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44- 平安人の心 「幻:紫の上の幻を追う光源氏」

山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  紫の上の死は光源氏五十一歳の秋だった。その翌年、光源氏五十二歳の一年が、ただしめやかに過ぎてゆく。春には陽光を見るにつけても心が暗(く)れ惑う。思い出せば生前の紫の上は、時に恨めしげな表情を見せたことがあった。光源氏が他の女への想いをちらつかせた折である。取り返しのつかなくなった今、愛妻の心を乱した自分が、光源氏は口惜しくてならない。

  思いは我が人生にも及ぶ。高い身分には生まれたが、運命は決して幸福ではなかった。やはり仏が厭離穢土(えんりえど:この世をけがれた世界として厭(いと)い離れる)、欣求浄土(ごんぐじょうど:)を悟らせようと宿命づけた身なのだ。まだ踏み出せはしないが、光源氏の心は確実に出家へと向かう。
  そんななか、幼い三の宮(のちの匂宮)が紫の上の言葉を守って紫の上の遺した紅梅や桜を慈しんでいるのを見ると、時には笑みが浮かぶ。自然は営みを変えないのだ。

  夏の更衣(ころもがえ)、賀茂祭、五月雨の頃、七夕、菊の節句、十一月の五節の節句と、光源氏は紫の上哀悼の日々を送る。年の暮れ、紫の上の形見の手紙を涙ながらに焼いたのは、出家の準備のためだった。
  師走半ばの仏名の日、光源氏は人々の前に久しぶりに姿を見せた。だがその姿はやつれもせず、むしろ昔の威光にもまして稀有に輝いて見えたという。そして大晦日、追儺で張り切る三の宮を見守りつつ、光源氏は詠んだ。
ー「嘆きのなか、知らぬ間に時は過ぎた。一年も、そして私の俗世も今日終わるのだ」と。―
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「源氏物語」を書き継いだ人たち

  「源氏物語」の作者は紫式部である。しかし紫式部が書いた「源氏物語」が、いま私たちが目にしているものと同じかと言えば、それはわからない。紫式部自身が書いた本が伝わっていないので、確認のしようがないのだ。
  とはいえこの大長編「源氏物語」が一気に発表されたものではないことは、容易に想像がつく。つまり、最初はばらばらに世に出たのだ。そうした「源氏物語」が、現在のようにある程度整った形で伝えられるようになるには、幾人もの中興の祖がいた。そしてその筆頭は、やはり藤原定家をおいていないだろう。

  実は、紫式部の時代から二百年を経ずして、「源氏物語」は注釈書が必要なほど読みにくくなっていた。大体、本ごとに文章が違うのである。そうなった理由はいくつもある。
  まず、草稿の流出だ。「紫式部日記」には、藤原道長が紫式部の局から物語の草稿を盗み出し、次女の姸子(けんし)に与えたと記されている。好評ゆえの被害だが、要するに作者がこの世にいる間から下書きと完成原稿の両方が出回っていて、作者自身もそれを止められなかったのだ。
  第二に、誤写だ。江戸時代以前、本は書き写して伝えられた。印刷技術はあったが、美術品と同じで本も一点物であることにこそ価値があり、手で写されたのだ。誤写に気づけばよいが気づかない場合もあって、それがまた次の人に写されれば、もとの本とは違う一派が生まれてしまう。
  そして第三は、書写の際の勝手な書き換えや、創作である。和歌と違って作者が尊重されない物語は、書き換え御免と考えられていた節さえある。「源氏物語」に創作意欲をかき立てられた読者が、巻ごと新作してしまうこともある。こうして平安末期頃、「源氏物語」には現在の五十四帖のほか、今は伝わらない巻もあった。

  そんな時に現れ、「源氏物語」に深く関わって活躍したのが定家である。歌道の大家・藤原俊成(しゅんぜい)を父に持つ次男。生まれたのは応保二(1162)年と平治の乱の直後で、平安末期から鎌倉初頭にかけての揺れ動く時代を生きることになる。
  「源氏物語」が歌人必携の書だというのは、父の俊成の説である。「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり(歌読みが源氏物語を参考にしないとは、残念なことよ)」。「六百番歌合」での言葉だ。和歌は第一の文芸、物語はサブカルチャーとされていた格付けは、こと「源氏物語」に関しては、これで帳消しとなった。

  定家は歌道に精進するとともに、平安時代の歌集や物語を集め、自ら写した。「源氏物語」を写したのは定家六十四歳のときだった。定家の「源氏物語」は表紙の色から「青表紙本」と呼ばれ、「源氏物語」本文の決定版とされた。同じ頃、「源氏物語」のわかりにくさを解消したいと考えて、俊成の弟子の河内の守父子が作った「河内本」もある。

  二つの本は二つながら尊重され、さらに写し継がれて時代を超えた。その作業に携わった人々の数は計り知れない。定家を中興の祖とは言ったが、彼だけではない。河内の守親子も、いや「源氏物語」を書き継いだ人たち皆が、この物語の命をつないできた。「源氏物語」は多くのサポーターたちの情熱によって支えられ、今に伝えられているのである。
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