山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

バスが藤の花持つてきてくれた

2010-12-15 16:44:21 | 文化・芸術
Dc090926302

―日々余話― Soulful Days-43- これで終り?

先の11月29日午後2時、損害賠償請求の民事訴訟における最後の公判期日。
この日も前々回に続いて、一方の被告T.K本人が出席した。無論、過保護な親の意向が強く働いていたこととはいえ、これまでは親任せ、代理人任せにしていた訴訟ごと万事が、最後の最後になって、和解調停の解決へと運ぶ関門として、遺族と対面して直々に詫びの言葉を、という裁判官からの要請によって、やむなく公判の席に臨んだ9月のときから、自己の社会的責任において否応もなく逃れえぬ最低限のこと、そんな場面に初めて彼は立たされた訳だし、その延長として自ら出席することを選択して来たのだろう。

数日後、K弁護士から、この日の公判で成立した和解条項の、正本の写しが送られてきた。
<和解条項>
1. 被告両名は、原告らに対し、本件交通事故に基づく損害賠償債務として、連帯して、既払金を除き、合計××万円の支払義務があることを認める。
2. 被告両名は、原告らに対し、連帯して、前項の金員を平成22年12月30日限り、原告ら代理人の指定する下記記載の銀行口座に振込んで支払う。ただし、振込手数料は被告両名の負担とする。
3. 被告M株式会社と被告T.Kとは、本件事故の過失割合が、訴外M.M7割、被告T.K3割であることを相互に確認する。
4. 原告らは、被告両名に対するその余の請求をいずれも放棄する。
5. 原告ら、被告両名及び利害関係人は、原告らと被告両名との間及び原告らと利害関係人株式会社Nとの間において、本件交通事故に関し、本和解条項に定めるもののほか、何らの債権債務のないことを相互に確認する。
6. 訴訟費用及び和解費用は各自の負担とする。

これで刑事民事双方に及んだ訴訟事は、すべて終り、幕は降りたのだ。
RYOUKOがその命を落とすこととなった事故の顛末は、顛末という限りにおいては、その事故の当事者、M.MとT.K双方の、それぞれの向後の人生に降りかかる軛の重さ、その軽重に、その明暗にどう考えても不条理としか思えぬ大きな差違を残しながら、すべて終ったのである。
そしてわれわれ遺族、同じ遺族とはいえ母のIkuyoと父の私は、すでに一つの家族として共にはなく、IkuyoにはIkuyoの孤独な軛が、生きている限り逃れえぬものとしてのしかかり、ただひたすら哭くしかない日々がずっと続くのだろう。
そう、彼女には、同じ<な>く行為だとしても、<哭>という表記がふさわしい、と思われる。
そして私はといえば‥。

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

Dancecafe20101224web04

―山頭火の一句― 行乞記再び -127
5月7日、晴、行程2里、福川、表具屋

ほがらかに眼はさめたのだが、句会で饒舌りすぎ、夜中飲みすぎたので、どこかにほがらかになりきれないものがないでもない。
さうさうとして出立する、逢うてうれしさ、別れのつらさである、友、友の妻、友の子、すべてに幸福あれ。
富田町行乞-そこは農平老の故郷だ-、そして富田よいとこと思つた、行乞相は満点、いつもこんなだと申分ない。

けさ、立ちぎはの一杯二杯はうれしかつた、白船老の奥さんは緑平老の奥さんと好一対だ。
ここまで来るとS君のことが痛切に考へられる、S君よ健在なれ、私は君の故郷を見遙かしながら感慨無量、人生の浮沈を今更のようにしみじみ感じた。

此宿は飴屋の爺さんに教へられたのだが、しづかできれいで、気持ちよく読んだり、書いたりすることが出来る、それにしても私はいよいよ一人になつた。

※表題句のみ記す

12151
Photo/富田は現在の周南市富田だろう。この町には中央に大きな風車を設置した永源山公園がある

12152
Photo/その永源山公園から周南市街地や瀬戸内海を望む

12153
Photo/公園から西南の麓には山崎八幡宮があり、その節分祭風景


人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

そよいでる棕櫚竹の一本を伐る

2010-12-14 03:47:13 | 文化・芸術
Santouka081130059

―表象の森― <見る>ことを超え出て
辻邦生ノート「薔薇の沈黙-リルケ論の試み」より –参-

<見る>とは、対象の外-前-に立って、対象をそこに現前させることだ。<見る>行為は、その意味では、対象-世界-を現象として浮かび上がらせるが、対象から離れることはできず、むしろ対象に依存-従属-している。いかに視覚が働こうと、事物がなければ何も見ることはできない。同時に、最後まで自己性を超えられないゆえに<見る人>は<対象>-世界-の前に立つのであり、対象-世界-と外面的な関係を持つに過ぎない。世界とのいかなる内的関係も失って、世界自体の合理性の上に築かれた<近代>社会では、人間は<見る人>であることを強いられる。誰もが<見る>以上のことはできない。だが、それは人間が根源的に排除・疎外されている証拠でしかない。

「マルテの手記」以来、リルケが<愛する女><内から外へ溢れる薔薇><天使>の映像で<純粋意欲>―欲求対象を決して所有しない、自己性を克服した純粋活動としての意欲―を追求したのも、ただひたすら近代人を孤独と窮乏の中に投げこむ<近代>を克服するには、それによるほかに方法はないと、確信できたからだった。というより、リルケがパリの孤独と<誰のでもない死>から自らを救い出そうとして苦悩するあいだに、救済の道としてみえてきたのが、この休止することのない<純粋意欲>だったというべきだろう。それはニーチェの「力への意志」とほとんど同質の「生への意欲」といっていいものであった。

この<純粋意欲>が「転向」では<愛>という言葉でよばれている。<見る仕事>が終り<心の仕事>を始めなければならないとは、<見る>ことが宿命的にもつ「物の外にあること」と「物への依存」を超えてゆくことにほかならない。そしてそれは<見る>ことの制約を確認することから始まる。「転向」における「見ることには一つの限界がある」と「よく見られた世界は/愛のなかで栄えたいと願う」という詩句は、リルケが直覚した<見る>の限界の一地点を示している。それからあとは、<見る>営みが「物たちが愛のなかで栄える」ことを目ざして、<愛>の力を借りつつ自己超克してゆくプロセスとなってゆく。<見る>はこうして「物の外にある」ことを超えて「もののなか」へと入ってゆく。「外」とは、近代人の無関心、いかなる熟視も内側に抱え込んでいる無関心のことだ。「転向」において「それらは/お前が擒にしたものでありながら さて、お前はそれを知ってはいない」と表現されている近代人の無知のことだ。それを愛の熱情で溶かし、無関心の原因である自己性を解体・超克してゆく。

青空を見るとき、われわれは単に青空がそこにあると思うにすぎない。家を見るとき、単に家がそこにあると思うにすぎない。だが、<見る>を超えた感受にとっては「青空」は何かそれによって心をときめかせるものとなる。「家」は寛ぎと強く結びついた存在となる。すくなくとも、それはただ空が青いという現象的事実ではなく、その青さによって絶えず無限の物想いを語りつづける存在となる。それは時にゴッホの画面に深く沈むオーベールの麦畑の上の青空のように、無限の悲しみを語りつづける。またセザンヌの「大水浴」の遠い青空のように地上の悦楽の極点にある至福を象徴する。

ここでは<見る>は「青空という物」の外にあるのではないし、その現象的事実に従属しているのでもない。逆に、そこに「青空」という新しい現実を生みだし、われわれはその中に入り、無限の内容を生き始めるのだ。「青空」はもはや現象的事実ではなく、感受力は現象する青空の単一性を超え、そこに無限に開かれる青空の映像を映してゆくことになる。それは喜びから悲しみまであらゆる調音を響かせるが、その根底には存在の歓喜が横たわっている。なぜなら<見る>を超えた感受力は、何よりも、存在に内在する生命力と交歓するからだ。それはパリ時代のリルケがロダンのなかに鋭く見出していったものであった。

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

Dancecafe20101224a405
―山頭火の一句― 行乞記再び -126
5月6日、曇、后晴、ふつてもふいてもよろしい白船居

悠々として一日一夜を楽しんだ、洗濯、歓談、読書、静思、そして夜は俳句会へ。
糞ツ南無阿弥陀仏の話はよかつた、その「糞ツ」は全心全身の声だ、合掌して頂戴した。
句を拾ふーこんな気持にさへなつた、街から海へ、海から森へ、森から家へ。
――
棕櫚竹を伐つて貰ふ、それは記念の錫杖となる。
よく話した、よく飲んだ、よく飲んだ、よく話した、そしてぐつすり寝た。

※表題句の外、11句を記す

久保白船は、山頭火と同様に句誌層雲の同人、また選者としても活躍した。後の昭和15年、山頭火が四国松山の一草庵で急死した際、報せを聞いて駆けつけ、遺体を荼毘に付したという生涯の友。その彼もまた翌年に急逝している。

12141
Photo/白船が住んでいたのは現在の周南市徳山、その岐山地区に白船の句碑が立つ

12142
Photo/白船の生地は、周南市よりさらに南東部の平生町、その沖合に浮かぶ佐合島。


人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

あざみあざやかにあさのあめあがり

2010-12-12 10:35:05 | 文化・芸術
Dc09122693

―表象の森― リルケにとってのロダンとセザンヌ

・辻邦生ノート「薔薇の沈黙-リルケ論の試み」より –弐-

リルケはマルテと一体化することによって、<近代>の空虚な生を徹底的に経験することになるが、同時に、その空虚な拡がり・深化のなかで、それに匹敵する強度をもって、それを克服する力-求心力-を探求しなければならなくなる。
いわばこの圧倒的な水圧に抵抗して、必死で克服するプロセスが、リルケを単なる詩人から、「ドゥノイの悲歌」の詩人へと鍛え上げてゆく。というのは、問題の全体を意識しうる地点に登高する苦悩に満ちた過程で、リルケはマルテと別れ、自ら生き残る道を見出し、同時に、それが後期の詩的世界へつながることになるからだ。

この<近代>の空虚化・疎外化する生を克服するとは、リルケ=マルテにとって、生の内実・プロセスを、内側から満たすという形による快復に他ならない。それは<近代>の要求する業績-仕事の成果-万能主義に対して、仕事のプロセスこそが意味を持つとする生き方の確立だった。「ひたすら活動しつつ決して自己意識に戻らず、全的に外に向って開いた精神」―それこそがリルケ=マルテが願った生き方だった。外に向って<働く>けれど、<働いた結果>を顧慮しない意識、<見る>けれど、<見られる>ことを期待しない意識、<愛する>けれど、<愛される>ことを乗り超えた意識―それが<近代>の空疎化された生を、根底から逆転する道だった。

リルケはこの反転の契機をロダンとセザンヌから学んでゆく。それは芸術制作の場だけではなく、時間の性格をも、空間の意識をも、<近代>のそれと決定的に異質なものに変えてゆく。時間でいえば、ロダンの不屈な忍耐力、セザンヌの孤独な持続力は、計量化された<近代>的時間意識からは理解できないし、だいいちそれを実践することなど思いも及ばない。また空間における<近代>性の特徴とは、都市のビルが典型的に示すように、そこから生の内実を消去して、空虚な計量的・幾何学的・非生命的な空間となってゆくことだ。その空間を反転させ、ロダンがいかに豊穣な官能生と精緻な運動感で満たしていったか、彼の多彩な彫刻群を見れば納得がゆく。セザンヌの絵画空間の根源的な透明な重さも同じような空間の生命化の意志から生れている。そこに湛えられているのは「神さまから、永遠のむかし、わたしにつくれと命ぜられた甘美な<蜜>」なのである。この二人は<近代>の空虚化の圧力に抵抗し、心の内部をかかる<生命>の<蜜>で満たしながら、それを孤独な仕事を通して、内から外へ実現-レアリザシオン-してゆく。リルケが「マルテの手記」のなかでマルテと同化しながら一つの典型として示すのは、この<内から外へ>を純粋に徹底して成し遂げた人間たちーすなわち<愛する女>とは芸術家の原型といってもよく、<近代>が歪める以前の、人間の本源の在り方といってもいいものなのだ。それはハイデッガーが「元初の能力、それぞれのものをそれ自身へ集中する能力」と呼んだものであり、「存在者はすべて、存在者として意志の中にある」と規定した「意欲するもの」の根源の姿なのである。

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

Dancecafe20101224web03

―山頭火の一句― 行乞記再び -125
5月5日、雨、破合羽を着て一路、白船居へー。

埴生―厚狭―舟木―厚東―嘉川―8里に近い悪路をひたむきに急いだ、降る吹くは問題ぢやない、ここまで来ると、がむしやらに逢ひたくなる、逢はなくてはおちつけない、逢はずにはおかない、といふのが私の性分だから仕方がない、嘉川から汽車に乗る、逢つた、逢つた、奥様が、どうぞお風呂へといはれるのをさえぎつて話しつづける、何しろ4年振りである。―

今日ほど途中いろいろの事を考へたことはない、20数年前が映画のやうにおもひだされた、中学時代に修学旅行で歩いた道ではないか、伯母が妹が友が住んでゐる道ではないか、少年青年壮年を過ごした道ではないか-別に書く-。

峠を4つ越えた、厚東から嘉川への山路はよかつた、僧都の響、国界石の色、山の池、松並木などは忘れられない。
雨がふつても風がふいても、けふは好日だつた。
端午、さうだ、端午のおもひでが私を一層感傷的にした。-略-

話しても話しても話しつきない、千鳥がなく、千鳥だよ、千鳥だね、といつてはまた話しつづける。
長州特有のちしやもみ-苣膾-はおいしかつた、生れた土地そのものに触れたやうな気がした、ありがたい、清子さんにあつく御礼申上げる。

※表題句の外、11句を記す

12121
Photo/西国街道-旧山陽道-の嘉川~厚東間の山路にある熊野神社

12122
Photo/その街道筋に「どんだけ道」と呼ばれる山路が今に残る


人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

露でびつしより汗でびつしより

2010-12-11 10:46:54 | 文化・芸術
Dc090926203

>―日々余話― Walkingと朝湯

とりあえず三日坊主を克服? Walkingは5日目。
眼が覚めたのは5時、小一時間は読書、東の空が少し明るくなるころ家を出る、玄関ロビーの時計を見ると6時15分だった。
いまのところコースは住吉公園と住吉大社廻り、公園に行き着くまでに15.6分かかる、ぐるりと園内を廻る、園の中央辺りに設置されたスピーカーからラジオ体操の放送が流れ、広い園内のあちらこちらで、延べ数十人くらいだろうか、三々五々体操をしているなかを、此方はただひたすら歩きつづける。
大社の境内も公園に比すほどに広い、初詣などでは太鼓橋を渡って、本殿たる4つの本宮を廻る程度だが、摂社・末社やさまざまな石碑の類、付随の施設など、まあいろいろとあるものだ。
帰り道の粉浜や東粉浜の町は、戦後の区画整理事業の区域外なのだろう、狭い路地ばかりの街並みだから、コースのVariationはいくらでもあり、それもまたよろし。
7時半頃帰宅、きょうは朝風呂をゆったりと堪能、これ極楽々々。

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

Dancecafe20101224a406

―山頭火の一句― 行乞記再び -124
5月4日、曇、行程8里、埴生、今井屋

行乞しなければならないのに、どうしても行乞する気になれない、それを無理に行乞した、勿論下関から長府まで歩くうちに身心を出来るだけ調整して。

長府はおちついた町で感じがいい、法泉寺の境内に鏡山お初の石塔があつた、乃木神社二十周年記念の博覧会-と自称するもの-が開催されてゐた、それに入場する余裕もないし興味もないので小月まで、小月では宿といふ宿から断られた、しようことなしにここまで歩いた、電灯がついてから着いて、頼んで泊めて貰つた、何といふ無愛想な、うるさい、けちな宿だらう!-しかし野宿よりはマシだ、30銭の銅貨は泣くだらうけれど-

どこへ行つても日本の春は、殊に南国の春は美しい、美しすぎるほど美しい。

※表題句の外、3句を記す

12111
Photo/室町の大内氏、戦国の毛利氏らの城下町長府には著名な神社仏閣が多い、その内の一、攻山寺は奇兵隊の高杉晋作決起の寺としても知られるが、写真はその参道。

12112
Photo/長府の街並み古江小路の風景

12113
Photo/毛利綱元建立の覚苑寺にある狩野芳崖の像


人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-

晴れておもひでの関門をまた渡る

2010-12-09 05:36:57 | 文化・芸術
Santouka081130057

―表象の森― 森そのものが神だった

岡谷公二「原始の神社をもとめて」は、副題の「日本・琉球・済州島」が示すように、海洋でつながる朝鮮半島や沖縄諸島、あるいは北九州及び近郊の島々などに伝わる古層の神々のかたちに、さまざまに共通なものを見出していく旅といったもので、刺激的な知見が随所にみられる地道な労作。

以下、本書の目次各章に掲げられた小見出しを網羅すれば、その射程のひろがりと具体的な個々の内容がかなりの部分想像できようか。

1.済州島の堂との出会いー堂という聖地/済州島へ/蜜柑畑の中の堂/島の北西岸の堂/海女の村々/忘れ難い堂
2.韓国多島海の堂―閑麗水道の島々/智島の堂の森/祭天の城あとと乙女の亡魂を祭る堂/羅老島の馬神/済州島とほかの島々の堂との相違
3.済州島の堂とその祭―堂の種類とその立地/堂に祀られる神々/司祭者神房/ピニョムとクッ/迎燈祭
4.沖縄の御嶽―御嶽の発見/御嶽に残る古神道の俤/社殿のない神社/神社と女人司祭/御嶽の神社化/斎場御嶽/琉球王国の神女組織/御嶽のありよう/御嶽の起源
5.済州島と琉球―済州島と日本/済州島・琉球・倭寇/済州島と沖縄の相似/済州人の沖縄漂着/琉球人の済州島漂着
6.神社と朝鮮半島―渡来人が祀った神社/奈良―三輪神社その他/京都―賀茂神社、平野神社、松尾大社、伏見稲荷、八坂神社/伊勢神宮と朝鮮半島/堂信仰のあらまし/堂と神社
7.神社をめぐるいくつかの問題1-縄文・弥生と神社―神社の起源は縄文時代か/神域内に縄文遺跡のある神社/諏訪信仰の問題/弥生時代と神社/縄文土偶をめぐって
8.神社をめぐるいくつかの問題2-神社は墓かー死穢観念の成立/古墳の上に建つ神社/裏手に古墳のある神社/山頂や山の中腹の古墳を祀る神社/名高い神社と古墳/御嶽葬所起源説/堂と墓
9.聖なる森の系譜―貝の道高麗瓦その他/対馬の天道山/ヤボサ神/薩摩・大隈のモイドン/種子島のガロー山/トカラ列島の女人司祭/奄美の神山/藪薩の御嶽
付.神社・御嶽・堂-谷川健一氏との対話―済州島というトポス/堂の祭/御嶽の発生/聖地とは何か/御嶽の聖性/対馬の問題/五島列島と済州島/問いとしての御嶽

―四方のたより― DANCE CAFÉ 2010 EVE

Dancecafe20101224web02

―山頭火の一句―
行乞記再び -123
5月3日、晴、行程7里、下関市、岩国屋

よい日だつた、よい道づれもあつた、11時頃小倉に入つた、招魂祭で人出が多い、とても行乞なんか出来さうにないし、また行乞するやうな気分にもなれないので、さらに門司まで歩く、ここから汽船で白船居へ向ひたいと思つてゐたのに、徳山へは寄港しないし、時間の都合もよくないので、下関へ渡つていつもの宿へおちつく、3時前とはあまりに早泊りだつた。
同宿十余人、同室弐人、おへんろさんと虚無僧さん、どちらも好人物だつた。-略-

関門を渡るたびに、私は憂鬱になる、ほんたうの故郷、即ち私の出生地は防府だから、山口県に一歩踏み込めば現在のわたしとして、私の性惰として憂鬱にならざるをえないのである、といふ訳でもないが、同時にさういふ訳でもないこともないが、とにかく今日は飲んだ、飲んだだけではいけないので、街へ出かけた、亀山祭でドンチヤン騒ぎ、仮装行列がひつきりなしにくる。‥
-略-

※表題句の外、4句を記す。

12092
Photo/下関市中之町の、関の氏神こと亀山八幡宮

12091
Photo/境内から鳥居越しに望む関門海峡


人気ブログランキングへ -読まれたあとは、1click-