問わず語りの...

流れに任せて

有安杏果、サクライブ Acoustic tour 2022開催決定!

2022-01-21 05:02:43 | 有安杏果

前回のサクライブ・ツアーは、有安さんが一人で全国を回りましたが、今回はピアノの宮崎雄介氏との二人旅。有安さんはヴォーカル兼ギターということですな。

 

世間では相も変わらずのコロナ騒動が続いておりますが、どうか滞りなく全日程、無事開催できますよう。

 

全日程はコチラ。

 

3.19 大阪  なんばHatch

3.20 愛知 名古屋ダイヤモンドホール

3.25 福岡 スカラエスパシオ

4.02 東京 大手町三井ホール

4.03 東京 大手町三井ホール

4.08 宮城 仙台PIT

全席着席、女性エリアあり。

 

良いライブが開催できますように。

 

 

 

 

 

サクライブ・ツアー2021より、『サクラトーン』ピアノ弾き語り。

 

ゆっくり、しっかり、確実に、丁寧に。

自分の道を歩んでください。

 

行け!行け!杏果。進めや進め!

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『鎌倉殿の13人』の背景終章 平氏滅亡と三種の神器

2022-01-20 13:49:19 | 芸能、音楽

頼朝が立ってからの経緯とか、勝ったり負けたりを繰り返したりだとか、そこには色々な展開があるのですが、あくまでも簡単に解説ということなので、そこは華麗にすっ飛ばします。では。

 

治承5年(1181)、栄耀栄華の限りを尽くした平清盛がついに病歿。カリスマを失った平氏は一挙に没落への道を進みます。

寿永2年(1183)、木曽で挙兵した源義仲の軍勢は、以仁王の忘れ形見北陸宮を擁することで、官軍との意識を強め進撃。越中、加賀と平氏の軍勢を破り京都に迫ります。清盛の後を継いだ平宗盛は、幼い安徳天皇を連れ、三種の神器とともに西へ落ち延びます。

入京した義仲軍は寄せ集めの軍隊で、義仲による統制がとれてはいなかった。彼らは京都市内で乱暴狼藉を繰り返し、飢饉の発生で食料事情がひっ迫しているにも関わらず、食料の強奪を繰り返す。義仲は北陸宮を皇位につけるべきだと、皇位継承に口出しをする。後白河上皇は平氏より始末が悪いと、鎌倉に拠点を置いていた源頼朝に、上京するよう要請します。

義仲と頼朝には対立があった。頼朝は後白河院の要請に、自らは鎌倉を動かず、源範頼と源義経を代官として派遣。義仲軍はこれと戦い敗れ、義仲は琵琶湖畔・粟津にて討ち死にします。

 

西へ逃れていた平氏でしたが、寿永3年(1184)、一の谷の合戦に敗れ後退。義経による「鵯越の坂落とし」があった戦いですね。そして翌文治元年(1185)、屋島、壇之浦と相次いで敗れ、平氏は幼い安徳天皇を道連れに、三種の神器とともに、海の藻屑と消え去りました。

この一連の戦いにおける義経の活躍は目覚ましいものがありました。その常識を無視した戦術は平氏を翻弄し、味方の源氏をも戸惑わせた。戦闘に関しては「天才」だったといっていい。しかし義経と頼朝はこの後仲違いするようになっていき、これが義経の悲劇、平泉滅亡へとつながっていくのですが、これは後々の話。

 

さて、三種の神器は海の藻屑と消えたのか?皇位継承権を証明するたいせつな神器が?

私がこの一連の記事で書きたかったのは、実はこれなんです。ここまでの展開はある意味、長い長い前振りだと言っていい。

 

ご存じの方もおられるでしょうが、三種の神器の一つである八咫鏡は、本物は伊勢神宮に祀られており、御所にあったのはその形代です。天叢雲剣は熱田神宮にあり、平氏が持ち出したのはやはり形代。八尺瓊勾玉のみ本物であったようです。

このうち鏡は残されており、剣と勾玉が海に消えた。剣は形代ですから特に問題はない。後に伊勢神宮より新たな刀を一振りいただき、これを新たな形代としたそうです。

問題は勾玉です。これは本物でしたから、無くなってしまっては大変なことになる。だから大捜索が行われたらしいですが、なかなか見つからなかった。

 

ところが、

 

この勾玉、箱に入った状態で、海岸にうちあげられていたのが発見されたそうです。

ちゃんと帰ってきたんですよ、凄いと思いません?

 

皇位継承権を証明する大切な神器は、こうしてどれ一つとして欠けることはなかったんです。

なんだか、「奇跡」を感じるのは、私だけでしょうか。

 

以上、『鎌倉殿の13人』にかこつけた、三種の神器の奇跡のお話でした。

 

 

おしまい

 

 

 

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『鎌倉殿の13人』の背景③ 以仁王の令旨

2022-01-19 10:24:34 | 歴史、民俗

平氏の専横が目に余るようになってきたころ、伊豆に流されていた源氏の嫡流、源頼朝はなにをしていたのか、ということは、実はよくわかっていません。

物語としてはそれなりのことが伝えられているのですが、どこまで本当なのかよくわからない。伊東佑親の娘、八重姫との間に子供を設けたという話や、それが佑親の怒りを買い、その子千鶴丸が殺されたという話。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でもやってましたが、あれもどこまで本当なのかはわからない。

このころの頼朝の心の中に、挙兵の志があったのかどうか。しかし例えその志があったとしても、容易に立つことは難しい。兵を上げるにはそれなりの「大義名分」が必要です。

大義名分がなければ、全国に散りぢりとなって雌伏している源氏の残党や、平氏の専横に不満を持つ武士たちに召集をかけることは難しい。これらの者たちを集められなければ、ただの小規模な反乱で終わってしまい、到底平氏を討つことなど叶わない。

大義名分が得られる時、頼朝はその時を待っていた、のかどうか......。

 

後白河上皇を幽閉し、我が世の春を謳歌していた平清盛は治承4年(1180)、後白河院の皇子で時の天皇であった第80代高倉天皇を強引に退位させます。高倉天皇には清盛の娘、徳子が嫁いでおり、清盛は高倉帝と徳子の間に出来た皇子、言仁親王を即位させます。

第81代安徳天皇です。

自らの孫を天皇にした清盛。平氏の専横ぶりは頂点に達していました。

 

そうして遂に、時代が動く時がきました。

後白河院の第3皇子、以仁王(もちひとおう)が、平氏追討の令旨を発したのです。

 

令旨を発した以仁王は源頼政らと挙兵の準備をしますが、この計画が平氏に漏れてしまい、以仁王は平氏による先制攻撃を受けてしまう。以仁王らは討ち死にを遂げてしまいますが、以仁王の発した令旨は全国に雌伏する源氏や、平氏に不満を持つ武士たちを奮起させます。

 

皇族が発した令旨です。これ以上の大義名分はありません。以仁王は戦死してしまいましたが、その命をもって、時代を動かしたと言っていい。

 

やはり、歴史を動かすのは天皇、皇族だ。

 

伊豆の源頼朝はこの令旨をもって兵を上げることを決意。頼朝の元には続々と兵が集まり始め、その中には頼朝の異母弟で、奥州王・藤原秀衡の統治する、当時日本第二の大都市であった平泉に身を寄せていた、九郎義経もいました。

また木曽の山中に潜伏していた、頼朝・義経兄弟の従兄弟にあたる源義仲(木曽義仲)も独自に挙兵、ここに源平合戦の火蓋が切って落とされたのでした。

 

 

つづく

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『鎌倉殿の13人』の背景② 崇徳院の怨霊

2022-01-18 17:34:18 | 歴史、民俗

平治の乱により源氏は没落、これにより平清盛と平氏一門による武家政権の基礎が築かれていくことになるわけですね。永暦元年(1160)、平治の乱の翌年には参議に任命され、武士としてははじめて公卿に列せられます。

清盛はこれを好機と平氏一門を次々と要職に登用し、いつの間にか政治の実権は平氏一門に乗っ取られるという結果を生みます。軒を貸したら母屋まで盗られた。気づいた時にはもう遅い、というパターンですかね。

仁安3年(1167)、清盛は太上大臣に任命されますが、これはいわば名誉職のようなもので実権はほとんどない。そんな役職はいらないと、清盛はわずか三か月でこの職を辞してしまう。そんな役職などなくても、実権は握っているので関係ないというわけですな。

清盛は大和田泊(現在の兵庫県神戸港)を整備し、宋との貿易に力を入れていきます。さらには厳島神社の改築などの事業を行い、政治的影響力はいや増しに増していくばかり。

後白河上皇との関係は一見良好でしたが、上皇としては面白いわけがない。その内側で対立の火種は、ブスブスと燻っていたのでしょうね。

 

さて、その頃讃岐に配流された崇徳上皇は、大掛かりな写経に着手していました。三年掛かりで五部の大乗経を写経を完成させ、これを父・鳥羽上皇の墓所に納めるよう、仁和寺に預けます。しかし後白河上皇はこれを許可せず、写本は崇徳上皇の元に返却されてしまいます。

後白河上皇より送られてきた箱を見て、崇徳上皇ははじめ、とても喜んだそうです。弟から品物が届けられた、中身はなんだろう?と楽しみに箱を開けてみたら、

写本の返却だった。

これを見た崇徳上皇は叫びながら走り出したそうです。怒りと悔しさと恨み、その激しい感情を止めることができずに走り出した。そうして

「日本国の大魔縁となり、天皇を民とし、民を天皇としてみせる」と言うと、自らの舌を食いちぎり、滴る血で大乗経に「天下滅亡」という呪いの言葉を書き記したと伝えられています。

多少の誇張はあるのだと思われますが、少なくとも後世の為政者たちは、崇徳上皇のこの呪いを信じ、恐れていたことは確かです。

崇徳上皇は髪に櫛も入れず、爪を切ることもなく、その姿はまるで天狗のようだったと伝えられ、長寛2年(1164)、怒りと失意の中憤死します。

崇徳上皇崩御の後、まもなく延暦寺の僧兵による強訴が起こり、飢饉や洪水などの天変地異が頻発し、社会不安が増大します。後白河院や二条院の縁者が次々と変死、怪死するという変事も起こり、これは崇徳上皇の祟りに違いないと、人々は恐れおののきました。

崇徳上皇崩御より13年後の治承元年(1177)、朝廷は崇徳上皇の怨霊を鎮めるため、それまで「讃岐院」と呼ばれていた上皇に「崇徳」の院号を送ります。

なにせ崩御されたときには、後白河院は知らぬふりで、葬儀も行わず、讃岐の国司による葬儀が行われたのみだったとか。仮にも一国の天皇であった方に対するこの惨い仕打ち、そりゃ崇徳院ならずとも、化けて出たくなるってもんです。

だから今更院号を贈ったところで、それで崇徳院の怒り、恨みが収まるものでもありますまい。

 

案の定社会の混乱は留まらず、後白河院と平氏の対立が深まっていく。同治承元年には、平氏追い落としを画策する「鹿ケ谷の陰謀」事件が起こり、治承3年に後白河院は平清盛によって幽閉され、院政が停止されます。これにより平清盛による平氏政権が成立するのでした。

 

崇徳上皇の怨霊は長い年月に亘って恐れられ続けました。上皇が葬られた白峯陵(香川県坂出市)の近くに法華堂が建立され、白峯寺による供養会が営まれました。

崇徳上皇没後ちょうど700年後の幕末、元治元年(1864)には禁門の変が勃発。これもまた崇徳上皇の祟りだと恐れた、時の孝明天皇は、崇徳上皇の御霊を京都に御還ししようと、京都市内に白峯宮(現・白峯神宮)の建立に着手なされますが、完成を見ることなく崩御され、この事業は明治天皇によって受け継がれ、明治の御代になってから、崇徳上皇の御霊は讃岐の地より鳳輦の輿に乗せられ、恭しい行列を組み、京都の地に御還送されたのでした。

こうして崇徳上皇の御霊は、およそ700年ぶりに京の都へお帰り遊ばしたのです。

 

 

つづく

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グワァラキーン!

2022-01-18 11:59:00 | 日記

アニメ『ドカベン』OPテーマ

 

野球漫画の泰斗、水島新司先生が亡くなられました。82歳でした。

私は基本、スポーツ漫画は読まないし、野球にもほとんど興味がない。どのチームが優勝したとか、全然わからず、野球の話題にはまったくついていけない。

でもなぜか、水島先生の書く野球漫画は好きだった。なんだろう?水島先生の野球漫画って、押しつけがましさがないというのか、うまく言えないが、他の野球漫画にはない、なんというか、気持ち良さがあったような気がする。

何言ってるかわかんないね(笑)とにかく、とにかく

好きだった。

『ドカベン』の主人公、山田太郎が在籍する明訓高校野球部。甲子園で一度も敗れたことのなかった常勝明訓を、甲子園で初めて破ったチームは、

岩手県代表の弁慶高校でした。

しかも選手の名前、ピッチャーが「義経」でキャッチャーが「武蔵坊」って、モロ平泉!

当時の岩手県代表は、甲子園では一回戦負けの常連でした。抽選で岩手県のチームと当たることが決まった関西の某高校が露骨に喜んで注意されたりとか、舐められまくりでしたよ。そんな時に水島先生は、岩手県代表へのエールを込めて、岩手県代表の弁慶高校に、明訓高校を破るという栄誉を与えたのだとか。

優しいよね。

今じゃ大谷選手や、菊池雄星投手はじめ、数多のプロ野球選手、大リーグ選手を輩出するようになった岩手県。この実情を水島先生はどう受け止めていたのだろうか。べつに水島先生のお陰ではないけれど、

なんだかお礼を言いたい気分。

水島先生、ありがとうございました。どうかごゆっくり、お休みください。

水島新司先生に、感謝と敬意と哀悼を込めて

 

合掌。

 

 

 

アニメ『野球狂の詩』より「勇気のテーマ」歌、堀江美都子。

 

1970年代当時に、女性のプロ野球選手という設定は実に斬新でした。本当に野球が好きだったからこその発想、なのでしょうね。

男社会のプロ野球界で一人奮闘する水原勇気選手。水島先生はそんな水原選手を、男勝りでもなく、弱弱しくもない、一本芯の通った一人の「人間」として描き、決して奇をてらったものにはなっていなかった。

女性プロ野球チームの創設も、水島先生の夢、だったのでしょうか。

 

ちなみに今日のタイトルは、明訓高校1番バッター、岩鬼正美選手がホームランを打ったときの快(怪)音です。

岩鬼の無茶苦茶さ、好きでしたねえ。

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