スピリチュアルな体験談

自分で体験した事を書いていきます。不思議な出来事など。
軽口だけれど自然に対しては敬虔な気持ちでいます。

厳密なルールに則った見事な自由

2008年10月09日 | スピリチュアル
人間、どんな ど悪党でも、ウルトラ善人でも
自分の意図しない所で 協力関係を結んでいるという事らしいです。

あ”あ”あ”あ”~ どんどん複雑になっていく~~~

自由に、、超自由に生きているとしたとしても、
超えた存在の基本ルールに外れては 生きていけないですし、
行動できないですし、 もし 行動したとしても ブーメランのように
自分に帰って来て、そしてそこで 行動修正が加えられるという事みたいです。

あまりに自由度が高すぎて、その見えないルールが 本当に見えない所が
人間の傲慢さを助長してしまうくらいの 広さ。

身長160cmの人が 自分の肉体で知覚できる範囲は
数キロくらいでしょうけれど、それを超えると 広すぎて
仕切りがないと思いこんでしまうのと同じようなものです。

その見えないルールとは なんぞや?というと
心の中にある心象風景だという事です。

一番最小単位にすると  快 不快。
赤ちゃんと同じですね。

たとえば 良い事する→自分の心が喜ぶ(快
     嫌な事を嫌だと思ってする→(不快

大雑把に言うとこれが基本ルールの基になるものだそうで、極端な話
六法全書などの各国の法律に もし ”殺人は悪い事です”と書かれていなくても

だれも喜んで殺人をするわけではないでしょうし、そのあたりが
タガが外れちゃって 悪い事が理解できない変質者は いつか自分が
殺されるか、隔離されるというブーメランがやってくるという事です。
そして なが~~~い期間をかけて、 いけないことという感覚を
身をもって 理解させられる という 気の遠くなるような作業があるそう。


自由を謳歌しているようでいて、 実はルールや法則を
身をもって 人生の経験の中で 訓練されているというべきでしょうか。

それに、自分が自分の身をもって 悪い事をしなくても、
ど悪人がそういう事をして、どういう結果になったかという事を知る事により
ああ、いけないんだ~~と 後天的に学んでいくと。
だから 全ての人が 絶対に経験しなくてはいけないわけではなく、
他人のふりみて我が振りなおせ という 簡単な道も用意されています。


だから、ある意味 残虐非道など悪人も、悪い事の代名詞としての
お役目をわざわざ 自ら買い、そしてその結果を後世に残すと。

悪もまた協力者の 一部にすぎないという事らしいです。。


   う===ん。。。。。





ジグソーパズル 曼荼羅

2008年10月09日 | スピリチュアル
私は全く持って 宗教家でも、悪魔崇拝者でもないので
ただ純粋に 科学としての スピリチュアルというものの捉え方、
実践の仕方を 探求している最中とでもいいましょうか。

そして、あまりにも情報が おかしすぎるオカルト的解釈をされている
誤解をうけている スピリチュアル性について
花が時期がきたら咲く事のメカニズムを知る事と同じように 
解読していきたいだけです。

たまたま、あちらの世界を垣間見せていただき、
あちらの世界の人たちと、雑ではありますが双方向で
見せていただく機会を与えていただいているので
そこから見たり、聞いたり、感じたり、経験した事を
こちらの世界の仕組みになぞらえて 解明できる所はしていこうと
そういう事で 今まで 行動してきました。

全ての出来事は、事の大小にかかわらず
人生や、世界の成り立ちの縮図を ジグソーパズルとすると、
一つひとつの 経験 知識 体験 感情などが
1ピース 1ピースとなっていて、

最初は
ジグソーパズルの存在すらもしらずに その遊びを始めるのと同じで
バラバラになった かけらの山が人生に沢山積まれているようなものです。
なんなのか。山なのか、 ゴミなのか いったいなんだろうと。
そして、たまたま 山の中から二つのピースが合うことを発見し、
自然と そのピースをつなげていったら
だんだんと おぼろげに 絵が見えてきて、
最終的に、ああこれは ジグソーパズルのようなものなのだなと理解するようなものである事。
そして、そのピースは途方もない数からなり、
でもつながると 一つの変えようのない 絵画が出来上がるという感じです。

1ピースだけを見つめても なんじゃこりゃ??ですし、
意味がわからないです。ほとんど。

でも、だんだんと 繋がり始め(私は脳内リンクといっていました)
絵がおぼろげに解ってくると ジグソーパズルがすいすいと進むように
スピリチュアル的解釈が容易になりはじめます。

注意が必要なのは、そのピースの中には 
☆違うパズルのピースを後天的に混ぜられてしまったり、
☆自分で勝手に ないと思われた部分のピースを作ってぐいぐいはめ込んでしまって後から繋がらなくなってしまう
☆または、似た様で違う位置のピースをグイグイ押し込んで
つながらなくなってしまっている

という ミスも犯す事があります。
だんだん全体像がつかめるようになってきたら
その合っていなかったパズルのピースもちゃんとした位置に戻す事ができますし
修正もききます。

人生はその自分に与えられた どんな絵が描いてあるのかわからない
パズルを 作り上げていく事に似ています。

全てのピースは、複雑な形で、当初はわかりにくいものですが
根気強く、そして忍耐強く 繋がっていけば ああ、これだったのだ~と。

まずは そのピースを探し出す事から始まります。
そういう意味では 途方もない作業でありますが、
先人たちのお知恵も借りつつ 自分でも探求しつつ 
長い魂の生命の中での 最終的な 曼荼羅となるそうです☆

もちろん、そのパズルをする、しないも自由意志です。

 




とある本

2008年10月09日 | スピリチュアル
とある出来事から 気になっていた人の書いた本を
ネットで注文し、 序文を読んでいる最中なのですが。。。。。

まさに、今だから理解できる 内容でした!!!!!
たぶん、1~2年まえに この本を手にしていたとしても
腑に落ちる感覚はなかったでしょうし、
「う~~~ん。。。こうかな~~??」って感じで
理解というより、知識として存在するのみだったと思います。

それに、悪いほうに、自分の勝手な都合の良い様にとらえてしまう
危険性もはらんでいる本なので、時期が時期なのだな~と心して読みます。

例えて言うと、 目の前に スイッチがあるとし、
それを押すと どう作用するかがわかって扱うのと、
解らないで 押すのと 似たような感じ。

意味がわかっていなくても スイッチを押すという行為自体は難なく子供でも
できてしまうけれど、そこには 責任や熟慮、その行為によって
何が引き起こされ、また、それに対しての対処法をわきまえているかどうかが
とても大きな違いとなるという事です。

今だからこそ、この本の序文に書かれている事が
「そうそう!そうなんだよ~~~!!」って 納得し、さらに
「へ~~そうかあ。やっぱり」となるのです。
そして、腹をくくってかからないといけないなと帯を締めなおすような
気持ちで取り掛かるようになるという事です。

まさに、まさに 「くるべき時に必要なものが来る」という感じでした。

その本には、このブログにも数年書き綴ってきた事がほとんど網羅されており、
さらに実践としての発動の作用機序、エッセンスがつまっていて
さらに、解りやすく(時期でなかったり、経験的に実際に体験していないと
理解はしにくいですが。)
体験したものだけが、説明できるという”本物”が 散らばってます。

たとえば、ゾウを本当に見たり触ったりしたことがある人が
その場にゾウがいなくても ほかの人に事細かに自分の経験からゾウを
語れますし、話に一貫性がありますが、 
見た事も触った事もない人が 作り話でゾウというものを語りつづけていたら
一貫性がなく、常におかしな所が出てくるというような感じです。

または、自分で経験していないが、聴き伝えし、勝手な解釈を加え、
重要なエッセンスを見落とし、間違えた伝言ゲームが広がってしまっているのが
いまのスピリチュアルの混乱の元になっていると。

ただただ人を騙す為、恐怖で行動を制限するため、支配する為の
道具にする為の 偽者が氾濫しすぎていると。

ここいらで 純粋な 元の 状態にもどそうと あっちの人も
躍起になっているようです。

一貫性があるかどうか、無理がないかどうか 不愉快 恐怖を感じるかどうかが
スピの中でも 本物か偽者かを分かつ 重要な部分でもあります。

それに、内容が内容なだけに、彼の本の中で専門用語を用いすぎたり、
誤解を受ける場合も多々あったようで(いつの時代もそうですね。。)
隠語などで書きすぎると読者層が限られ、

スピに現実逃避を求める人間や、変質者、虚弱者たちを惹きつけただけだったと。

wwwwwww

そうそう。。。ははははは!!!!!
ショノトオリ!
プハハ!!!!ww

わたくしもその中の一人でヤンス。ww

彼と、その人々との最大の違いは何だったのか?という事について考察すると

「純粋な聖人意識と類まれなる頭脳に基づく」 事だとはっきり言えます。

彼はサーもおっしゃるとおり、善100悪100の最高レベルの人ですから
変質者のように 善20 悪50 位の レベルが理解できない範疇での
純粋さがあるのです。

こズルイ 子悪党が 見よう見まねで あちらの領域に踏み込めねっツーのって
感じでしょうか。

本気で聖人。本気で悪魔になれるような人間だからこその領域。

例えは悪いのですが、

小さい子が 純粋な興味から 動物の命を奪ってしまった遊びをした。
 ↓
大人があまりの残忍さに 恐れおののいた
 ↓
しかし、その子に問いただしてみても、「どうしてダメなの?」と
まるで 深い所を突っ込まれるような 気持ちにさせられ、
なおかつ、あまりの純粋な 目に、 はっとする 

解りにくいたとえですが、 こういう子っぽい感じとでも言いましょうか。

映画でいうと まさに「オーメン」かな。
ダミアン君とでも言いましょうか。 ここでもあることが繋がりますが。。。


こりゃ 楽しみな本です。