夜、久しぶりに古いDVDを取り出して、「コンタクト」を見る。すでに亡くなったカール・セーガンのSF小説を原作としている。
地球外生命体の探索に駆り立てられる女性、エリーが主人公で、先端的科学SFに、宗教的狂信者のテロリストが登場し、その最初のプロジェクトが爆破されて妨害されるのも、いかにもアメリカ映画らしい。ちょうど10年前の作品である。この映画が上映されてから3年後に、9・11アメリカ同時多発テロ事件が発生している。
時間に余裕があったので、キャストやスタッフのバイオグラフィーやプロダクション・ノートなども比較的詳しく見た。DVDでは、映画の製作現場やその意図なども知ることができるので、もう一つの面白さもある。たった数分のコンピュータなどを使った特殊映像のイントロ場面に、どれほどの人員と時間や労力が投入されているかがわかる。
それにしても、映画の中で、最初のプロジェクトが宗教的狂信者の妨害で爆破され、挫折したのち、新たなプロジェクトがひそかに日本の北海道で実現されていたという設定にはまた笑ってしまった。映画も現実を反映して、社会の現実からまったく無縁であることができない。
闇の出資者、ハデンという人物に、日本の下請け会社が買収されてしまうというのも面白い。
地球外生命体の存在については、SETIや天文学者たちは、電波発信などを行なって探求しているらしいけれども、地球外生命体は存在するかという問題については、私も存在すると思う。ただ、生物学者や天文学の立場と違って、哲学の立場では実証することはできない。その存在の必然性を論理的に論証的に確信するだけである。
その論理的な根拠は、すでに地球上には人間をも含む生命体が存在していることである。人間もまた宇宙人であり、人間が宇宙内にすでに出現しているように、そして宇宙の本質が無限である限り、宇宙には同じ必然性をもって、人類と同じような生命体が出現してくる。
ただ、人類が地球外生命体に「コンタクト」しうる可能性は、無限にゼロに近いのではないかと思う。その根拠は、宇宙が無限に広大であるからだ。だから主人公エリーのように、わずか100年ばかりの生涯を、無限にゼロに近いその可能性に賭けるかどうかは本人のよほどの選択によるだろう。エリーの場合は、その願望が早く死に別れた父との再会の願いと重なっていた。
宗教の本質や、宗教とカルトの関係も、哲学的にも興味があるが、まだ解明はできていない。私たちが感覚器官で認識できる世界は、広大な宇宙のごく一部に過ぎない。海辺の砂浜の一握りの砂を握ってもてあそんでいるようなものだ。
I do not know what I may appear to the world: but to myself I seem to have been only like a boy playing on the seashore, and diverting myself in now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.
―――Newton
私がどうしてこの世界に現れたのかも、その理由を私は知りません。しかし、私自身にとって私はただ、海辺で遊んでいる、そして、ありきたりのよりも滑らかな小石やきれいな貝殻を見つけては、いつも自分を楽しませている少年のようであったように見えます。そうしている間にも、真理の広大な海原は、ほとんど発見されないままに私の前に横たわっています。
―――ニュートン
主人公エリーは、ジョディ・フォスターが演じている。いかにも自由で知的な白人女性の標本のようにも見える。英語字幕で、50回も繰り返し見ていれば、英語を聴き取る力ももう少しついていたかもしれない。今からでも遅くはない。
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