遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

作品モデルと舞台を訪ねる~夏目漱石「草枕」#2

2024年04月20日 | 人物

2章の舞台は峠の茶屋 Mapには「峠の茶屋」と「野出峠の茶屋」の2か所
どちらか特定できていない 旅の出発点は「内坪井旧居」 前者だろうか? 

雨が降り続く中 一休みしようと店先で声をかけるが誰も出て来ない
勝手に床几に腰かけていると 間もなく婆さんが姿を現す
その婆さんの身なりや立ち居振る舞いが気に入った 絵になる!
「御婆さん、ここをちょっと借りたよ」「はい、これはいっこう存じませんで」
「だいぶ降ったね」「あいにくな御天気で・・・」

ほぼ二人の会話だけ 地の文は殆ど無くて雰囲気がよく伝わって来る
婆さんに茶や菓子を馳走になっているうち 辺りの岩山などが見えだす
「いい具合に雨も晴れました・・・」
「ここから那古井(なこい)までは一里(4km)足たらずだったね」 
「旦那は湯治に御越しで 」「少し逗留しようかと思うが」・・・
「志保田(しほだ)さんと御聞きになればすぐわかります。
村のものもちで、湯治場だか、隠居所だかわかりません」

画家は画帳を開くがなかなか描けない そこへ馬子唄と鈴音が聞こえる
発句して画帳に書きつける 春風や惟然(いねん)が耳に馬の鈴 
気に入らず捻くりまわす 馬子唄や白髪も染めで暮るる春 
やがて馬子の源さんが現れ 婆さんと那古井の嬢様の昔話や噂話をする・・・
  
ここでMapから「那古井」を探す・・・無い! 漱石創造の固有名詞か?
左上隅に草枕温泉がある・・・昔は湯治場(とうじば)といった
そばに前田家別邸・・・婆さんが湯治場か、隠居所かわからないと言った所か?

「前田家別邸」でGoogle検索 新たに「漱石・草枕の里」サイトを発見!
フッターの年号が2007年 昔懐かしいフォームのサイトだ

前田案山子(かがし)・・・初めて知る名 面白そうなのでいずれ取り上げたい
「草枕」の場所やモデルの実名も書いてある 写真が載っているのもよい
ただし惜しむらくはページのリンクが分かりにくい
メインM(メニュー)「草枕交流館」→サイドM「草枕の歴史」→「前田家の人々」

那古井→小天(おあま) 那古井の宿→前田家別邸 志保田家→前田家 
白壁の家→前田家本邸 鏡が池→前田家第2別邸の庭池
志保田の老隠居→前田案山子(かがし) 
那古井の嬢様=那美→前田案山子の次女卓(ツナ)
馬子の源さん→丸山政平(まさへい) 

ここまで書いてあると 「草枕」のモデルや舞台の特定も8割方済んだ感じ
あと1,2回あれば終わるだろう というわけで今日はここまで
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

作品モデルと舞台を訪ねる~夏目漱石「草枕」#1

2024年04月19日 | 人物


モデルの実在人物探しや舞台探し・・・試行錯誤しながらやってゆく
1章から13章 予定では1回1章づつ ストーリーに沿って話を進める予定

1章に入る前に幾つかの予備知識を書く
・作品の時代背景:日露戦争(1904ー5/M37-38)の頃
・漱石の熊本在住時の小旅行経験が「草枕」の素材(略年譜の下線部分) 
<熊本時代の略年譜>
1896/M29:30歳:熊本市の五高(現・熊本大学)の英語講師として赴任
   中根鏡子と結婚 教授となる
1897/M30:31歳:友人・山川信次郎と熊本・小天(こあま)温泉へ旅行 
1898/M31:32歳:俳句結社「紫溟吟社」の主宰になる
1896/M32:33歳:長女・筆子誕生 
1900/M33:34歳:英国留学を命じられる
1903/M36:37歳:帰国する 五高教授辞任し一高・帝大の講師となる 
1906/M39年9月:「草枕」発表
主人公は漱石自身で 職業は画家

「山路を登りながら、こう考えた・・・」で始まる1章からスタート
1章は 漱石の詩歌論・絵画論・芸術論が中心 以下の引用文~は要約記述

~非人情ついでに この旅で出会う人物をすべて大自然の点景とみなし
感情移入せずに描いてみる~というあたりがポイントだろうか

1章の終わり頃 画家は山路ですれ違った馬子に休み処を訊ねる
~「ここらに休む所はないかね」
「もう十五丁(約1.5Km)行くと茶屋がありますよ。だいぶ濡れたね」~

~雨は満目の樹梢を揺かして四方より孤客に逼まる。非人情がちと強過ぎたようだ。~
1章の最後は原文のまま締めた・・・が ルビが無いと読めない!

文字ばかりだと草臥れるので ネットのビジュアル情報も参照しよう
 「夏目漱石の軌跡を巡る」」(冒頭の写真はこのサイトから借用)
 観光案内サイトだが舞台の場所の特定には役立ちそう

3つあるコースの内「草枕コース」を選ぶ
草枕冒頭の文章がある またページ最下段に「イラストマップ」掲載

spot01:峠の茶屋(公園)・・・この場所は「草枕」2章で出て来るので次回に
説明文に「友人の山川信次郎とともに・・・」とある
しかし 彼の名は最後まで一度も登場しない(と思う・・・見過ごしたかな)
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

ちょっと一休み

2024年04月18日 | 人物


新しいシリーズとして 小説などのモデルの実在人物探しを思いついた 
手始めに夏目漱石作の「草枕」から始めたい
ここには奈美さんという魅力的な女性が登場するからだ
他にも”兄さん” ”野武士” "馬子の源さん" ”志保田の隠居”・・・など
それらモデルになった人たちには 実在する人物がいるはずだ(と思う)
また できれば作品の舞台となった場所も特定したい

しかし 始めてみて意外とタイヘンなことがわかった
テーマを変えるかアプローチ方法を変えるか・・・再考して見たい
というわけで 今日はちょっと一休み 明日またお会いしましょう
[Rosey]

荷風を巡る人たち~星霜移り人は去り#4(最終回)

2024年04月17日 | 人物
 小堀四郎「人生とは」 1972

昨日は食べ物のことから小堀杏奴や鴎外に話が及んだ
そして それが荷風と阿部雪子が知り会うきっかけに繋がった
変人の一人暮らし老人・荷風を支えるネットワークがあった
それを知ったことが新たな成果だっといえようか



阿部雪子に関しては 既に書いた以上の情報は殆ど見つからなかった
ただ 一昨日のブログで書いたように
"相磯凌霜の本宅が現・大田区の池上本門寺の近くにあった" と知った
阿部雪子の家も現・大田区南千束だったはず・・・


 洗足池

2人が知り会いだったとは「日乗」の何処にも出て来ない
けれども2人は頻繁に市川の荷風の家や海神の相磯別邸を訪れている
行き帰りの電車に乗り合わせて話をしたとも想像できる
それより 荷風との話を通じて互いの存在を知っていた と思う方が自然か

1959/S34年4月30日 荷風は逝去した 享年79歳だった

 

通夜・葬儀は相磯(後列左から5番目)がすべて取り仕切って荷風宅で行われた
相磯は 荷風の死後に次の文章を執筆している・・・原文のまま

”お通夜の晩からお葬式にかけて、銀座の或る酒場の女が、
私が先生の愛人でしたと言わんばかりの素振りで、
群がる新聞や雑誌の記者に自分を売り込んでいる嫌らしさに引きかえ、
偏奇館時代から密かに通い続けていた某女が、
お通夜にもお葬式にもひっそりと誰とも口をきかないで、
つつましくお焼香だけをして帰っていった床しい後ろ姿に、
私は思わず目頭を熱くしてしまった"

残念ながら 阿部雪子の生年も没年も以後の消息も不明だった
しかし この相磯の筆による彼女の存在を知れば十分だろう
以上で 長かった荷風シリーズも終わりたい 
さて次は誰にしようか それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

荷風を巡る人たち~星霜移り人は去り#3

2024年04月16日 | 人物

   小堀杏奴       森 茉莉         森 志げ     小金井貴美子
  (森鴎外の次女)     (同左 長女)        (同左 妻)       (同左 妹)

「日乗」1944年/S19年1月1日の荷風の日記
この両3年食物のことにて忘れ難き人々の名を記す
相磯凌霜・小堀杏奴・杵屋五叟・・・(店の名もあるが略して個人のみとした)

というわけで今日は小堀杏奴の話を
小堀杏奴 1909/M42-1998/H10:随筆家 鴎外と志げとの次女
夫は小堀四郎 1902/M35-1998/H10:洋画家


小堀四郎「ツゥールの朝」 1928年

来書・訪問等 「日乗」にも杏奴らの名がかなり出て来る
といっても 夫妻が偏奇館で荷風と実際に会ったのは 1942/S17年の暮れ
夫妻は1人暮らしの荷風を心配 家事手伝いの人を探すことを友人に頼む

2月上旬「葛飾情話」の作曲家菅原明朗とバイオリニスト林龍作が来訪
"先生のお手伝いをする人が見つかりました 近々来るはずです"と林が話す
林龍作も菅原も小堀夫妻も パリへ遊学した仲間であり友人でもあった

林龍作 1897/M30ー1960/S35

杏奴は 龍作を"龍兄"と呼ぶほど慕い 龍作の妻もと子とも親友だった 
音楽家では龍兄 作家では太宰治 画家では佐伯祐三が大好きだった


佐伯祐三「テラスの広告」 1927

2月中旬 1人の女性が偏奇館を訪れる その名は"阿部雪子" 続きは明日! 
荷風は生涯を通して森鴎外に私淑した
簡潔にまとめた10分ほどの動画を紹介して今日は終わる


それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]