アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

「アジアの力」展開催までのお話。

2008-03-13 | このブログについて
「アジアの力」という写真ビデオ展が、2009年6月12・13・14日に福井県越前市で開かれました。

県内の新聞、テレビ、雑誌、ラジオにも取り上げていただき、たくさんの方々が足を運んでくださいました。本当に有り難いことです。


ところでこの「アジアの力」が開催されることになった経緯を少し・・・。

実は1年間の旅の途中で、2回、日本に一時帰国をしていました。7月と11月のことです。
その2回目の帰国時に、いつも私のことを面白がってくれ、何かにつけて飲み会を開いてくれているM氏が「一時帰国おでん会」たるものを開いてくれました。仲間同士が集まる、というよりは、彼の人脈で人が集まる、という不思議な飲み会です。

初対面の人や、顔には覚えがあるけど名前は覚えてない・・という人が何人かいる中、おでんをたらふく食べた私はそーっとパソコンを持ち出しました。
「あのー、せっかくなので、ちょっとだけ見ます?」とか言って。


とりあえず見せたのが、フィリピンのごみ山で撮った映像でした。
日本のNGO団体であるICANに提供するために撮影・編集した10分ほどの映像です。

「へぇ~!これ、ここだけで見せるのもったいなくない?もっとたくさんの人に見てもらおっさ!」

・・・・・へ?

思いっきり酒の席で、皆さん何に興味あるのかも分からず恐る恐る見せた映像に対する反応に、正直私は戸惑いました。

私「いや、そんなのいいです。これはNGOに提供するために作ったものなので・・・。一般に見せる用じゃないし。」
Sさん「なんで???せっかくつくったのにもったいない!」
Mくん「じゃ~第一回目、俺ん家でやりま~す!!」
Sさん「じゃ~二回目はウチで決定!!!」
私「・・・・・・はぁ。」


そんなこんなで、酔っぱらいなんだか正気なんだか分からないまま、話はその場でトントン拍子に決まってしまいました。


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その数日後、第一回目のビデオ展が、本当に!三国で開かれました。
会場は、藁造形作家の村上裕介くんのアトリエ。
「ぼくらのアジア」というタイトルを付けました。

ごみ山の映像に私が解説を付けてしゃべり、質疑応答の後みんなで鍋を囲んで語り合うという内容で、20人ほどの人が来てくださいました。今度は村上くんの人脈で人が集まったので、これまた私の知らない方ばかり。
「映像に出てくるのが女性ばっかりなのが気になるなぁ。男は何をしてるんだ?」
そんな意見・質問もありました。

そんな中、そこに来られていた写真家のIさんが、第二回(「アジアの力」第一回)の写真プリントを全面的に協力してくださることになりました。
鍋の用意を手伝ってくれたJちゃんは、「アジアの力」の物販で協力してくれました。
村上くんはヤギの寝床になる藁を提供してくれました。


こうやって、人が人を呼び、つながって「アジアの力」になったのです。

面白いでしょ~。
全てはあの夜の「おでん」から始まったのです。


「アジアの力」は「おでん」にあり!


いや~、人がつながっていく力こそが、「アジアの力」なんだろうなぁ~。

旅立つ前の長いお話。

2008-03-13 | このブログについて
突如、世界一周の旅に出かけたのは2008年3月。

それまで地元のテレビ局で報道記者を務め、天職だと思ったその職の延長線上にドキュメンタリー番組のディレクターを夢見、だったら世界規模でやっていけるようにとアメリカでドキュメンタリー制作のインターン(実地研修)をすることを決意。
しかし受け入れ先も決まっていざ出発!という矢先に、その映画監督さんががんで倒れ入院することに・・・。

監督さんのお身体を心配する反面、自分の行き先はどうしようもなく、その後半年間ほかの受け入れ先を探したけれど見つからず、困り果てていた頃にたまたま見つけたのが「インドでのインターン」でした。
Video Volunteer というその団体は、アメリカ人の若い女性がCNNを辞めて立ち上げたNGOで、決して裕福ではない現地の人達にビデオカメラを渡し、自分たちで自分たちの状況をリポートさせ、それを英語に訳してインターネットで配信するという活動をしています。
「これだ~!」と思って早速コンタクトをとり、何度かメールをやり取りして、インターン(もしくはボランティア)としての受け入れを許可してくれそうな手応えを得ることができました。

そこでせっかちな私は「最終の返答を待つだけなら日本にいなくても大丈夫!」と、早速インドに向かう準備を始めます。
「とりあえず行っちゃえ!」というわけです。
と、そこで思いついたのが「世界一周」でした。
「インドまで行くなら、せっかくだしいろいろ寄り道しようかな。」


「アジア」に特別興味があったわけではありません。逆に「アジアって戦後の日本みたいな感じなんでしょ。」くらいにしか思っていませんでした。
開発途上な街の喧噪、貧しさ、裸の子どもたち、段々畑、温かい笑顔、のどかな風景・・・。昔のありがちなモノクロ写真を思い起こさせます。

一方で “放浪系” の旅の代表格として、インドへの憧れはありました。一度ハマるとやめられなくなるらしい・・・。藤原新也さんの幻想的な写真などから、生と死が混在するインドのカオス的なイメージがありました。

「だけど本当のところはよく分からないから、この際気になる場所を見て回ろう。」

そんなこんなで、世界一周の準備が始まりました。


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最初に考えたのが、ルートです。
いろいろ行ってみたい場所があるはずなのに、いざ旅のルートを決めようとするとどこに行けばいいのか分からない。
地図を眺めれば眺めるほど、ピンポイントで選ぶことができないのです。

「そうか、全体的なテーマがないからだ。」

ということで、旅のテーマを決めることにしました。
「私は何を見たいのか?」「それを見ることで私はその後何をしたいのか?」、自問自答が続きました。

結果出た答え。
「ずーっと考え続けている環境問題に今後本腰を入れて取り組みたい。だから、その現状を今のうちに自分の目で見てみたい。」
パソコンを開き、インターネットで情報を集め始めました。

例えばこんな情報です。
『丸太の輸入量=日本:世界第3位。』
『インドネシアの合板を日本が大量輸入。その8~9割は違法伐採と推測される。』
『パプアニューギニアでかつて王子製紙が熱帯雨林を皆伐。森林の60%はすでに消失し、その90%は違法伐採だったと推定。』
『バーチャルウォーターと呼ばれる間接水(家畜を育てるため等に使用)の大量輸出入により、水が枯渇する地域が生まれる。日本の輸入先=1位:アメリカ、2位:オーストラリア』
『水産物の輸入量=日本:世界第1位。太平洋/大西洋のマグロ、タラ、ヒラメがこの50年間で90%減少。日本の輸入先=中国、アメリカ、チリ、タイ・・・』

それらはただの「情報」もしくは「データ」でしかないつまらない文字の羅列ですが、まさにこれからその現場に行くかもしれない!と思うと見事に立体的に浮かんで私に迫って来るかのようでした。

「この中から、実際に飛行機のチケットを買う場所を選ぶんだ・・・。」


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1年間で行ける場所なんて限られています。
ましてや「環境問題」なんて幅広いテーマなら尚更。大きな問題が勃発している場所だけでもアチコチ切りがありません。

なので、後は独断と偏見で。

以下、私が作ったルートです。

《日本→マレーシア→ボルネオ島→フィリピン→タイ→スリランカ→インド→ケニア→ドバイ→アメリカ→メキシコ→日本》

「世界一周航空券」というものを使えば、これだけ回って52万円。お得でしょう?
ちなみにこれ以外の国や地域に行く場合には自費になります。

そうして、「インドに半年」を第一目的にした欲張りな旅が始まったのです。

旅立った後の長いお話。

2008-03-13 | このブログについて
さて、そんなこんなで出発した「世界一周の旅」。

確かインドをメインに前後はオプション程度だったはず・・・。なのですが、そのインドが遠かった。
結果的にインドまでの寄り道に7ヶ月を要し、5月に着く予定だったムンバイに到達したのは、秋も深まる10月半ばでした。。

なぜそうなってしまったのか?

ひと言に、「アジアが面白い!ことを知ってしまったから」です。

「面白い」というのは「楽しい」だけではありません。
「知らないことがたくさんある」という意味です。そのことが、何よりショックというかビックリというか・・・。
とにかく夢中でいろいろなことを吸収しました。


例えばマレーシア。

首都のクアラルンプールからボルネオ島に向かう飛行機の中で、隣の乗客に教えてもらった情報が「Bario」という村のことでした。そしてとりあえずその村に行ってみると、そこにはKelabit(クラビット)族という人達が暮らしていて、お年寄りは耳たぶが肩までぶら下がり、しかしそんなジャングルの中の小さな村で彼らは(日本でいう)エコグリーンツーリズムをやっていて、そこに目をつけたイギリス人がフードフェスティバル(食の祭典)なんかも仕掛けたりしています。

そしてその近辺の森にはPenan(プナン)族という人達が暮らしていて、20年ほども前から問題になっている熱帯雨林の伐採に未だ立ち向かっています。
彼らの多くは森の中を転々と獲物を追って移動する生活を続けていますが、最近では少しずつ定住する動きもあって、自分たちの伝統と新しい時代の流れに葛藤しながら生きています。


フィリピンでは、ICANという日本のNGOに出会いました。
彼らは首都・マニラにあるゴミ集積場に住む人達をサポートしていて、主に住民の医療ケアをしています。そこで、「子どもたちが描く理想のセカイ(社会)」を子どもたち自身が考え、社会にぶつけようというプロジェクトに関わりました。
そこで出てきた意見や提案が、これまた面白い。子どもって見てるんですね・・・。大人のことを。
(詳細はブログ本章の中で。)


そんなこんなでインドはどんどん遠ざかり、当初受け入れをアテにしていたVideo Volunteerという団体からの返答もなく、マレーシアとフィリピンを行ったり来たりしている内に、あっという間に半年が経ってしまったのです。


けれど、人生とはそういうもんなんだなぁと思います。
ご縁、出会い、運、直感、成り行き、・・・結局そういうもので道は開けてきます。

きっと私はここに来るために会社を辞め、アメリカ留学(インターン)がポシャり、行き先を失い、インドのボランティアを見つけ、しかしそれも上手くいかず、でもきっと今こうしてこの人たちに出会うために全ての出来事があったんだな・・・。そう思える瞬間が何度もありました。それは嬉し涙があふれるほどの、感動でした。


西欧にばかり目を向けてきた私自身が、足下に目をやり原点に立ち返った1年間でした。

日本人は、間違いなくアジアの民です。
そして私たちがいるこのアジアは、間違いなく素晴らしい。

そんなことを実感する日々でした。


そうこうして最終的に帰国したのが2009年3月13日。
ここからある意味、私の新たな旅が始まったのです。