2-4.元良親王 宇多院の御息所褒子(ほうし)との密通
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略改変版
色好みの源流:元良親王 一夜めぐりの源流
褒子が御息所と呼ばれるのは、延喜二十年(920)宇陀法皇の皇子雅明親王を生んだ年以後のことだ。その後もさらに載明親王、行明親王が生まれている。法皇は承平元年(931)七月、六十五歳で亡くなられたが、褒子はまさにその晩年の寵妃であった。
元良親王の歌には「京極御息所」とあるが、それは後年からの編纂ゆえであって、密通事件はやはりあの亭子院に召されたあと雅明親王を生む前の十年の間の出来ごとであろうか。
時平(褒子の父:左大臣藤原時平)没後の大きな文化行事としては、延喜十三年(913)、歴史に残る「亭子院歌合」が盛大に催されており、同年夏には、元良親王の父である陽成院でも盛大な歌合が行われている。歌人としてもその名が知られた元良親王が亭子院で放恣を見染めるということは十分あり得ることであったろう。
ところでこの密通事件はどのように対処されたのか、まことにはっきりしない。その後、褒子は先述のように皇子を三人も生んでいるし、「元良親王御集」の歌をみても世間的処遇に何ら変化があったとも見うけられない。世間はこの恋に寛容だったのだろうか。参考として親王が御息所のもとに贈った他の歌もあげてみよう。
吹く風にあへでこそ散れ梅の花あだに匂へる我が身とな見そ 京極御息所
思ふてふこと世に浅くなりぬなり我がこゝばかり深きことせよ
また花かんし奉り給ふとき
鶯はなかむしづくにぬれねとや我が思ふ人の声ぞよそなる 元良親王
一首目の歌は「吹く風にこらえきれずに散った梅の花よ。徒(あだ)な浮気心で匂い立った私とは思わないでください」というもので、誠実な恋であったことを申し送ったものだ。
二首目の歌も「思ふてふこと世に浅くなりぬなり」という上句に世間への実感がこもるもので、浮ついた恋をしているように思われがちな「色好み」の心の底からの求めが、本当は恋のまことを尽くしあえるものであってほしいことを訴えたげである。
下句がこれもわかりにくいが、「元良親王御集」では「わがうくばかりふかき事せじ」になっている。「うくばかり」は「憂く」と「浮く」の掛詞。上句の「浅く」に対応させている。結句の「せよ」と「せじ」では全く反対の意味になってしまうが、世間の恋への浅薄な見方に対して、憂き恋の苦しさを訴えているようだ。
「花かんし」の歌も結句を「まつのよそなる」としているが、いずれにしても、「鶯は泣く涙に濡れよというのか、愛する人は私につれないのではありませんか」と、贈り物に言寄せて拗ねてみせているのである。「花かんし」は「花柑子」だろうか。この場合は「鶯はなかむしづく」に贈り物の名が詠み込まれてている。
つづく