しかるに私が私自身のもとにあるときには、私は自由である。かく自由とはおのれ自身のもとにあることである。これに相違ないとしても、これがこのままに留まる場合には、いわゆる「わがまま」であり、「形式的自由」であって「実質的自由」ではない。実質的自由はいわゆる「疎外」を、あるいは「外化」
を含み、これに媒介されたものであり、したがって他のもとにありつつ、あるいは他のもとにあることを通じて自己のもとにあることなのである。(s 355 )
しかるに私が私自身のもとにあるときには、私は自由である。かく自由とはおのれ自身のもとにあることである。これに相違ないとしても、これがこのままに留まる場合には、いわゆる「わがまま」であり、「形式的自由」であって「実質的自由」ではない。実質的自由はいわゆる「疎外」を、あるいは「外化」
を含み、これに媒介されたものであり、したがって他のもとにありつつ、あるいは他のもとにあることを通じて自己のもとにあることなのである。(s 355 )