山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

待つてゐるさくらんぼ熟れてゐる

2011-06-10 16:35:30 | 文化・芸術
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―表象の森― 「江戸の紀行文」を読む

著者板坂耀子は’46年生れ、昨年3月、福岡教育大教授を定年退官した、と。
曰く、芭蕉の「おくのほそ道」は名作だが、江戸時代の紀行としては異色の作であり、作為に満ちて無理をしている不自然な作である。この異色の名作「おくのほそ道」でもって、江戸期に花開いた二千五百二余る数多の紀行が、正当な評価も得ることなく、文学史から顧みられることなく終始してきたことに対し、まず一石を投じ、俳諧の世界ではともかく、紀行作家たちの中では、芭蕉の影響は皆無に近く、彼やその作品と関係ない場所で、近世紀行を生み育てる営みは行われていた、と。
その背景には、「参勤交代というシステムが、各大名を軸として中央の文化と地方の文化を上手に混ぜ合わせ-略-、各藩毎の地方文化を、少なくともその上澄みの部分に於いては極めてハイ・レベルで均質なものとする事に成功した。」という中野三敏-西国大名の文事-の説を引き、旅が娯楽化し、都から鄙へという図式が崩れていったことがある、と。

芭蕉より少し時代を下った江戸中期の上田秋成が、紀行「去年の枝折-コゾノシヲリ-」の中で、旅先で会った僧の意見として、芭蕉に対し悪態をついているとして引用している。
「実や、かの翁といふ者、湖上の茅檐、深川の蕉窓、所さだめず住みなして、西行宗祇の昔をとなへ、檜の木笠竹の杖に世をうかれあるきし人也とや、いともこゝろ得ね。-略- 八洲の外行浪も風吹きたゝず、四つの民草おのれおのれが業をおさめて、何くか定めて住みつくべきを、僧俗いづれともなき人の、かく事触れて狂ひあるくなん、誠に尭年鼓腹のあまりといへ共、ゆめゆめ学ぶまじき人の有様也とぞおもふ。」

以下、二章から十章までほぼ時代を追って、異色の芭蕉ならず、主流となった江戸紀行の作者たちを紹介していく。
名所記としての、林羅山「丙辰紀行」-1616頃-
寺社縁起としての、石出吉深「所歴日記」-1664頃-
実用性と正確さに徹した、博物学者貝原益軒の紀行「木曽路紀」-1685-「南遊紀事」-1689-
益軒の曰く、「詩のをしへは温厚和平にして、心を内にふくみてあらはさず。是、風雅の道、詩の本意なるべし。-略-ことばたくみにしかざり、ことやうなる文句をつくりて、人にほめられんとするは、詩の本意にあらず。故に詩を作る人、学のひまをつひやし、心をくるしむるは、物をもてあそんで、志をうしなふ也。かくの如くにして詩を作るは、益なく害ありて無用のいたづら也。風雅の道をうしなへり。歌を作るも又同じ。」-文訓-

古学者本居宣長の「菅笠日記」-1795-
宣長は、見るもの聞くもののみならず、自らの心の内にわきおこる、さまざまな相反する感情まで何一つ切り捨てず、最大限にとりいれてこの紀行を書こうとした。彼の文体は、明晰で平明で、かつ雅文の格調や品位を失うことがない。益軒が生み出した力強さや多彩さをとりいれつつ、ひとりの個人の内面を描く古来からの日記文学とも合体し、新しい時代の紀行文学として成立させている、と。

奇談集としての、橘南谿「東西遊記」-1795頃-
古川古松軒の蝦夷紀行「東遊雑記」-1788頃-
女流紀行としての、土屋斐子「和泉日記」-1809頃-
江戸紀行の集約点としての、小津久足「青葉日記」

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<日暦詩句>-30-
なんといふ駅を出発して来たのか
もう誰もおぼえていない
ただ いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
駅に着くごとに かならず
赤いランプが窓をのぞき
よごれた義足やぼろ靴といっしょに
真っ黒なかたまりが
投げこまれる
 -石原吉郎詩集「サンチョ・パンサの帰郷」所収「葬式列車」より-昭和38年-

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-167

6月25日、同前。晴后曇、梅雨の或る日は、といつたやうな気分。
朝焼けはうつくしかつた-それは雨を予告するのだが-、自然のうつくしさが身心にしみいるやうだつた。
朝、青草-壺に投挿すために-5.6本を摘んだ、露も蜘蛛もいつしよに。
燕の子が、いつのまにやら巣立つてゐる、それらしいのがをりをり軒端近く来ては囀づる。
水田もまた、いつのまにやら、いちめんの青田となつてゐる、そして蛙が腹いつぱいの声でうたうてゐる。
生きのよい鯖が一尾8銭だつた、片身は刺身、塩焼きにして食べた、おいしかつた、焼酎一合11銭、水を倍加して飲んだがうまくなかつた。
たしかにアルコールに対する執着がうすらぎつつある、酒を飲まないのではなくて飲めなくなるらしい、うれしくもあり、かなしくもあり、とはこのことだ。
捨てられて仔猫が鳴きつづけてゐる、汝の運命のつたなきを鳴け、といふ外ない。
新聞配達の爺さんが、明日からは魚を持つてまゐりますから買うて下さいといふ、新聞と生魚! 調和しないやうで調和してゐると思ふ。

※記載は表題句のみ。

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Photo/妙青禅寺境内にある山頭火句碑


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蝿がうるさい独を守る

2011-06-01 16:54:26 | 文化・芸術
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―四方のたより― 承前、ふたり旅Repo-2
4月30日、曇、宿で朝食を摂って津和野を発ったのは午前9時頃、またも国道9号線へ出て一路山口市へと向う。街の中心部を通り過ぎるとやがて小郡。その小高いあたりに山頭火の其中庵がある。以前に訪れたのはかれこれ15.6年前になるのだろうか、復元されたのが平成4年というから成ってまだまもない頃だった訳だ。
其中庵を後に、今度は国道2号線を走って下関市へ入り、川棚温泉へと向うため国道491号線へ。

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  Photo/其中庵前庭の句碑「母よ、うどんそなへてわたしもいたゞきまする」

川棚に着いたのはもう昼近く。此の地に庵居を求めた山頭火が、昭和7年6月から百余日滞在したという宿の木下屋は、妙青禅寺山門下に山頭園と名を変えて今も残っている。寺の本堂裏には小ぶりながら瀟洒な佇まいの雪舟築庭。門前の坂道を少し下った所にはモダンな建築の川棚温泉交流センター。
卵白などのアレルギーがあるKAORUKOに瓦そばは無理だろうと、昼食には近くのイタリアンカフェでパスタを賞味。
腹も満たされ、次に訪れたのがこんもりと茂った森深くにある三恵-さんね-寺。愛敬たっぷりにさまざまな表情をたたえた石仏たちに混じってパチリ。
それからまた少し車を走らせて川棚のクスの森へ。この大楠殿にはKAORUKOもさすがにビックリの態。

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  Photo/三恵寺境内の石仏たちと

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  Photo/大楠を背景にKAORUKO

これで川棚ともおさらば、山陰本線と並行するように国道191号線を北上するが、数キロも走らないうちに海岸近くの小高いところにあって、遙か洋上に北九州の山脈や壱岐を見はるかす福徳稲荷神社へと立ち寄る。

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  Photo/海辺の山腹に建つ福徳稲荷神社

次に目指すは2000年の完成以来、山口県下で人気の観光スポットになったという角島大橋。響灘の海岸沿いをしばらく北上すると、やがて191号と分かれて県道275号となるが、それも5分ばかり走って左へ折れると、全長1780m、中ほどにアップダウンのあるラインが碧い洋上に浮かんでいるのだが、折悪しく天気は雨混じりの荒れ模様。
車から降りてゆっくり眺めるほど時間もないから、ただ角島へと渡って折り返すのみ。

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  Photo/雨にけむる角島大橋

あとは長門の仙崎を目指してひた走る。仙崎の港に着いたのはかれこれ午後4時半頃だったろう。
今夜の宿のある青海島へ渡る前に、金子みすゞの記念館に立ち寄る。いまどきの子どもにとってみすゞの詩はお馴染だ、KAORUKOも小3の教科書に出てきた「不思議」ですでにご対面している。

 「私は不思議でたまらない、
  黒い雲からふる雨が、
  銀にひかっていることが。」
 「私は不思議でたまらない、
  青い桑の葉たべている、
  蚕が白くなることが。」
 「私は不思議でたまらない、
  誰もいじらぬ夕顔が、
  ひとりでぱらりと開くのが。」
 「私は不思議でたまらない、
  誰にきいても笑ってて、
  あたりまえだ、といふことが。」

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  Photo/みすゞ記念館の金子文英堂

館内を一巡して、金子文英堂の玄関を出ると、真向かいに「みすゞこうぼう」の看板があったので、そろりと入ってみると、60年配のおじさんが独り、ぼそっと座っていた。
もりいさむというその御仁、みすゞの詩ばかり90編も曲にのせて唄っているというフォークシンガーだそうで、話をしているうちに興が乗ったか、店の奥に設えた小さなstageで一曲ご披露していただいたので、お礼に彼のCDを買い求めてサヨナラした。

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  Photo/みすゞの詩を唄うへんな小父さんもりいさむ氏と

橋を渡って青海島の宿へ着いたのが午後6時過ぎ。此処では夕食の予約をしていないので、ひとしきり寛いでからまたぞろ仙崎の町へと車で出かける。アレルギー体質の所為でとかく偏食のKAORUKOには寿司なんぞがよかろうと、港に面した店で舌鼓。
翌朝、小さな旅のちょっとしたアクセントにと、船で青海島めぐりをするべくまたも仙崎の港へ。海からぐるりと青海島を一周するコースで、所要時間が90分、大人2200円と小学生1100円、計3300円也。乗船待ちのあいだに開けたばかりの土産物屋の軒先で名代の蒲鉾を買い求めた。
雨まじりの風が吹きつける荒れ模様の天候のなか、定員30人ばかりの小さな船が島を廻って外海へとピッチをあげる。そそり立つような断崖、数々の奇岩や洞窟など、次から次と経巡って船は走る。その景観と船の運びのリズムがずいぶんと変化に富んでいた所為か、心配された船酔いもなくKAORUKOは元気にタラップを降りた。

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  Photo/青海島奇岩の一、仏岩

このぶんならこのまま帰路に向かわず、昨日立ち寄れなかった油谷の棚田へと遠回りしても大丈夫とみて、国道191号を引き返す。
油谷の東後畑あたりは、もう11時を過ぎているというのに深い霧の中、棚田の絶好ポイントも視界はまったく霞んでいるばかりで、わざわざ来たのにこれでは拍子抜け。このまま立ち去る訳にも行かず、狭い農道を海岸線の方へとさらに降りていけば、霧も切れてきて、やっと棚田の景色とご対面が叶い、不承々々ながらもとりあえずは納得。

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  Photo/油谷東後畑の棚田

あとは一目散に帰路をとる。191号線から美祢線の316号線へ、美祢INから中国道、山口JCから山陽道と、途中三度のトイレ休憩を挟んで、530km余りをひたすら走らせるも、案の定、三木JCの手前あたりから渋滞の憂きの目に。挙げ句、宝塚トンネルまでの渋滞を抜けるのに1時間半を要したものの、午後7時前には無事三日ぶりのご帰還となった。

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-166

6月24日、同前。やうやく晴となつた。
妹から心づくしの浴衣と汗の結晶とを贈つてくれた、すなほに頂戴する。
血は水よりも濃いといふ、まつたくだ、同時に血は水よりもきたない。
小串へ出かけて、予約本二冊を受取る、俳句講座と大蔵経講座、これだけを毎月買ふことは、私には無理でもあり、贅沢でもあらう、しかし、それは読むと同時に貯へるためである、此二冊を取り揃へて置いたならば、私がぽつかり死んでも、その代金で、死骸を片づけることが出来よう、血縁のものや地下の人々やに迷惑をかけないで、また、知人をヨリ少く煩はして、万事がすむだらう-こんな事を考へて、しかもそれを実行するやうになつただけ、私は死に近づいたのだ-。
近来、水-うまい水を飲まない、そのためでもあらうか、何となく身心のぐあいがよろしくない、よい水、うまい水、水はまことに生命の水である、ああ水が飲みたい。
蝿取紙のふちをうろうろしてゐる蝿を見てると、蝿の運命、生きもののいのち、といつたやうなものを考へずにはゐられない。
終日終夜、湯を掘つてゐる、その音が不眠の枕にひびいて、頭がいたんできた。
今日は書きたくない手紙を三通書いた、書いたといふよりも書かされたといふべきだらう、寺領借入のために、いひかへれば、保証人に対して私の身柄について懸念ないことを理解せしめるために、-妹に、彼に、彼女に、-私の死病と死体との処理について。-
鬱々として泥沼にもぐつたやうな気分だ、何をしても心が慰まない、むろん、かういう場合にはアルコールだつて無力だ、殊に近頃は酒の香よりも茶の味はひの方へ私の身心が向ひつつあることを感じてゐる-それは肉体的な、同時に、精神的なものに因してゐると思ふ-。

※この日句作なし、表題句は6月21日所収

「書きたくない三通の手紙」-その相手、妹は防府近在大道の富農家に嫁いだという3歳下のシズのこと、彼は息子の健だが、この頃は秋田県の鉱山専門学校に在籍していた筈、そして彼女はむろん別れた妻咲野、熊本市内で二人ではじめた文具屋「雅楽苦多」を独りで営んでいる。

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  Photo/妙青禅寺の鐘撞堂

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