昨日車で20分くらいの所にある文化会館で、お琴の先生の三回忌追善の会と名づけられた演奏会がありました。
私が直接習った先生ではありませんでしたが、以前から良く知っている先生でしたので、今私が習っている教室にもこの演奏会の案内が届いていましたから、教室のメンバー3人で聴きに行きました。
積もりはしないが、粉雪の舞う寒い中、大勢の人が会場に来られ、亡くなられた先生の偉大さを感じました。
出演者は殆どが大先生方で、素晴らしい演奏でした。それに司会をされたのが、亡き先生の娘さんで、原稿もなしに上手に曲の説明や、それぞれの曲にまつわる亡き先生のエピソードなどを説明されました。あくまでも自分の母としてではなく、先生として、そして自分は先生の弟子として話されました。
最後の演奏曲の時は、出演者総出の多人数での演奏でしたので、舞台にお琴や立奏台、譜面台などのセッティングに少々時間がかかりました。その時は、司会を勤められていた方は、亡き先生を母として、そして自分を娘としての話をされました。
その時は、その娘さんも聞いている観客も、みんな涙涙でした。この時、私も今年の5月に母の三回忌を迎えることが頭に浮かび、一層心に浸みました。
そして母のお通夜の時や、お葬式の日の事が蘇って来て、何もかも妹が仕切って、すべてケチケチコースでやり遂げ、一番いやなお通夜の時の挨拶とお葬式の時の挨拶だけは、私に「簡単でいいし、喪主としてやって」と押し付けられた事などを思い出して悲しくなりました。
妹は何でも私に対抗意識を持っていましたので、多分私が挨拶はようしないだろうと思っていたようです。
私が挨拶をしている時、この演奏会の司会を勤められた娘さんのように私自身も泣きながら母のことを語り、母や母のために来て下さっている方々に感謝の言葉を述べている時、会場のあちこちからすすり泣く気配を私は感じ取っておりました。
その日の事が演奏会の司会者と観客に全く同じになり、涙があふれました。
司会をされた亡き先生の娘さんは、未だ30代で、2人の小さい子供さんを育てながら、お勤めもしておられ、そしてお琴も続けられていて、演奏会にも1曲はお琴を弾かれ、又別の1曲はピアノを弾かれました。
最近和の楽器・お琴もフルート、ヴァイオリン、ピアノなど洋楽器と合奏する曲が多くなって来て、演奏も迫力のあるものになって来ました。
演奏会は心打たれるとてもいい会でした。会場を後にして、帰る道中でも未だ余韻が残っていました。
私が直接習った先生ではありませんでしたが、以前から良く知っている先生でしたので、今私が習っている教室にもこの演奏会の案内が届いていましたから、教室のメンバー3人で聴きに行きました。
積もりはしないが、粉雪の舞う寒い中、大勢の人が会場に来られ、亡くなられた先生の偉大さを感じました。
出演者は殆どが大先生方で、素晴らしい演奏でした。それに司会をされたのが、亡き先生の娘さんで、原稿もなしに上手に曲の説明や、それぞれの曲にまつわる亡き先生のエピソードなどを説明されました。あくまでも自分の母としてではなく、先生として、そして自分は先生の弟子として話されました。
最後の演奏曲の時は、出演者総出の多人数での演奏でしたので、舞台にお琴や立奏台、譜面台などのセッティングに少々時間がかかりました。その時は、司会を勤められていた方は、亡き先生を母として、そして自分を娘としての話をされました。
その時は、その娘さんも聞いている観客も、みんな涙涙でした。この時、私も今年の5月に母の三回忌を迎えることが頭に浮かび、一層心に浸みました。
そして母のお通夜の時や、お葬式の日の事が蘇って来て、何もかも妹が仕切って、すべてケチケチコースでやり遂げ、一番いやなお通夜の時の挨拶とお葬式の時の挨拶だけは、私に「簡単でいいし、喪主としてやって」と押し付けられた事などを思い出して悲しくなりました。
妹は何でも私に対抗意識を持っていましたので、多分私が挨拶はようしないだろうと思っていたようです。
私が挨拶をしている時、この演奏会の司会を勤められた娘さんのように私自身も泣きながら母のことを語り、母や母のために来て下さっている方々に感謝の言葉を述べている時、会場のあちこちからすすり泣く気配を私は感じ取っておりました。
その日の事が演奏会の司会者と観客に全く同じになり、涙があふれました。
司会をされた亡き先生の娘さんは、未だ30代で、2人の小さい子供さんを育てながら、お勤めもしておられ、そしてお琴も続けられていて、演奏会にも1曲はお琴を弾かれ、又別の1曲はピアノを弾かれました。
最近和の楽器・お琴もフルート、ヴァイオリン、ピアノなど洋楽器と合奏する曲が多くなって来て、演奏も迫力のあるものになって来ました。
演奏会は心打たれるとてもいい会でした。会場を後にして、帰る道中でも未だ余韻が残っていました。