世界と自分
もし、あなたが全世界を手に入れたとしても、自分の命を失えば、それが何の得になるか。人は失った命に何を代えるだろうか。
(マルコ伝8:36,37 ルカ伝9:25 マタイ伝16:26)
これらの福音書のテキストは、おそらく、同じ原典から採られたのだろう。この言葉が語られた文脈がもっとも明らかになっているのは、マルコ伝かもしれない。
それによると、イエスが弟子たちと一緒にフィリポ・カイサリア近くの村村を巡っているときに、弟子たちにメシアとしてのご自分の身分を確認された後で、やがて来るべき苦しみと死とを避けられないものとして述べられたときに、弟子たちにもその覚悟を問うたときに述べられた言葉である。
ここで対比されているのは、「全世界」と「自分の命」である。そして、全世界をもってしても取り換えることのできないものとして、弟子たち一人一人のそれぞれが持つ命、魂の価値を明らかにしている。それは詩篇四十九篇8節9節でも語られているように、(おそらく、イエスにも詩篇のこうした個所が念頭にあったのだろうが)、神に対しては人間は自分の命はもちろん、兄弟の命も買えない。魂を贖う代金は高く、永久に払いきれない。それほど、私たちにとって命は魂は貴重であるという。
人は全世界をもってしても贖えないこの命を、この魂をどうすれば得ることができ救うことができるのか。
それに対してイエスは言う。自分の命を救おうとするものはそれを失い、福音のためにそれを失うものが、命を得ることができると。この逆説が、イエスの説明だった。この自分を失えば、たとい全世界を手に入れたとしても、それは取り返しのつかないものになるという
それは、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスの後に従うことが自分の命を救うことになるという人間的にはきわめて困難な選択を告げた後に語られた言葉だった。イエスは弟子たちを叱って言った。「あなたたちは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 また、イエスは自分の生きた時代を、神に背いた罪深い時代と言っている。
このときイエスに付き従っていたペテロたちが、イエスと同じように自分の十字架を背負って、師の後に従ったことを私たちは知っている。ここには、自分の命、自分の魂を得ること、救うことの代価がどういうものかが明らかにされているのではないだろうか。