19 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論 」
第2章
米政府が秘匿した真珠湾の真実 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
2イ 開戦を前にした昭和天皇の懊悩
2ロ 悲痛の極み、宮中御前会議
2ハ 山本五十六の無責任発言
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
2ヘ 開戦強要の最後の一手
2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか
2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
2リ 万策尽きての開戦決定
2ヌ 暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
2ル ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
2ヲ アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
2ヨ ルーズベルト(FDR)は、いかにして四選を果たしたか
2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い
************************
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
10月16日、近衛内閣が総辞職して、翌日、東条英機陸相に組閣の大命が降った。
これは、東条にとっても、全く意外だった。
木戸幸一内大臣が、東条であれば天皇への忠誠心が人一倍強いので、血気にはやる軍を抑えて、対米交渉をまとめることができると、考えたからだった。
東条は天皇から組閣の大命を拝受した時に、木戸から天皇の御意志が9月6、7日の御前会議の決定にとらわれることなく、白紙に戻して、国策を再検討することであると告げられて、天皇の御意志に従うことを決めた。
東条は陸相と内相を兼任したが、日米交渉が妥結した場合に、陸軍の一部が血気にはやって、二・二六事件のような反乱が起こるのではないかと、恐れたためだった。
東条内閣が発足してから、10月23日から30日まで、26日に首相と海相が伊勢神宮を参拝するために離京した日を除いて、はじめての大本営政府連絡会議が、連日催された。
東条英機は11月1日に連絡会議を再開する朝に、杉山参謀総長と7時から会談して、「お上(かみ)の御心を、考えねばならない。日露戦争よりも、はるかに大きな戦争であるから、天皇の心の御痛みは、十分拝察できる。今開戦を決意することは、とうていお聞き届けにならないと思う」と、述べた。
連絡会議は午前九時から、翌二日の早朝の午前一時半にいたるまで、16時間半にもわたって、「臥薪嘗胆案」から開戦案までめぐって、激論がかわされた。出席した全員が、これが和戦を決める最後の会議になることを、知っていた。
東郷重徳外相が臥薪嘗胆策を、強く主張した。賀屋興宣(かやおきのり)蔵相も、勝算が低いのに開戦することに、反対した。
そのあいだにも、日本は貴重な石油を消費しつづけていた。
「臥薪嘗胆」は日本が日清戦争に勝ち、1895(明治28)年の日清講和条約によって、清国から遼東半島、台湾、澎湖(ほうこ)島の割譲を受けたのにもかかわらず、ロシア、ドイツ、フランスによる強引な三国干渉を被ったのに対して、当時の日本の軍事力では列強三国の力にいかにも抗しようがなく、涙を呑んで遼東半島を返還したことに由来する。その後の日本では、「臥薪嘗胆」の四文字が、憤激した日本国民の合い言葉となった。
「臥薪嘗胆」は仇を討つために、薪(まき)の上に臥してわが身を苦しめ、肝をなめて報復を忘れまいとした、中国の古典にある故事からとった成語だった。
この連絡会議で、永野軍令部総長は「戦争第一、第二年の間は勝算がある。第三年以降は、予断を許さない」と、発言した。
杉山参謀総長「南方作戦により、フィリピン、蘭印、シンガポール、ビルマなどを占領する結果、支那は英米の支援によって抗戦を続けているが、支援路を遮断されて、抗戦を断念する可能性が大である」と、いつものように楽観的な見通しを、述べた。
両総長はこのままゆけば、日本は石油が枯渇してしまうために、「ジリ貧」に陥るから、もし、対米戦争の時機を先送りしたら、その後は戦おうにも、戦うことができず、為すすべもなくアメリカに屈服せざるをえないという、かねてからの主張を繰り返した。陸海軍は戦機を逸してしまうことを、焦っていた。
日本にはその時点で、石油の貯蔵量が民需も含めて、二年分しかなかった。当時の日本は石油をアメリカからの輸入に依存していたので、陸海軍にとって一日一日、燃料が逼迫していった。石油の供給を絶たれれば、軍だけでなく、日本経済全体が立ち行かなかった。
東条首相が「政府としては、統帥部が責任をもって言明しうる限度は、開戦後二ヵ年は成算があるが、第三年以降は不明であるということに諒解する」と、述べた。
そのうえで、両総長が政府に対して、11月30日まで外交交渉を続けてもよいといって、譲歩した。
東条首相が「12月1日にならないものか? 一日でもよいから、長く外交をやることができないだろうか?」と、ねばった。
統帥部が「11月30日夜12時までは、よろしい」と答えたので、連絡会議は外交打ち切りの日時を、12月1日零時(東京時間)と決定して、閉会した。
その直後に、外務省から野村大使に発せられた訓電は、日限を特別の配慮で30日まで延期すると通報したうえで、「右期日ハ此ノ上ノ変更ハ絶対不可能ニシテソノ後ノ情勢ハ自動的ニ進展スル他ナキニツキ」と、念を押していた。
アメリカは暗号解読を通じて、あたかも東京の大本営政府連絡会議に出席しているかのように、日本の動きを承知していた。
(投稿者補足:暗号解読には、東部の名門女子大学を修了した成績優秀な女性たち約一万人が、招集・訓練され育成された。彼女らは、コード・ガールズと呼ばれた)
東京の外務省、日本の在外大使館が打電した電文は、アメリカで数時間以内に解読されて、陸海軍の情報将校が要約したうえで、大統領、国務長官、陸海軍長官のもとに、届けられていた。
解読文書は、黒皮製のブリーフケースのなかに納められて、海軍将校によって、ルーズベルト(FDR)大統領のもとに、届けられた。
鞄はワシントン市内の有名なカマリア・アンド・バックレー鞄店に、特注でつくらせたものだった。ジッパーによって開閉され、南京錠がついていた。鍵は大統領と、「マジック」解読班しか、持っていなかった。
11月1日に、翌日から要約ではなく、全文を届けるようにとのルーズベルト(FDR)大統領の指示があり、翌日からは、解読分の全文がそのまま届けられた。
参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長