前回の書き込みから、ずいぶん時が経ってしまいました。
その間、森光子さんが亡くなり、中村勘三郎さんも亡くなり、 フィリピン・ミンダナオ島が台風に襲われ、日本も震災後最も大きい余震に見舞われました。そして今週末には選挙。
…なんて慌ただしい年の瀬なんでしょう。
有り難いことに、私は渡比前から仕事が立て込み、今月に入ってようやく一段落つきました。
なのでまずは、ミンダナオ島で行った文化交流の報告から。
ちなみに台風は島の太平洋側を直撃し、1000人以上の死者・行方不明者を出しています。
主に採掘現場の人たちが大勢犠牲になったそうです。
カリナンでお世話になったY先生に電話したところ、ダバオ市内は全く大丈夫とのこと。
今回は大統領も駆けつけてるそうなので、インフラから治安改善まで、そもそも整っていなかったこともググッと押し進めてくれたらなぁと願います。
ミンダナオ島といえば、果物。
ここは街中にあるローカルマーケット。地元の人たちが立ち寄って新鮮な野菜や果物を買っていきます。
ジャックフルーツはどでかいので、その場で切って量り売り。
野菜売り場では、なんとカット野菜も売っています。
お米は量り売り。
これは市場にある商店。やたら目につくビニール袋は…
近づくと、こんなものが入っています。
ニンニク、砂糖、塩、調味料、染色粉?なども、みんな小売り小売り。
お肉やのおばちゃん
(ここはカリナン地域のローカルマーケットです)
お姉さんは、豚のラードや皮?を売ってます。…手前の黒いの、何だっけ
それで、その店々の並びには、牛さんがいたりもします。
市場には食堂も。
これがフィリピンの超ローカルレストランです。客はその場でお惣菜を2~3品選んで席につきます。
マレーシアも同じようなシステムですが、マレーシアは店の雰囲気がもっと華僑チック。(フィリピンの方がいかにもローカルな感じです)
それで、市場で売ってる果物は、こんな風に実っています。
右がココヤシ。左がドリアン。
これがジャックフルーツ。
で、ダバオ市街地から 車で西に1時間行くと、カリナンという街があります。
戦前も今も、日系人が多く住んでいる地域。
今は日本で稼いだ人達が、ここに店や家をどんどん建てているためバブリーなんだとか。
ちなみに戦没者の慰霊碑があるミンタルは、ここから20分ほどダバオに戻る途中にあります。
カリナンの中心街から脇道に入ってゴトゴト行くと、
日系人会の学校があります。本校はダバオ市内にあるので、ここはカリナン分校。
「こんにちは、マキノサン!」と元気なこどもたち。
生徒の約半数は日系人だそうです。4世の子もいれば、2世の子も。
ここは民間学校なので、比較的裕福な子しか入れません。
公立学校は生徒数が多過ぎるため半日交代ですが、ここは全日授業を受けられます。
日本語の授業もバッチリ。
“たんじょうびに なにが ほしいですか?”
“たんじょうびに PSが ほしいです。” (笑)
学校の回りには、戦前からダバオに住んでいた開拓日本人コミュニティがあります。
ここは近くのサリサリストア(小売店)。
右の男性は日本人で、元校長のY先生。日本で退職した後にダバオに移り住み、日系人のこどもたちへの教育に尽力されています。今回の文化交流が実現したのは、全てY先生のお陰です。
ダバオを開拓した日本人の多くは、沖縄の出身でした。
彼らはもともとはダバオではなく、首都マニラがあるルソン島にトンネル建設の労働移民として渡りました。当時はアメリカが統治していた時代。アメリカ人はマニラの暑さに耐えかねて、ルソン島北部の山に避暑地を造ろうと考えました。そこで勤勉な日本人を労働者として募集して、非常に困難とされたトンネル建設を敢行したのです。
根性でトンネルを完成させた日本人の多くは、そのままフィリピンに住み続けました。
その一部の人がミンダナオ島のダバオに移住し、マニラ麻栽培を始めます。それが大成功し、次々と日本人がダバオに移って財をなしました。マニラ麻は当時、船のロープに大量に使われていたのです。
しかしその後、日本は太平洋戦争に突入。
フィリピンにとけ込んで暮らしていた日本人たちは苦境に立たされました。そして家族や子孫は、その後もっと苦しい境遇に追いやられました。
ちょうど日系2世の方が、今は80~90歳代。戦前の繁栄期から、戦中戦後の極貧時代を経験し、這い上がるように今の日系社会を築いてきた人たちです。そして現在では、日系であると証明されれば日本で働くことができるようになり、再び日本人の血がプラスに転じるようになりました。
(今回行った文化交流で、習字をかく2年生の子どもたち)
(3・4年生の女の子は生け花に挑戦しました)
しかし、かといって、これで日系人はハッピーエンドかというと、そんなことはないようです。
自分たちのルーツを利用して日本で稼ぐのはいいけれど、それに甘んじて勉強しようとしない子、教育に関心を示さない親も多いのだとか。
彼らが生きていくのはフィリピンという国。だったら日系である利点を活かして、国づくりを牽引してほしい…と勝手ながら思ってしまいます。
実際、フィリピンの経済を引っ張っているのは中国系フィリピン人の人々。 顔立ちの美しさではスペイン系フィリピン人が活躍しています。そこにきて日系フィリピン人の利点は出稼ぎだけか?と思うと、とても悲しい。そしてそれは、日本人が日本人であることを、もしくは日本という国自体を誇りに思い切れないことと、どこか繋がっているように思えて仕方ありません。
だけどまだまだ、これからなんだよね。
ダバオ市に初めて日系人会の学校ができたのが1991年。そこから少しずつクラスを増やし、学年を増やし、先生を増やして、ようやく今の体制になったところです。
「架け橋」なんて言葉は甘ったるい。もっと地に足をつけて、自分が生きていく社会を、血を武器にして改善してほしい!………そんなことを、地に足がついていない私なんぞが心の隅でボソッとつぶやくのは卑怯でしょうか。
だけどそう思ってしまったからには、これからも彼らを応援していこうと思います。
何をどうやったらいいかな。
ワクワクできるような企画、考えます。
ps. カリナンの日系人会学校を訪問した時、歓迎を受けた様子はこちら↓でご覧いただけます。
http://youtu.be/KsXVwOU3H0c
(システムエラーで埋め込みができないため、リンクのみで失礼します)
途中でカメラの充電が切れてしまったため、とっても中途半端なビデオですが…雰囲気だけは伝わるかと^^;
私テレビ番組を制作しております
森下と申します。
番組の制作においてミンダナオ島の写真を探しておりましたところ、
こちらの記事を拝見しご連絡いたしました。
単刀直入ではございますが、お写真をお借りできないでしょうか?
※現在企画・リサーチ中ですので必ず使用するわけではないこともご了承ください
ひとまず要点だけ申し上げました。
是非ご検討いただき、お返事いただければ幸いです。
何卒よろしくお願いいたします。
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MAIL:kanako.mmmm☆gmail.com(☆→@)
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