あすか塾 63
《野木メソッド》による鑑賞・批評
「ドッキリ(感性)」=感動の中心
「ハッキリ(知性)」=独自の視点
「スッキリ(悟性)」=普遍的な感慨へ
◎野木桃花主宰七月号「洗ひ髪」から
掌の貝にしんと暑さの鎮まれり
この掌の中の貝は、生きている貝か、もう中身のない貝殻か、どちらに解してもいいでしょう。暑い夏の浜にあっても、生きている貝の手触りは、どこかひんやりしていますね。海の命の温度ですね。それを「しんと暑さの鎮まれり」とされた表現が素晴らしいですね。中身のない貝殻だと解した場合でも、その白化した貝殻にはかつて生きていたことの尊厳(鎮もり)のようなものを感じますね。
隠沼に生くもののこゑ牛蛙
隠沼(こもりぬ)は堤や人の立ち入らない茂みなどに囲まれている沼で、沼という字のせいで泥状の印象がありますが、意外に澄んだ水が幽かに流れていたりします。体の大きい牛蛙の鳴き声は「ブオー、ブオー」という牛に似たもので、和名の由来にもなっています。その声は数キロメートル離れていても聞こえることもあるといいます。隠沼と牛蛙を「生くもののこゑ」という中七で結んで詠んだ句で、ひっそりと、しかし強かに生きている証しを響かせている命のさまを捉えた表現ですね。
高みへと声振り絞り巣立鳥
巣立ったばかりの小鳥が空の方を見上げるようにして高い声で鳴くさまを見ていると、これから自分の行動世界となる広い空への、憧憬と決意のようなものを感じてしまいます。それは人間の勝手な感情移入ですが、この句では、その様子を遠くから見守って応援しているような味わいがありますね。
この白き終の一花や牡丹寺
寺の名前の通り、牡丹がたくさん植えられているようです。その花の盛りを詠まず、盛りを過ぎて最後に咲いた一輪にスポットを当てて詠まれていて詩情がありますね。
◎ 「風韻集」七月号から 感銘秀句
春田道土にふれてはこゑをきく 宮坂市子
農業を生業とする人ならではの日常的なしぐさでしょうが、土と生きる深い感慨のある句ですね。
ふる里の大地に足を黄水仙 村上チヨ子
しっかり故郷の大地に根付いて生きている黄水仙に注ぐ作者の気持ちに、都会暮らしの自分は根無し草のようだなあ、という思いが感じられる句ですね。
霾ぐもり青きペンキで塗る扉 村田ひとみ
黄砂によって視界が茶色っぽく霞んでいる中で、一際鮮やかなペンキ塗りの洋館風の青が、とても印象深く、そこだけ爽やかな空気が流れているようですね。
ひとつづつ暮しの窓の灯の朧 柳沢初子
遠景で人家の窓のたくさんの灯を見たとき、その一つひとつに暮しがあるのだなーという感慨を湧くことがありますね。
鯉のぼりブルカをまとう母と子と 矢野忠男
ブルカは伝統的にイスラム世界で用いられる女性用のヴェールの一種ですね。その異文化と鯉のぼりという和風の景の取り合わせに心が動きますね。
揺り椅子に岳父イニシャル百千鳥 山尾かづひろ
岳父という古来のことばの響と、ローマ字のイニシャルの取り合わせが絶妙ですね。明治大正生まれの開化的なお舅様だったのでしょう。
入所する姉と揃ひの春セーター 吉野糸子
介護施設に入所される姉に寄り添うような表現がいいですね。
横浜や薔薇は離るる時匂ひ 安齋文則
安齋さんは福島の方で、あすか賞を受賞されて横浜でのあすか年度大会に参加されました。そのときの句でしょうか、繊細な感性が冴えていますね。
春遅遅と少し傾く五輪塔 磯部のり子
五輪塔の僅かな傾きと「春遅遅と」の上五の季語が、みごとに融和した表現ですね。
万歳のややこ春光握りしめ 稲葉晶子
嬰児の掌は指がまだ真直ぐには伸びず、いつも軽く握ったような形をしています。それを「万歳」「春光握りしめ」と詠みました。愛情あふれる句ですね。
霾や詰襟の首こそばゆし 大木典子
この感覚、実感として首すじに蘇りました。子供か孫の詰襟姿でしょうか。作者の愛情を感じる句ですね。
二人居て一人問答蜆汁 大澤游子
夫婦間の景でしょか。自分の言葉に相手が反応する前に、自分で応えてしまったのでしょう。たまにあるそんな場面を切り取って、ユーモラスですね。無口な夫君の様子も想像されます。
蟠りさらりと乗せて花筏 大本 尚
わだかまりを難しい漢字「蟠り」として、心の中にこだわりとなっている重苦しくいやな気分の塊のような感覚を表現。それを「さらり」と「流す」のではなく、花筏に乗せるという、どこか手の込んだ、意外に屈折した表現の技が冴えていますね。花筏は順調には流れないで、あちこちに澱みながら流れてゆきますから、逡巡しているような雰囲気がありますね。
山吹や亡妻との対話軽やかに 風見照夫
すでに他界されている妻との会話は、つまり独り言ということになりますが、それを「軽やかに」と表現されると、作者が呑みこんでいる思いの深さが、逆に読者の胸に迫りますね。
海光を集めてひらく黄水仙 加藤 健
海の色を集めて咲いた、という表現が独創的でいいですね。
観音の御手に夕映え初桜 金井玲子
観音様の、上げた方の手だけに、夕陽が消え残っている瞬間を表現して、それを初桜と取合せて、何か神々しさを感じる句ですね。
蓄音機に波打つ声や春暖炉 近藤悦子
レコードの声の波の表現で、春暖炉の暖かい空気感を捉えた句だと解せます。同時に年月の経ったレコード盤が少し歪んでいて、その年月の声の揺れとも解せる句ですね。
官女雛夜の帳に筆を執る 坂本美千子
雛飾りのある部屋か、それが見える自分の机がある部屋でしょうか。俳句の構想を練っているのでしょう。官女の役目の一つに書の読み聞かせや代筆がありました。その雰囲気も立ち上る表現ですね。
太郎冠者余寒の板を踏み鳴らす 鴫原さき子
狂言の舞台のまだ余寒の残る練習風景のようですね。板の独特の響と「余寒」の取り合わせが冴えていますね。太郎冠者は狂言の役柄の一つで、大名または主に対し従者として登場します。一般に主人より才気があり、知恵、行動力などにおいて主人をしのぐ者として演じられることもあります。従者が二人または三人の場合、中心となる者を太郎冠者、二番目を次郎冠者、三番目を三郎冠者といいます。慣用句として太郎冠者みたいというと、滑稽な、また、まぬけな様子をした者をさす意味で使われます。この句にはそんなユーモラスな雰囲気もありますね。
山畑の雨水溜りは蝌蚪の国 摂待信子
こんな小さな水溜りに蝌蚪が、という発見と感嘆の句ですね。「山畑の雨水」という自然の中の小さな命たちに寄り添う表現ですね。
卒業証書サリーの裾を翻し 高橋光友
留学生の指導者である作者の、やさしい眼差しを感じる句ですね。サリーは世界で最も美しい民族衣装と言われ、鮮やかな色彩の長い布を巧みに巻きつけて、美しいシルエットを作り出す衣装ですね。場が華やいだことでしょう。
初夏やひかりにことば見失ふ 高橋みどり
初夏の若緑の光溢れる景の美しさに、ことばを失ったのですね。ことばは無力だという失望感ではなく、その圧倒的な感動の方に気持ちがある表現ですね。
代掻きや眩しき水面追いかけて 服部一燈子
水面を追いかけているのは、もちろん、代掻きをしている人ですが、句の言葉としては書いていない「光」が見えます。光同士が追いかけっこをしているような煌めきを感じる句ですね。
◎ 「あすか集」七月号から 感銘好句
たんぽぽや色はいろいろランドセル 木佐美照子
たんぽぽは白一色ですが、軽やかに空に舞う軽快さを感じますね。その感覚を色とりどりの、跳ねるようなランドセル姿の子どもたちに負わせた巧みな表現ですね。
春コート車内の空気軽やかに 城戸妙子
春コートの纏う軽やかな雰囲気、重い冬のコートとの対比を読者に想起させる巧みな表現ですね。
葉桜の中の青空豊かなり 久住よね子
写真のフレーム効果のように、緑の葉桜の重なりによって切り取られた空の青が煌めくようですね。
陽のぬくみ土のぬくみの竹落葉 紺野英子
同語反復のリズムで、そこを歩いているような、暖かみのある表現ですね。
山吹や武士に差し出す花一輪 斉藤 勲
「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」(兼明親王)の和歌を踏まえた句ですね。
その和歌に因む太田道灌のエピソードで、道灌が鷹狩りの折、雨に降られ、蓑を借りようと民家に立ち寄ったところ、少女に山吹の花を手渡されて、その意を汲めず道灌は立腹して雨の中を帰ってしまいます。少女の真意は、山吹の花は七重八重と開くが、実はひとつとしてなることがないという和歌の知識を踏まえて、その「実の」を「蓑」にかけて、すみませんがお貸しできる蓑がないので、とても悲しいです、という言外の意味を込めた応答だったのですね。後日、近臣にその意を諭され、己の不勉強を恥じ、歌に目覚めたといいます。その逸話を踏まえた句ですね。
今年また桜詠みたしバスの旅 齋藤保子
毎年、家族や友人とバス旅行で桜を観にゆくのが慣例になっているのでしょうか。そういう物心ともにゆとりがあることが貴重な日々であることを、改めて噛みしめている句ですね。
子の文字の「入室禁止」青嵐 笹原孝子
成長期の、自我の目覚めた頃の、子供たちの行為としてよくあることですが、親としては拒絶されたような気持ちにもなりますね。下五の「青嵐」が成長の証のような効果がありますね。
この庭のどこが住処か青蜥蜴 須賀美代子
確かにその営巣の場所はわが庭には違いなのだが、それを突き止めるのは困難ですね。それを大らかにゆるしているような句ですね。
薄味の母の作りし木の芽和え 須貝一青
母も妻もない今、市販のものか、自分で作ってみたものの味との比較で、つくづく、その絶妙な「薄味」の美味しさが恋しく感じられているのですね。
新品の白靴で行く陶器市 鈴木 稔
自分の行為のようでもあり、愛妻の行為のことのようでもありますが、何か改まった気持ちで、陶器を見に行こうとしているのでしょう。
宍道湖の大粒そろふ蜆汁 砂川ハルエ
島根旅行で本場の蜆汁を味わった感動を詠んだ句ですね。どうか環境汚染の影響を受けず、その貴重な蜆がいつまでも採れますように。
窓閉めてなお夜蛙の沸騰す 関澤満喜枝
下五の「沸騰す」がいいですね。私の姉がかつて住んでいた所が田の近くで、夜、眠れないほどの大合唱を聞いたことがあり、まさに「沸騰す」でした。
子午線を日のわたりゆく仏生会 高野静子
人工衛星から俯瞰したような景の大きい句ですね。子午線をお日様が跨いでいくという表現ですね。
仏生会は釈迦が誕生したといわれる四月八日、すべての仏寺で行われる法会で、日本では花御堂の中央におく水盤の中で、小さい金銅の誕生仏の像の頭上に甘茶を灌ぐ祭り。元来はインド仏教徒の言い伝えで、釈迦は四方に周行すること七歩、左手をあげて天を指し、右手を下げて地を指し、天上天下唯我独尊と叫んだという,いわゆる八相成道(はちそうじようどう)の説があり、これを仏教徒共同の祭りとしたことに由来するそうです。子午線、仏生会を取合せて神秘的で壮大な句に仕立てましたね。
菜の花に埋もれて蝶と化す朝 高橋富佐子
自然と一体化したような気持ちを比喩的に詠んだすばらしい句ですね。
剪定やおもひの違ふ人と木と 滝浦幹一
剪定する人間と、される側の「おもひの違ふ」という視点に、植物の方の痛みに思いを寄せた、作者の優しさが顕われている句ですね。
花冷えやこわれそうなる昼の月 忠内真須美
花冷えを、消えてしまいそうな昼の月の薄さに喩えたのが、独創的ですね。
どの人もスマホかざして薔薇公園 立澤 楓
人々の行為に少し批判的なまなざしを感じる句ですね。撮ることと、鑑賞することは本質的に違う行為のように感じているようで、同感です。
春泥のしがみつきたる靴の底 千田アヤメ
春泥の擬人化の表現は、初めて読みました。跳ねて裾を汚す泥が、なにやら可愛らしく感じられます。
花見頃洗濯物のよく乾き 坪井久美子
空が晴れて、空気がからっと乾いた爽やかな花見どきの爽快感が素直に表現された句ですね。
だぶだぶの制服見せ来入学児 中坪さち子
「だぶだぶの制服」だけだったら、大人の目線でながめているだけになりますが、それを「見せ来」という行為の表現にして、作者のやさしい眼差しが前面に出る表現になりましたね。
ひとり居やかざらぬ庭の著我の花 成田眞啓
著我の花は、人里近くで見かけることのできるありふれた花の一つですね。素朴な可憐さがあり、和風の庭によく合う雰囲気を持っています。この句はそれを「かざらぬ」と一言で表現しました。一人居を慰めてくれる花ですね。
朧夜や座敷童の話聞く 西島しず子
座敷童伝承のある屋敷か町で、その伝承話を聞いたのでしょうか。「朧夜」がその雰囲気にぴったりですね。
外つ人の捩り鉢巻三社祭 沼倉新二
わたしも一度だけ三社祭を見に行ったことがありますが、外国人が多く見物していて、人気があることがよく解りました。この句は見ているだけでなく参加している景ですね。
をさなごのひしやくあやふし花まつり 乗松トシ子
大人の真似をしてか、勧められてなのか、子どもには大きすぎる柄杓で甘茶を小さな仏像に注ごうとしている手つきを、はらはらしながら温かい眼差しで見守っている景が浮かびますね。因みに「花まつり」は祖先神で農事神でもある山の神を祀る際、花が一種の依代として用いられることから、花で神や祖先を祀る民間習俗に仏教行事の灌仏会が習合して「花まつり」になったものですね。
高齢化手足切られし桜かな 浜野 杏
老木の桜の大きい枝が剪定されているのを見かけますね。高齢になって手足が不自由になってきた自分と重ねて感情移入している句で、胸に沁みますね。
余呉の湖羽衣伝説緑濃く 林 和子
余呉湖(よごのうみ)は、滋賀県長浜市にある湖。「大江」(琵琶湖)に対して「伊香小江(いかごのおえ)と称されたほか、湖面が穏やかなことから「鏡湖」とも呼ばれていますね。羽衣伝説の像が湖畔にありますが、こんな伝承があります。昔、近江国余呉の湖に、織女が降りて水浴びをしていると、土地の男が通りかかり、脱いであった天の衣を隠してしまった。織女は天に帰れず、やがて男の妻になった。織女は子供を産んだのちも、天に帰りたい気持ちは失せず、声を忍んで泣いていた。男が出掛けている間に、子どもが父の隠した天の衣を母に渡したので、織女は喜び、衣をまとって飛んでいった。「私はこういう身だから、簡単には遭えないが七月七日はこの湖で水遊びをしましょう。その日なら会えますよ。」そう母は子どもに泣きながら約束したという話ですね。織女、すなわち織姫が水浴びを行っていたのが余呉湖だったわけです。余呉湖の羽衣伝説と銀河の織女伝説は、この地でこのように繋がっていたのですね。
粋で売り粋で買うなり夜店かな 平野信士
夜店はお祭り気分の特別な雰囲気がありますね。その楽しげな景が浮かぶ句ですね。
カラフルなランドセル背に入学児 曲尾初生
昔は赤と黒しかなかったランドセルですが、最近は色も形も多用なランドセルを見かけるようになりました。それが朝の登校時に勢ぞろいしているさまは華やかですね。
ざぶざぶと朝の洗濯水温む 幕田涼代
洗濯機は年中稼働していますが、「水温む」季節にはその音まで違って聞こえます。この句はまるで手洗いをしているような音を感じますね。
花重し風に踏ん張る八重桜 増田綾子
一重ではなく、花弁が多重に重なって咲く八重桜の枝は、その重みで少し垂れて見えます。「風に踏ん張る」と擬人化したような表現で、その質量感が伝わりますね。
園児らは豆画伯なり薔薇公園 水村礼子
園児たちが薔薇公園で写生をしているようです。中には大人顔まけの技量の子がいたりして、思わず足を止めて見入ったのでしょうか。
桃色の月見草とやあどけなし 緑川みどり
桃色の月見草もあるのでしょうか。見たことはありませんが、「あどけない」と作者は感じたようです。見てみたいですね。
馬酔木の花白き鈴の音響きあふ 望月都子
馬酔木の花は白い鈴が、まさに「鈴生り」状態で咲きますね。余談ですが、その可憐さとは裏腹に「馬酔木」と書き、葉に有毒成分が含まれることから、馬が葉を食べると毒に当たって苦しみ、酔ってふらつくようになる木というところから「馬酔木」と書くようになったそうです。酔うのは鈴の音だけにしておきましょう。
芽吹かんと光あつめて老大樹 安蔵けい子
もう枯れたのか、と思わせる様子の老大樹が、思いがけず芽吹いていたのですね。それを寿ぐように「光あつめて」と表現したのがいいですね。まるで陽光が声援を送っているかのようです。
母乳飲むやうに縋りて岩清水 内城邦彦
手をかける取っ掛かりの凹凸がある岩の、その岩肌を流れる岩清水なのでしょう。まるで嬰児が母乳を飲むような気持ちで喉を潤したという感慨の句ですね。
陽炎や火の見櫓のねじれおり 大谷 巌
垂直のものがゆらゆら揺れて歪んで見えるほどの、熱気の中の陽炎ですね。熱気が伝わります。
木洩れ日を煌めかしつつ若楓 大竹久子
若楓ですから葉の茂りがまだ密ではなく、木洩れ日の面積が大きいのでしょう。それを「煌めかしつつ」と表現したのがいいですね。※「煌めかしつつ」は「煌めかせつつ」が正しい言い方ですね。
点綴の早苗そよぐをまだ知らず 小川たか子
「点綴」は「てんてつ」また「てんせつ」と読み、
一つ一つを綴り合わせること、または物がほどよく散らばっているさまを表わす言葉ですね。早苗の状態をこういう言葉で表現して、教養がありますね。苗がまだ小さくと風にもそよがないでいる愛らしさが見えます。
母の日や児らの持ち寄る貯金箱 小澤民枝
仲の良い母子の姿が浮かぶ句ですね。兄弟姉妹が多いと結構な額になるでしょうが、さて、どんなものを贈って祝ってくれたのでしょう。
休ませていた糠味噌にまず胡瓜 柏木喜代子
糠味噌は生きていますので、酷使すると疲れるので休ませよう、という擬人化した表現がいいですね。
師の筆の「敬天愛人」卒業す 金子きよ
書道の漢字の四字熟語の手本はたくさんありますが、作者は師の書くその「啓天愛人」が、師の人柄が滲み出ているようで大好きだったのですね。
この言葉は漢詩や箴言ではなく、明治時代の啓蒙思想家、中村正直の造語で、キリスト教の「神」を儒教の「天」によって理解しようと試みた言葉だそうです。西郷隆盛の「南洲翁遺訓」にも出てくる言葉です。次はその抜粋です。
「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」
(現代語訳)
「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」
さみどりや祝いの膳に初蕨 神尾優子
初蕨を「さみどり」と、その色合いで愛でているような表現がいいですね。
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