まずはサハリンのおばあちゃんについて書こうと思い、過去の旅日記を探していたら、2013年秋のちょうどその頃に書いたらしい私的日記を発見した。
1年ちょっと前の私は、懸命に自己分析を試み、何を志すのかを模索していた。
そして浮かんでは消えたアイデアのうちのひとつが、そこに記されていた。
------------(記録を兼ねて以下抜粋します)------------
そもそも自己分析というのは何歳くらいで一通りできるものなのか。人それぞれとはいえ、10代から分析できている人は極稀なはず。20代では?若手でやり手のビジネスマンはできてる部類なのかもね。回りにいる年下の友達を思い浮かべてみると、たとえば東大院卒のKだって、やはり20代らしい右往左往感をにじませている。じゃあ30代は?一般的に、世間的な信用が自ずと得られる年代だと言われる。わたしみたいなアウトローでも、それなりに、数々の失敗を含む一応の社会経験は積めていることだし。外見は変わってなくても、声のトーンや目元や表情の作り方なんかは20代の時とは変わってきているんだろうと…信じたい。
それで、ようやく自己分析できてきたかな、と改めて思うことは、自分という人間は、ジャーナル(報道)的な表現に偏ることを潜在意識的に拒否しているんだろうということ。恐らくわたしは「ニュース」に興味がないし、ニュース的な方法で表現するのは好きではない。つまらないと思っている。
ではアート的なのか?というとそちらにも偏り切れず、文学も苦手だし、映画もハマれないし、鑑賞するのは良くても作り手として本当の価値はほとんど分かっていない。
だから結局、自分はその間のグレーゾーンなんだと割り切るしか道はなく、また、そのグレーゾーンを開拓していくべきなんだと自分に言い聞かせるしかない。仕方なく、という面と、それこそ我が道、という面が今はまだ微妙に表裏一体な感じ。
だけど、具体的にやりたいことを考えると、放浪時に妄想したことがまた蘇ってくる。
先住民族のアートをブランド化すること。
土産物ではなく、高級工芸というのでもなく、ひとつは、現在のデザイナーやイラストレイターの世界に、もっと先住民族の人がいてもいいんじゃないかということ。彼らが彼らのアイデンティティを現代的な仕事の中で活かし、DNAに染み付いた民族的センスを発揮していければ、文化も進化するし民族の誇りも大切にできる。仕事をつくるというのは土産物を増やすことではなく、今の社会でフツーに求められているものや人やポジションに入り込んでいくことなんじゃないか。
そういうことを促進することはできないだろうか、と思うのです。
これだけグローバル化が進み、世界が均一になる方向でモノゴトが進むと、50年後や100年後には今よりもっと文化の多様性が薄れてくる。弱者は強者に勝てないし、マイノリティはマジョリティにかき消される時代。先住民族だって、弱い民族は消えていき、アピール力の強い民族だけが残っていく。
だけどそれを動物園的に、珍しいもの見たさを売りにしたような観光でアピールするのは痛々しい。そうであってはいけないと思う。
どうしたらいいのか。文化の多様性は、どうやったらうまく残せるのか。「グローバル化時代の先住民族」…そういったことをテーマに、何かできないか?と思う。
アジアの旅エッセイをまとめたら、そっちをガッツリやろうか。
またカネがかかるけど、仕方ないな。スナックでも探して働くか。
だけどそれらに対する好奇心は、結婚や子づくりを求める本能よりも強いんじゃないかと思う。特に今は、そっちなしに自分の人生は満足いかないような気がしてしまう。
いずれにせよ、大きなテーマだから時間がかかる。だったら焦らず旅を続けながら、ぼちぼちやろう。ツアーもつくりながら、ぼちぼちやろう。
社会は自動的につくられていくものではなく、自分達の手で、常に変えていくものなんだと知ってしまったんだもの。
ロスジェネの30代は、失ったものが大きい代わり、何かを変えていけるポテンシャルは逆に高いはずなんだ。それ以前の世代とそれ以降の世代の接着剤として。日本と世界の接着剤としても。
わたしたちが活躍しなければ、発信しなければ、見落とされてしまう価値観や世界観があるんじゃないか。
…なーんてね。夜な夜なパソコンを打っていると熱くなってしまってダメだね。そろそろ寝よう。
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モヤモヤした時に記すこの手の日記は、落葉のようにパソコンの中に舞い落ちて、時間の経過と共に土壌と化していく。その土をたまにいじってみると、思いのほかフカフカになっていたり、カチコチになっていたりして面白い。
そうか。「多様性」ということを自分は希求しているんだな、ということも改めて認識できたりする。
日本でも、海外でも、全く意味なく虐げられたり、居場所を失って彷徨っている人たちがたくさんいる。
それは貧乏だから辛いのではなく、親がいなかったり学校に行けないから辛いのでもない。
自分の存在意義を見出せなくなってしまう、その状況が何にも増して苦しいんだと、今の私は思い至っている。
だから「多様性」なの。
どんなに小さな声も、どんなに偏った意見も、排除しちゃいけない。違うと思ったら、話し合いをしなきゃいけない。たとえ合意できなくても、その人の存在や、その人がそこに至った経緯は認めなきゃいけないと思う。たとえ歴史修正主義者であっても。もしくは多様性を認めないヘイトスピーチをするような人たちであっても。
喧嘩の先に暴力があり、暴力の先に戦争があるとしたら、その根っこの根っこには、自分に中に眠る“相手を認めようとしない心”の存在があると思うから。
虐げている人も、虐げられている人も、心が平穏でないという点では一致しているように思うから。
あぁまた頭がグルグルになってきた。
今日は元旦だっていうのに。
ちょいと、厄払いに行ってきます。
小雪舞う中、きれいスッキリ、今年もまっさらな心でスタートしなきゃ。
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