夜の出勤のためにMKタクシーに家まで来て貰って乗って出かけるのを常としていたとのことです。
右折し徐行しながら直進しかかっているタクシーに、対面方向からの直進車がかなりのスピードで走ってきて衝突したわけで、ちょうどRYOUKOの坐っていたタクシー後部を直撃したことになります。
ただちに救急車が呼ばれ、大阪医療センターに搬送されたのですが、RYOUKOは事故直後から意識不明だったそうです。

私が、母親-元妻-のIKUYOから連絡を受けたのが午後9時過ぎ頃、彼女が救急員から連絡を受けて病院へ駆けつけるタクシーの中からでした。
IKUYOも、そして私も、仕事で泊りだった為少し遅れて駆けつけた弟のDAISUKEも、救急治療室で治療を受けるRYOUKOの姿を垣間見ることも叶わず、容態もなにもわからず、ただ室外で待つばかりで3時間くらいの時が経ちました。

突然、担架に乗せられ、身体中にいろいろな器具を取り付けられたRYOUKOが、医師や看護師らに運び出され、眼の前を通り過ぎていきました。一言聞きえたのは、救急治療は一応終えてこれから別室でいろいろな検査をする、といったようなことでした。
我々3人もその後を追ってその病室の前で、まったく容態の分からぬまま、またもただ待つばかりの3時間あまりを過ごしました。

午前4時を過ぎる頃、今度は3階にある集中治療室に運ばれました。そしてやっと面会が許され、続いて別室で医師から症状の説明を受けました。
病院に運び込まれた時点からずっと意識不明であること、瞳孔反応もないこと、事故の衝撃で脳内に急性硬膜下血腫を起していること、脳の腫れ-脳浮腫-も併発していること。助かる見込は?と問えば、可能性はかなり低いこと‥、といったことがその概略でしたが、そもそも硬膜下血腫がどれほど危険なものか、脳浮腫との因果関係は? 我々に分かる筈もなければ、医師がもう助からないのだと断定しているわけではない、ということに望みを託すしかありません。
医師はすでに集中治療室において低体温療法の治療体制をとっており、この処方を、3日間を目処に行っていくという。その結果、たとえどんなに脳の高次機能障害が遺ることになろうとも、RYOUKOが生きる、生きられるのであれば‥、このまま死にゆくなんて、受け容れられる筈がありません。

それから昨夜までの3日間、許される面会は午後3時から8時までのあいだの30分間、原則として家族のみ、感染等のリスクがあるので中学生以下は不可。
その短い時間を、IKUYO、DAISUKE、私の三人が、それぞれ一緒にあるいは個別にと、生きているか死んでいるか分からぬ、じっと不動のままひたすら眠りつづける、実際のところは現代医療の技術と機器で辛うじて生かされているにすぎないRYOUKOに会い、ただ見つめてきました。

昨夜-9/12-7時半、救急治療をしてくれた医師がそのまま主治医を担当してくれていたのですが、その医師から家族に今後につき話をしたいとのことで、この日も二度目の面会に行きました。
IKUYOも、DAISUKEも、それに私にしても、まだなんらかの治療の試み、それが脳の切開手術なのか別の手立てなのかは分からない、絶望的だけれどまだなにか、それはRYOUKOにも私らにもとても苛酷なことだろうけれど、そういうことを聞かされるものと思って行ったのでしたが‥、
意に反して、もう助かることはない、という冷厳な事態にまともに向き合うしかないというものでした。
すでに脳は死んでいること、ずっと瞳孔反応がまったくないということですから、脳幹も死んでいる、全脳死だということ。
ひるがえって、事故直後、救急で運び込まれ、治療にあたっていたその時点から、すでに脳死状態にあったということ。
いまはただ延命治療をしているにすぎないという事実を、家族みんなが真正面から受けとめ、いつまで続けるのか、いつ打ち切るのか、あのRYOUKOの呼吸を止める、その時、その決定を、三人の家族に委ねられたのだ、というものでした。

13日未明現在、IKUYOも、DAISUKEも、私も、今日ただちに「もう結構です、どうぞ機器を外してやってください」とはとても言えそうもありません。
かたわらRYOUKOには苛酷なことを強いてしまっていることなのだけれど、なお一両日のあいだ、断を下せそうもない、下さない、と考えています。

RYOUKOのこと、事ここにいたるまで、お知らせできなかったこと、お知らせしなかったこと、水臭い奴あるいはそれでも兄弟かとの誹りを受けるかもしれませんが、どうかお許し願います。
IKUYOからも、DAISUKEからも、洩れ知らせることがなかったようで、この未明それを確かめたうえ、こんな形をとることにしました。ほんとうに申し訳ありません。 2008.09.13 早朝記す

以後、13日と14日の午後は、急を聞いた兄弟親族らと、DAISUKEを起点に連絡のいったRYOUKOの友人たちがつぎつぎと見舞に訪れ、集中治療室前の控えのコーナーは思わぬ賑わいをみせていた。
その足もほぼ途絶えた14日夕刻、我々三人は最後通告たる覚悟を確認しあったうえで、当直医に面談を申し入れ、その意志を伝えた。「これ以上の延命治療は、もう結構です」と。
それから1時間も経っただろうか、血圧維持の薬剤投与交換の時に血圧が急降下した。これまでならその際に大量の薬剤投与をしたり、機器を使って無理にも血圧を上げていたのだが、早速これを止めたのだから血圧は20~25あたりを推移するのみで、いまにも呼吸停止の危機がやってきたらしい。
外にいた我々はすぐに呼ばれ、驚き慌てて駈け込む。RYOUKOはすでに虫の息同然だった。ベッドの傍らで見守ること数分、RYOUKOは静かに息を引き取った。当直医が、瞳孔を診、脈をとり、死を告げた。

平成20年9月14日午後7時14分、RYOUKO死す。
昭和44-1969-年5月15日生れの、39年と4ヶ月の生涯は、ここに呆気なくも幕を閉じた。

翌夕、午後7時より通夜、告別式は16日午後1時30分より、会場は港区夕凪の浄光寺。日頃稽古場としてお世話になっているアソカ学園の麻生さんにお願いし、導師をも務めていただいたわけである。
通夜も本葬も、RYOUKOの友人らがたくさん駆けつけてくれた。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-11

   うきははたちを越る三平  

  捨られてくねるか鴛の離れ鳥  羽笠

鴛-おし-鴛鴦(おしどり)の鴛は雄、鴦は雌

次男曰く、縁遠い女の心の内をはたから覗く狂言回しふうの仕立、と読めば二句は面白く、ついそう読みたくなるが、これはことばの罠である。解釈はせいぜい、女が離れ鳥に寄せてものを思うというあたりまでで、それ以上「捨られてくねるか」に思い入れて読むと、景を取り出して合せた意味がなくなる。

句の興はむしろ、「二満」あっての「鴛の離れ」という着眼の気転で、それを「くねる」と崩して見せた。一羽のオシドリが番から離れて水面を曲るという写景的状況から、縁遠い女が文字通り見捨てられてひがむあるいは怨みかこつという述懐まで、幅を持っている。

いるが、この後の解釈にさっそくとびついて観想にとらわれると、三句絡みになってはこびは停滞してしまう、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

うきははたちを越る三平

2008-09-19 10:12:28 | 文化・芸術
Alti200611

Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― Soulful days -6-

RYOUKO、RYOUKO、RYOUKOよ
おまえは、まだ宙吊りのままに、空のなかほどにあって
焼き尽くされ、小さな器に盛られた
おのが骨片を、見ているのだろうか

RYOUKO、RYOUKO、RYOUKOよ
あの一瞬の出来事、あれはいったいなんだったのか
おまえにわかるはずはなく、呑み込めるはずもなく
ただただ、怪訝な面付きで、おのが骸を眺めやるしかないおまえ

RYOUKO、RYOUKO、RYOUKOよ
あの瞬間、思いもよらぬ衝撃に、うすれゆく意識のなかで
おまえの網膜に映じたのは、どんな像であったのか
ベッドの上でひたすら眠りつづける姿を見たときから
詮なくもただそればかりを想い、考えるしかないオレなのだ

RYOUKO、RYOUKO、RYOUKOよ
すでに此方と彼方に分かたれ、けっして交えぬ場処にあれば
応えられるはずもないおまえに、投げつけることばの数々は
虚しく空-クウ-にひびき、この身に還っては、ただ墜ちくるばかり

RYOUKO、RYOUKO、RYOUKOよ
おまえは成仏なぞするな、浄土へなぞ往かずともいい
これからはずっと、オレの傍にいろ
これからはずっと、このオレにべったり、貼り付いていればいい


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-10

  おもふこと布搗哥にわらはれて  

   うきははたちを越る三平  杜国

越る=越ゆる、三平-マルガホ-と読む

次男曰く、「布搗哥にわらはれ」る人を、男-隠居-から女-嫁入口のない-に奪った付。はこびの常道だが「おもふこと」の憂さを「はたちを越る三平」と作ったところは、やはり巧い。

三平二満は黄山谷の「四休居士詩序」に見える。額・鼻・頤は平らで両頬のふくれた顔を云う。「三平二満」は本来ほどほどの満足を表す譬えで、不美人というわけではない。

「越人注」に「三平-マルガホ-」を「見悪き顔也」と云い、そう解している注釈が多いが、不器量では句が死ぬ。マルガホは良い訓みだ。

露伴も「容貌の不美をいへること論無し。ただ三平は平顔と訓まむかた当るべく、又円顔は必ずしも不美ならざれど、当時の俗、瓜枝顔を尚みて円顔を好しとせざりしより、円顔とは訓みしなるべく、相伝の訓とおぼしければ今の意を以て古来の訓を改むべからず」と云う。

マルガホが相伝の訓かどうかはよくわからぬ。自分では嫌な顔だと思い、他から見ればかわいい顔、という気味合が「三平」にはあるだろう。この食い違いを捉えて朋輩たちが可笑しがる。そんなに気にすることないわ、「二満」省略を含として利かせた作りと解しておく、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

おもふこと布搗哥にわらはれて

2008-09-17 13:22:45 | 文化・芸術
080209023

Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― Soulful days -5-

「脳低体温療法」
脳低体温療法は、脳内毛細血管内圧低下による脳浮腫と頭蓋内圧亢進の抑制、脳内熱貯留の防止、脳内興奮性神経伝達物質放出抑制などの効果が期待されている方法である。

しかし、この脳低体温療法は心拍出量の減少免疫能の低下による呼吸器感染症、低カリウム血症、血小板減少症、敗血症やエンドトキシンショックなどの合併症は低体温の程度と密接に関係しており35℃程度では、その発生はわずかであるが、32℃前後になると高率に発生するとされている。

脳低体温療法は、脳にとっては良くても、生体には大きな侵襲を及ぼす二面性を持っている。そのため、単に体を冷やせば良いというものではなく、各温度の変化に伴う生体の反応を十分に認識することが重要である。

97-H09-年という些か古い情報-文藝春秋4月号-だが、脳外科医だった柳田邦男氏が取材したという、こんな事例もあった。

「対光反射なし・瞳孔散大・意識レベル300・CT-急性硬膜下血腫・脳挫傷による脳全体の偏位-」

これだけの悪条件をみると、経験豊かな脳外科医であれば、やはり「まず99%は助かりません」とご家族にお話しすることが多いと思います。但し実際CTを見ていないため、急性硬膜下血腫・脳挫傷による脳全体の偏位の程度がわからないため、ほんとうに低体温療法をしなければ助からなかった症例であるのかどうかは不明であります。また仮にCTを見ていても、細かな予測は困難であるというのが本音であります。しかしいずれにせよ、かなり重篤な病状であることは事実です。

林教授は、手術しても脳全体が浮腫を起こしてしまっては手術の意味がなくなると判断し、低体温療法をまず選択し、時期をみて手術する治療方針を決断した。
発症2日目、瞳孔は縮小した=よくなったが、3日目再び散大し、CTで血腫が拡大していた。手術が決行された。

発症7~9日目に二日がかりで体温はゆっくりと戻された。しかし戻した同夜、脳圧が急激に上昇し再び危険な状態となり低体温が再度行われた。三週間後、脳の皺は戻り、奇跡は起きた、と。


RYOUKOの蘇生は
この「低体温療法の奇跡」に
一縷の望みを託すしか、ほかに術はなかった‥‥。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-09

   いはくらの聟なつかしのころ  

  おもふこと布搗哥にわらはれて  野水

布搗哥-ぬのつきうた-

次男曰く、娘聟をなつかしがる其人の付である。たくましい聟を隠居がうらやむと老妻が冷やかす、というだけのことをうまく云回している。

句の手柄はむろん布搗歌などという民俗唱歌に思い及んだところだが、前句は懐かしがる側の人にもあった若き日のことを自ずと回想させ、句を男同士の共感と見れば、次を継ぐのは女であって自然であるから、その女は「年甲斐もない」と男を冷かしながら、同様に回想を誘われる。

「布搗哥」とい素材はそこに発見される。「なつかしのころ」の余情にはちがいないが、ただ漫然と気分で継いでいるわけではない。男の胸の内を見抜いて笑うのは嫁・下女・妾・近所の女たちや遊女などであってもよいだろうが、老妻がいちばん相応しいというところに落ち着く。苦楽を共にした歳月もそこにうかぶだろう。そして娘を嫁がせた親の気持ちもである。

なお、からかうのは女たちではなく、歌の文句に笑われると読むこともできるが、そう読んでも人物の設定にさして変りはあるまい。

岩と布の材質の対比は、とりもなおさず男と女の対比だ、というところに気がつけば岩倉に掛けて布を搗く面白さ現れ、とくに解など須いない句だが、それからそれへと余情が縷のごとく生れるところ、巧みに人情風俗を持たせた佳句である、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。