山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
女楽の後に発病して四年、紫の上は一時の危篤こそ凌いだものの、衰弱が進んでいた。紫の上にはすでに人生に未練もなく、最後の願いは出家だったが、光源氏はそれを頑として許さなかった。
三月の花盛り、紫の上は二条院で法華経千部供養を執り行った。死を覚悟した紫の上の目には、誰も彼もが今生の見納めのようで慕わしく、明石の君や花散里とは歌を贈答した。同じ光源氏の妻として関わり合い、いま自分一人が先立つことに万感の思いがあったのだ。夏には意識も失いがちになり、見舞いのため明石中宮が二条院にやって来た。言葉少なに思いを語って、紫の上は最後の時を過ごす。
なかでも、中宮の皇子・三の宮(のちの匂宮(におうのみや))には、自分の死後は二条院を相続して前栽の紅梅と桜をいとおしんでほしいと頼む。三の宮は幼心にも深く受け止め、目に涙を浮かべてうなずいた。
そしてついに秋の夕暮れ、紫の上は光源氏と明石中宮に見守られながら最期を迎える。その死は明け方、露の消えるがごとくであった。光源氏は動揺し、今さら紫の上の落飾言い出すが、夕霧がそれを止めた。夕霧は光源氏と二人で紫の上の死に顔に見入り、年来抱いていた密かな想いに別れを告げた。
即日行われた葬儀では、光源氏は一人で歩くことすらできなかった。幼少から幾度も愛別離苦に見まわれながら気丈に生きてきた光源氏だが、今や生涯の伴侶すら奪われ、世の無常に倦(う:つかれるの意味)み果てたのだった。
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死者の魂を呼び戻す呪術~平安の葬儀
人は死ねば遺体となる。その亡骸は衛生上、いつまでも平安京の中に置いておけない。そこで遺体は河原や郊外の野辺に運ばれ、葬られた。そして一般市民の場合、その代表的な葬送法は、亡骸を「捨て置く」ことだった。
後白川法皇(1127~1192年)の時代に作られたとされる、「餓鬼草紙」なる絵巻がある。餓鬼とは生前の罪のために餓鬼道に堕ちた亡者で、常に飢えに苦しみ、時々人間界に現れては食べ物を貪る。おぞましいことに、この絵巻で餓鬼が好んで食べているのは生者の食べ残しや排泄物などで、死体も大好物の様子である。そんな訳でこの絵巻の一場面には、墓地らしき場所を舞台に、いくつもの死体が描かれている。棺桶に入れて放置された死体。敷物の上に寝かされた死体。土の上に直に転がされた死体。それぞれが死後の経過時間に応じてあるいは黒ずみ、あるいは白骨化している。これらの死体は、火葬にされず、埋められもしていないのだ。絵師の作り事ではない。
とはいえ貴族階級では、やはり火葬が一般的だった。だが、例外も少なくない。「栄華物語」(巻七)によれば、一条天皇(980~1011年)の皇后定子の葬儀は土葬だった。
―「煙とも雲ともならぬ身なりとも 草葉の露をそれとながめよ (煙となって空に上ることも、雲となって漂うこともない私の体。どうぞ草の葉に降りた露を、私と思って偲んでください)」。
本人がこのように、辞世の歌で願ったからだ。せめて体だけでもこの世にとどめたかったのだろうか。あるいは、万に一つの蘇りを願ったのだろうか。遺族は定子のために、まず霊屋(たまや)という遺体安置所を建て、周囲には築地塀もめぐらした。遺体はいったん六波羅蜜寺に置かれ、葬儀の日には絹と金銅で飾った豪華な牛車に乗せられて、取野辺の霊屋まで運ばれた。霊屋の中には遺体と共に調度の品も収められたという。ちなみに定子の女房だった清少納言は、晩年をこの取野辺の近く、月輪の地で過ごしたとされる。主人が亡くなっても傍に仕えたのだ。
さて、紫の上が亡くなったとき、光源氏はその日のうちに彼女を荼毘に付した。蘇生を願わなかったわけではあるまい。むしろ、自分の心に無理をさせてでも紫の上の死を受け入れ、信心深かった彼女の極楽往生を進めようとしたのではないか。それが、最後までこの妻に出家をさせなかった光源氏の、懺悔のしかたではなかったのだろうか。野辺送りの道すがら、一人で歩けないほど打ちひしがれた光源氏の姿は、そんな心の証しのようだ。