履 歴 稿 紫 影子
北海道似湾編
函開け大将 4の3
雨の中を家に駆け込んだ私が、このことを母に話をすると、「義章、お前それをやれるか、なかなか辛いと思うぞ。」と母は言ったのだが、私には自信が持てたので、「お母さん大丈夫だよ、俺はやるから。」と私が言うと、「そうか、そんならおやり、それにしてもお前に三円も月給をくれるのかネエ。」と言って、母は喜んで居た。
やがて、臨時集配人としての第一日を迎えた。その日朝食をすました私は、「ご苦労じゃな。」と言って、玄関まで見送ってくれた母へ、「行ってきます。」と元気な声を残して、郵便局へ初の出勤をした。
「お早うご座居ます。」と、窓口から挨拶をすると、「ヤアお早う」と笑顔で迎えてくれた閑一さんが、開函用の鍵と朱で、〒のマークを表に表示をした大きい革製の黒い鞄を私に渡して「鍵を落とすと大変だから、鞄の中へ入れて行けよ。」と注意をしてくれた。
教わったように、開函用の鍵を鞄に入れて、「行って来ます」と郵便局を出た私は、郵便函のある市街地へ急いだ。
似湾村(現在は穂別町の一部になって居る)は、北方の十勝方面から、南の太平洋岸へ走って居る東西二つの山脈の間を、悠久瀲灔と流れて居る、鵡川川の流域に在って和人六に対する愛奴四という割合で構成をして居る、畑作主体の純農村であった。
似湾村を流れて居る鵡川川は、その突端が、紙の都・苫小牧市の沼ノ端まで走って居る西側の山脈に添ってその山裾を隣村の生べつ村へ流れ込んで居た。そして郵便局や市街地は、その突端が太平洋岸まで走って居る東側の山脈添に在って、その山裾までは五十米とは離れて居なかった。
私の行かんとする市街への道は、学校の坂を降って直線の道を行くのであったが、この道路は遠く十勝地方にまで延びて居る道であった、そして学校の坂を降ってからは、右側に太平洋岸まで走って居る山脈の山裾が二十米程の所に在った。
市街地と言っても、似湾沢へ曲がる丁字路の所から、北方へ三百米程の区間に、三十戸程の家屋が、道路の両側に建って居るに過ぎなかった。従って、軒を並べた家もあればポツンと一戸建の家も在って、所々に野菜畑があった。
この市街地と称した所には、商店が六軒、旅館業者が三軒(内一軒は駅逓所であった)、戸長役場の仮庁舎(仏教の説教所を賃貸して改造をしたもの)、病院(村医であった)、巡査駐在所、理髪店等があった。そして商店は、東側に雑貨を売る店が二軒と菓子を造って売る店が一軒あった。また西側には魚屋と薬屋が各一軒と荒物・雑貨・呉服と言ったように大きく商って居た山岸さんの店があった。
旅館は3軒が共に西側に在って、神社前に一軒、そして市街地の略中央に在った病院の北隣りに一軒在って、残る一軒の駅逓所は、山岸さんの店の隣りに、巡査駐在所と向合って市街地の最北端に在った。