以前、書こうかなと思って書かなかったことのひとつ。
お金のことについて、考えながら綴ります。
♢ ♢ ♢
いわゆる途上国を旅すると、「日本人=金持ち」という見られ方を必ずする。
それは比較論でいえば間違いなく、航空チケットが払えている時点で、旅人が通常出会い得る市井の人々よりは自分の方が遥かに金を持っている。
「金持ち」だと思われることに対しては戸惑うけれど、それは事実なんだから受入れるしかない。
そうやって開き直って街を歩いていると、 “明らかに貧しそう“ な人たちが手を差し出しながら寄って来る。
私は私なりのルールを決めて、その時々の感情に任せて小銭を渡すことにしている。
たまたま感情が動かない時や、ポケットの小銭が少ない時は渡さない。
そもそも1人ずつに小銭を渡していては切りがないのだから、…だけど目の前にいる人を透明人間みたいに扱うのは嫌だから、その瞬間の自分の状況と善意の程度に従うと決めたのだ。
こういうのは正解なんてないから、自分で決めたらそれでいいの。 と思っている。
♢ ♢ ♢
だけど、“その国の中では特段貧しいわけじゃない人” と友達になった場合。
もしくは、“そんなに貧しそうには見えない人”とご縁あって友達になった場合。
「友達」なだけに、自分ルールが定まらない。
それぞれ信頼度も違うから尚さらのこと。
最初に頭を抱えたのは4~5年前だった。
フィリピン・セブ島で知り合った2児の母、キャサリンに、旦那の仕事が行き詰まったから数十万円貸してほしいと頼まれた。
アメリカ船の船員をしている旦那には、一度だけ会ったことがあった。とても朗らかで、船員の制服がよく似合うフィリピン風イケメン。彼は、キャサリンにも将来のために専門を身につけてほしいと考え、養育に加えて彼女を会計士の学校に通わせていた。
その一家がピンチなのだと言う。
「ほんとか?」と少々疑ってはみたものの、キャサリンとは、家に泊めてもらっては恋話なんかを語り合った仲。そう無下にもできない。
日本の友達にそのことを相談すると、「絶対に貸さない方がいい」と、99%の確立で忠告された。
まぁ、フツーそうだと思う。
悩んだ挙げ句、結局その時ギリギリ貸せる金額3万円ほどを、次に会った時に手渡した。
のだけれど、手渡した時の彼女の表情が 「ありがとう~(涙)」 といった感じではなく、感謝しているのかしていないのかさえ分からない態度だったために私は愕然としてしまい、深く深く後悔したのだった。
「カネだけ渡して感謝もされないって、どういうこと?」と肚を煮えたぐらせて。
数ヶ月後、傷跡となって残った負の思い出を、別のフィリピン人の友達に打ち明けた。
するとちょっと意外な反応が。
友「フィリピンでは、お金を貸すのは商売のひとつね。ちょっとお金持ってる人はみんなする。いい商売よ」
私「高利貸しってこと?私は返してもらってもないよ。返してくれると思ってないし」
友「でもフィリピン人は、絶対に恩を忘れない」
私「感謝もしてくれなかったよ、貸したとき」
友「言葉で言わなくても、フィリピン人は絶対に恩を忘れない。絶対、彼女は一生忘れないよ」
…そんなもんか、と思って私の怒りは少し緩和された。
「常識」というのはややこしい。
自分は常識にとらわれていないと思っていても、相手の反応が期待外れだったということは、つまり自分の常識を相手に押し付けていたことになる。
そして一方的に怒り、ガッカリし、非難してしまう。
そしてこういうのは、外国人とのトラブルに限らず、日本人同士でもよく起きていることなんだな、と最近思うようになった。男女の違い、世代の違い、育ちの違い、状況の違いによって、私たちの間にはズレがいくらでも存在する。
近い人との間でこそ、それが顕著になるのかもしれないし、ズレた時の摩擦が激しいとも言えると思う。
だからね、今となっては思うのです。
自分の常識を外してモノを考えられるようになるために、外国人とのお金のトラブルは良い訓練だなと。
まず「外国人」というズレは最も分かりやすいし、かつ「お金」というのは最もシリアスで、失敗した時に最高の教訓になるから。
だから外国人の友達に借金をせがまれても、安直に自分ルールを適用せず、その都度悩む方がいいのです。
ちなみにキャサリンとは今も facebook でつながっている。
ただ、あれ以来、一度も会ってはいない。
まだ心の傷が完治していないなら、ちゃんと話し合ってしこりを解消すべきだと思うのだけれど、なかなかねぇ。一度ヘソを曲げた感情はそう簡単には戻らないらしいのです。
これもまた教訓。
人間関係を豊かに、また円滑にするために、何事も犠牲を払いながら学んでいこう。。。m(_ _)m
お金のことについて、考えながら綴ります。
♢ ♢ ♢
いわゆる途上国を旅すると、「日本人=金持ち」という見られ方を必ずする。
それは比較論でいえば間違いなく、航空チケットが払えている時点で、旅人が通常出会い得る市井の人々よりは自分の方が遥かに金を持っている。
「金持ち」だと思われることに対しては戸惑うけれど、それは事実なんだから受入れるしかない。
そうやって開き直って街を歩いていると、 “明らかに貧しそう“ な人たちが手を差し出しながら寄って来る。
私は私なりのルールを決めて、その時々の感情に任せて小銭を渡すことにしている。
たまたま感情が動かない時や、ポケットの小銭が少ない時は渡さない。
そもそも1人ずつに小銭を渡していては切りがないのだから、…だけど目の前にいる人を透明人間みたいに扱うのは嫌だから、その瞬間の自分の状況と善意の程度に従うと決めたのだ。
こういうのは正解なんてないから、自分で決めたらそれでいいの。 と思っている。
♢ ♢ ♢
だけど、“その国の中では特段貧しいわけじゃない人” と友達になった場合。
もしくは、“そんなに貧しそうには見えない人”とご縁あって友達になった場合。
「友達」なだけに、自分ルールが定まらない。
それぞれ信頼度も違うから尚さらのこと。
最初に頭を抱えたのは4~5年前だった。
フィリピン・セブ島で知り合った2児の母、キャサリンに、旦那の仕事が行き詰まったから数十万円貸してほしいと頼まれた。
アメリカ船の船員をしている旦那には、一度だけ会ったことがあった。とても朗らかで、船員の制服がよく似合うフィリピン風イケメン。彼は、キャサリンにも将来のために専門を身につけてほしいと考え、養育に加えて彼女を会計士の学校に通わせていた。
その一家がピンチなのだと言う。
「ほんとか?」と少々疑ってはみたものの、キャサリンとは、家に泊めてもらっては恋話なんかを語り合った仲。そう無下にもできない。
日本の友達にそのことを相談すると、「絶対に貸さない方がいい」と、99%の確立で忠告された。
まぁ、フツーそうだと思う。
悩んだ挙げ句、結局その時ギリギリ貸せる金額3万円ほどを、次に会った時に手渡した。
のだけれど、手渡した時の彼女の表情が 「ありがとう~(涙)」 といった感じではなく、感謝しているのかしていないのかさえ分からない態度だったために私は愕然としてしまい、深く深く後悔したのだった。
「カネだけ渡して感謝もされないって、どういうこと?」と肚を煮えたぐらせて。
数ヶ月後、傷跡となって残った負の思い出を、別のフィリピン人の友達に打ち明けた。
するとちょっと意外な反応が。
友「フィリピンでは、お金を貸すのは商売のひとつね。ちょっとお金持ってる人はみんなする。いい商売よ」
私「高利貸しってこと?私は返してもらってもないよ。返してくれると思ってないし」
友「でもフィリピン人は、絶対に恩を忘れない」
私「感謝もしてくれなかったよ、貸したとき」
友「言葉で言わなくても、フィリピン人は絶対に恩を忘れない。絶対、彼女は一生忘れないよ」
…そんなもんか、と思って私の怒りは少し緩和された。
「常識」というのはややこしい。
自分は常識にとらわれていないと思っていても、相手の反応が期待外れだったということは、つまり自分の常識を相手に押し付けていたことになる。
そして一方的に怒り、ガッカリし、非難してしまう。
そしてこういうのは、外国人とのトラブルに限らず、日本人同士でもよく起きていることなんだな、と最近思うようになった。男女の違い、世代の違い、育ちの違い、状況の違いによって、私たちの間にはズレがいくらでも存在する。
近い人との間でこそ、それが顕著になるのかもしれないし、ズレた時の摩擦が激しいとも言えると思う。
だからね、今となっては思うのです。
自分の常識を外してモノを考えられるようになるために、外国人とのお金のトラブルは良い訓練だなと。
まず「外国人」というズレは最も分かりやすいし、かつ「お金」というのは最もシリアスで、失敗した時に最高の教訓になるから。
だから外国人の友達に借金をせがまれても、安直に自分ルールを適用せず、その都度悩む方がいいのです。
ちなみにキャサリンとは今も facebook でつながっている。
ただ、あれ以来、一度も会ってはいない。
まだ心の傷が完治していないなら、ちゃんと話し合ってしこりを解消すべきだと思うのだけれど、なかなかねぇ。一度ヘソを曲げた感情はそう簡単には戻らないらしいのです。
これもまた教訓。
人間関係を豊かに、また円滑にするために、何事も犠牲を払いながら学んでいこう。。。m(_ _)m
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