この人、ローランド・シンブランさん。
非核フィリピン連合の議長で、フィリピン大学の教授。
マルコス政権の時代に3回も捕まって投獄された、筋金入りの社会活動家。
非核フィリピン連合は、バタアン原発を止める時に結成され、
それに成功した後は、核兵器の保管が疑われていた2つの米軍基地撤去運動に邁進した。
文字通り、「NO NUCLEAR」=「非核」の闘いに挑み続けているフィリピンの全国組織。
フィリピンの反原発運動は、地元であるバタアン半島から始まった。
だけど、それが大きく広がったのは、運動が戦略的に組織化されてからのこと。
シンブランさんはじめ都心で政権打倒に燃えていた人たちが、
バタアンの人たちに触発されて、全国的な組織づくりに乗り出した。
組織づくりをするには、まず、人を集めなきゃいけない。
問題意識のない人達に問題意識をもたせて、かつ、行動を促すこと。
そこには「無関心」という大きな壁がある。
それを打ち破るコツは?と尋ねると、
『まず彼らの問題を知ることだ』とシンブランさんは答えた。
彼らの問題…?
こっちの問題を知ってほしいからこそ、逆に向こうの問題を知るってこと…?
「普通の人は、自分たちの生活にしか関心がありません。だから彼らの生活上の問題を先に知り、それに我々が訴えたい問題を関連づけるのです」
…なるほど。
「まずは生活者の視点にレベルを合わせること。そして徐々に国レベル、世界レベルの話をしていくのです」
確かに、いきなり原発の話をされても、かつての私だって難しすぎてよく分からなかった。
一端「よく分からない」と思ってしまうと、難しいことは拒否したくなる。
すると、もし事故が起きたら自分チの食卓にも影響が及ぶかもしれないことや、
魚が買えなくなるかもしれないことや、こどもが外で遊べなくなるかもしれないことに、
想像が及ばなくなる。
だから、難しいことを理解してもらうときは、下から上へ。
足下から脳ミソに訴えかけるのが一番いい。
次にやり方。特に広報(啓蒙)の仕方はどうか。
シンブランさんは、そのコツを『クリエイティブにすること』と言った。
運動をクリエイティブにするとは…何?
よくよく聞くと、それは彼自身の学生運動の経験が発端だった。
たとえば「マルコス政権打倒!」と社会に訴えたい場合。
それを誰かが拡声器で叫んだのでは、速攻で捕まってしまう。
学生たちは、猫に服を着せて、そこにマジックで「マルコスFUCK!」と書きなぐり、一斉に放した。
(FUCKと書いたかどうかは知らないけれど。)
駆けつけた警官は大慌てになって、猫の背中を追いかけ回したそうな。
フィリピン人の発想は元来ユニークで面白い。
反核運動には全然関係ないけれど、囚人にマイケルジャクソンのダンスを踊らせて有名になったのも、
フィリピン・セブ島の刑務所だった。
全員が同じ動きをするという共同作業によって、以後、囚人同士の喧嘩が激減したという。
あと、芸術能力がやたら高いのもフィリピン人のスゴいところ。
反米軍基地運動の時には、高校生を対象にしたポスター大会を催したらしい。
その第一回優勝者の作品がこちら。
高校生が描いたなんて、到底信じられない…。
そして最後のコツが、『若い活動家を育てること』だ。
スゴいのは、反原発運動が始まった頃から「これは長期戦になる」といって
若手リーダーの育成プログラムをつくっていたということ。
どんなプログラムなのかまでは聞けなかったけれど、なんだかスゴそう。
なにせ、バタアン原発阻止が成功した後、そのニュースを聞いたインドネシア人の若者10人が
「修行させてくれ!」とやってきて、6ヶ月間の密着研修をしたらしい。
そしてその後インドネシアに帰って、学んだ通りに運動を展開したところ、
見事に成功してインドネシア原発ゼロを実現したんだとか。
これ、すごくないですか?
フィリピン人のスゴいところは他にも2つある。
ひとつは、ディベート重視の授業で、生徒の主体性を大事にしているところ。
学校には昔からディベートクラブというものがあるらしく、
授業以外でもワンヤワンヤと議論することを楽しんでいるのだとか。
もうひとつは、家族や友達の絆の強さ。
そしてそれに支えられた陽気さ。
悲しい時はみんなで泣き、楽しい時はみんなで踊る。
そうやって人々は多くのことを乗り越え、どんなに貧しくても逞しく生きている。
バタアン半島で反核運動をしている若手リーダーのエミリーさんに、
「原動力は何ですか?」と聞いてみた。
彼女は、何の迷いもなく「希望です」と即答した。
それで、思ったのです。
希望というのは、愛情によって支えられているものではないかしら、と。
家族への愛、仲間への愛、地域への愛、
そういったもののおかげで、人は希望を持ち続けることができるのではないかしら。
日本を、自分を、顧みる。
上にあげた3つのコツ+2つのポイントは、多分、日本人が一般的に苦手とするところなんじゃないか。
たとえば福井の場合。
反原発運動を唯一初期からやっていたのは共産党の人たちで、
彼らは党員以外の人たちに伝えることや、若手を育てることができなかったと聞く。
日本にも、昔から反原発だった人たちはたくさんいたのに、
その声はほとんど広がらないまま、「無関心」と「安全神話」だけが蔓延っていった。
だからといってフィリピンを絶賛しても仕方ないのだけれど。
ただ、「貧困」「汚職」「汚染」と汚いイメージが強かっただけに、
今回のフィリピンの旅は、私にとって目から鱗の連続だったのです。
一言でいえば、
胸を張って「フィリピン好きだー!」と言えるようになった。
フィリピンのいいところをちゃんと知ることができて、胸がスッキリしたのです。
次回は、だけどフィリピンもまだまだ勝利にはほど遠いんですよ、というお話。
闘いは続いている。
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