今度は「役者差別」の話が出てきました。
役者(歌舞伎役者)は江戸中期ごろまでは、関東の穢多・非人頭である浅草弾左衛門の支配下にあったといいますから、要するに”被差別民”であったと考えていいのでしょうね。
一方で能役者などは役人の地位を与えられており、文化人として優遇されていた部分があったように思われます。えらい違いです。
ただ、役者は差別の対象になる一方で、一般庶民の憧れの対象でもあり、人気役者などは大金を稼いで「千両役者」となることもできた。
穢多・非人は死穢れに携わることから、差別の対象とされたわけですが、であるがゆえに、動物の死体解体業や皮革産業を独占する特権を与えられてもいました。関東の穢多・非人を統括する浅草弾左衛門や車善七はこの特権により巨万の富を築き、浅草に広大な屋敷を構えていました。
また稼いだ金を元手に金貸しをすることでさらに富を得る。差別される側が、差別する側よりも金持ちだったと言う事実。もちろんこれは、被差別民の中の支配者層に限った話だとは思いますが、こういった側面があったことは事実のようです。
これはあくまで一般論として申し上げるのですが、人間とは100%社会的な動物であり、自分が属するコミュニティの中で、自分がどの位置にいるのかということを、意識的にも無意識的にも気にしている。そうした側面があるように思う。
あいつは俺より上だけど、こいつは俺より下だ。みたいな。
差別意識というのは、そうした「社会的生物」の持つ特質と不可分のものだと、私は思っています。
だから、被差別民を制度化することで、一般庶民のはけ口とし、一方被差別民には特権を与え大金を稼がせることで、差別されることへの不満を抑える。
かなり薄い、粗い論であることは承知していますが、私はこうしたところに、江戸幕府の政策の巧妙さ、人間の特質を上手く利用した支配の構図というものを
感ぜずにはいられません。
鳥山検校は良い人に描かれていますね。
嫁に迎えたおせい・元瀬川と蔦重との関係性に気づいていながら、おせいが喜ぶならと、最終的に蔦重側の申し入れを受け入れる寛容さ。嫉妬心もあったろうに。
でもこの方、金融業の方面では過酷な取り立てで、かなりの恨みを買っていて、それが後々……。
人は様々な「顔」を持っているものですね。
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