自由がおのれのもとにあることには、依然として変わりがない。だから一見すると罵倒されるかのような観を呈する「ドイツ的自由」に対しても、実は無限の愛着をが抱かれている。確かにそれは生活と行動において自分の足だけで立たんとし、独立不羈で他との共同を拒否するものであるが、およそ人間は a
他との共同を拒否するものであるが、およそ人間は他との共同においてのみ存在しうるのであるから、無秩序を来たし、自分で自分を破壊する。だから形式の自由はあっても、実質的には自由ではない。形式的自由の一つであるかかる「ドイツ的自由」をヘーゲルが非難するのは言うまでもない。 c
それはゲルマン戦士の自由として、封臣の自由として、帝国議員の自由として、ドイツ民族をして近代国家を形成することを得させなかった宿命的なものである。しかし、そうかといってドイツ的自由がただ否定せられ抹殺せられるにとどまるべきものではなく、それはむしろ「止揚」せられるべきである。c