aya の寫眞日記

写真をメインにしております。3GB 2006/04/08

履歴稿 北海道似湾編  吹 雪 10の1

2024-11-03 18:56:02 | 履歴稿
IMGR081-12
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹 雪 10の1
 
 四方の山々が黄褐色に、或は紅に色づき始めた頃のことであったが、春のあの日と同じように、校長先生に引率をされて、全校の生徒が裏山へ椎茸狩りに行った。
 
 その日は、日本晴の空が高く澄きって、山頂は丈伸した草に息切れがする程に暖かくて、小鳥の群が春のそれと同じように枝から枝へと囀って居た。
 
 私は保君と二人で、楢の木の倒木を次から次と椎茸を探し求めて歩いたのだが、椎茸が春と同じ木に生えて居るので、その日は私にも容易に取れた。
 
 そうした私と保君の左の手には、椎茸を数珠なりに突刺した笹が、次々と数を増していって、校長先生の集れの号令を聞いた時には、お互の手には十本程を持って居た。
 
 
 
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 それは、春の時と同じであったが、全生徒が校長先生の声に合して唱歌を歌いながら、老樹の枝でキョトンとした恰好でそうした私達の列へ愛嬌を振蒔いて居る剽軽者の栗鼠や、枝から枝を、囀りながら飛び廻って居る小鳥の群を楽しみながら山を降ったのであったが、その途中で「オイ保君よ、俺なあ春の時よりも今日の椎茸狩がとても面白かったわ。」と私は言ったのであったが、その時の保君は、「俺はなぁ、毎年のことだから、春でも秋でも同じよ、だからそんなに面白いとは思わないよ、それでもよ、義章さんにしてみれば珍らしいんだから可成り面白いんだべな、たがなぁ、もうすぐ冬が来るぞ、暖かい所から来たんだから義章さんは屹度吃驚するぞ。へこたれるなよ。雪はなぁ、毎日のようにどんどん降るぜ、そして山の大木がバリバリ音を立てて裂ける程にきつく凍れるぞ。それからなぁ、おっかない吹雪があるぞ、ピュッピュッと唸る風に吹雪いて一寸先が見えなくなるぜ、そうしてなぁ、北海道では吹雪で死ぬ人が沢山あるんだぞ。」と、身振り手振りで冬の厳しさを私に教えてくれた。
 
 
 
IMGR081-10
 
 併しその時の私は「ウンそうか。」と、尤もらしく頷いて聞いて居たのであったが、内心では「何を言って居るんだい、大袈裟な、おどかすのもほどほどにしろよ、そうだろう、お前達がそうした冬を何年も越て来てるじゃないか、だから俺だって平気だい」とうそぶいて居たものであったが、やがって保君が言ったように、その厳しい冬が足早にやって来て、白鷗が乱舞をするような降雪の日が続いて、一米に近い積雪が四辺の山野を白一色に塗り潰してしまった。
 


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履歴稿 北海道似湾編  函開け大将4の4

2024-10-26 15:36:46 | 履歴稿
IMGR081-17
 
履 歴 稿  紫 影子 
 
北海道似湾編
 函開け大将4の4
 
 現在では既に姿を消してその影すらも無いと思うが、当時の郵便函と言うのは、その高さが五十糎程そして幅が四十糎程であって厚さが三十糎程の函を柱に取付けてあったものであった。
 
 山岸さんの店の前の柱に取付て在った、郵便函の開函を、閑一さんの指示どおりにすまして第一日を無事に終った私は、その翌日から、雨の日も、そして風の日も、染飛白の和服姿に下駄履で大きな鞄を右の肩から左の腰にぶら下げて市街地へ通ったものであった。
 
 私が郵便函の開函で市街地へ往復をする時が、時間的には全校生徒の登校中と言う時刻であったので、当然途中で逢うのであったが、それ等の生徒と行き逢うのが一寸気恥しい思いをしたのだが、そうしたことも、一週間程で私は平気になった。
 
 
 
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 やがて、初の給料日が来た。
 
 「それ、義章さん。」と六枚の五十銭銀貨を閑一さんから手渡された時には、とても筆舌には尽せない程に、私は嬉しかった。
 
閑一さんから貰った、六枚の五十銭銀貨をしっかと握って、家に駈け戻った私は、「お母さん、給料貰って来たよ。」と、玄関から叫んだものであったが、母は私が手渡した六枚の五十銭銀貨を、しばらく見つめて居たが、やがて母が、「ホー、義章沢山貰って来てくれたネェ、どうも有難うよ。」と、とても喜んでくれた時の笑顔が、未だに私の印象に残って居る。
 
 私はこの開函を専問とした臨時集配人を、尋常科の六年を卒業するまで続けたが、いつとはなしに、市街地の人々から”箱分け大将”と言う、愛称で呼ばれるようになって居た。
 
 
 
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履歴稿 北海道似湾編  函開け大将 4の3

2024-10-26 15:32:34 | 履歴稿
IMGR081-22
 
履 歴 稿  紫 影子  
 
北海道似湾編
 函開け大将 4の3
 
 雨の中を家に駆け込んだ私が、このことを母に話をすると、「義章、お前それをやれるか、なかなか辛いと思うぞ。」と母は言ったのだが、私には自信が持てたので、「お母さん大丈夫だよ、俺はやるから。」と私が言うと、「そうか、そんならおやり、それにしてもお前に三円も月給をくれるのかネエ。」と言って、母は喜んで居た。
 
 やがて、臨時集配人としての第一日を迎えた。その日朝食をすました私は、「ご苦労じゃな。」と言って、玄関まで見送ってくれた母へ、「行ってきます。」と元気な声を残して、郵便局へ初の出勤をした。
 
 「お早うご座居ます。」と、窓口から挨拶をすると、「ヤアお早う」と笑顔で迎えてくれた閑一さんが、開函用の鍵と朱で、〒のマークを表に表示をした大きい革製の黒い鞄を私に渡して「鍵を落とすと大変だから、鞄の中へ入れて行けよ。」と注意をしてくれた。
 
 
 
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 教わったように、開函用の鍵を鞄に入れて、「行って来ます」と郵便局を出た私は、郵便函のある市街地へ急いだ。
似湾村(現在は穂別町の一部になって居る)は、北方の十勝方面から、南の太平洋岸へ走って居る東西二つの山脈の間を、悠久瀲灔と流れて居る、鵡川川の流域に在って和人六に対する愛奴四という割合で構成をして居る、畑作主体の純農村であった。
 似湾村を流れて居る鵡川川は、その突端が、紙の都・苫小牧市の沼ノ端まで走って居る西側の山脈に添ってその山裾を隣村の生べつ村へ流れ込んで居た。そして郵便局や市街地は、その突端が太平洋岸まで走って居る東側の山脈添に在って、その山裾までは五十米とは離れて居なかった。
 
 私の行かんとする市街への道は、学校の坂を降って直線の道を行くのであったが、この道路は遠く十勝地方にまで延びて居る道であった、そして学校の坂を降ってからは、右側に太平洋岸まで走って居る山脈の山裾が二十米程の所に在った。
 市街地と言っても、似湾沢へ曲がる丁字路の所から、北方へ三百米程の区間に、三十戸程の家屋が、道路の両側に建って居るに過ぎなかった。従って、軒を並べた家もあればポツンと一戸建の家も在って、所々に野菜畑があった。
 
 
 
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 この市街地と称した所には、商店が六軒、旅館業者が三軒(内一軒は駅逓所であった)、戸長役場の仮庁舎(仏教の説教所を賃貸して改造をしたもの)、病院(村医であった)、巡査駐在所、理髪店等があった。そして商店は、東側に雑貨を売る店が二軒と菓子を造って売る店が一軒あった。また西側には魚屋と薬屋が各一軒と荒物・雑貨・呉服と言ったように大きく商って居た山岸さんの店があった。
 
 旅館は3軒が共に西側に在って、神社前に一軒、そして市街地の略中央に在った病院の北隣りに一軒在って、残る一軒の駅逓所は、山岸さんの店の隣りに、巡査駐在所と向合って市街地の最北端に在った。
 
 

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履歴稿 北海道似湾編 函開け大将 4の2

2024-10-26 15:28:14 | 履歴稿
 
IMGR079-24
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 函開け大将 4の2
 
 似湾へ移住してからの私は、学校の授業が終って家に帰ると、必ず毎日のように遊びに来る保君と家の前とそして横にあった畑に、母が出て居る時には、二人でその畑仕事を手伝ったり、また翌日の炊事に使う薪を、矢張り二人で元気に割って居たのだが、家が貧乏になったと言うことについては、全然無頓着であった。
 
 それは、似湾沢の事件があった暑中休暇中のことであったが、休暇も余すところが残り少なくなった或る雨降りの日の昼下りのことであった。
私が、「義章、葉書を三枚買っておいで」と母に言いつかったので、「傘をさしておいで」と言うのを、母から貰った一銭五厘の金を掴んでその儘向いの郵便局へ走ったのであったが、その時郵便局には、只一人きりの事務員であった池田の閑一さんが、「どうしたんだ、雨が降って居るのに傘もささないで」と言ったので、「葉書買いに来たんだよ、三枚おくれ。」と、掴んで来た一銭五厘の金を窓口から閑一さんへ手渡した。
すると閑一さんはニコニコと笑いながら、入念に数えた三枚の葉書を「それ三枚。」と言って、窓口から出してくれたので、「さようなら」と言って、帰ろうとすると「義章さん、一寸待て」と私を呼び止めて、「どうだ、簡単な仕事なんだけど、一つ臨時集配人をやって見ないか。」と閑一さんが私に勧めた。
 
 
 
IMGR081-01
 
 その時「臨時集配人って一体どんな仕事をするの。」と私は勤務内容の説明を乞うた。
 
 すると「うん、仕事は大したこと無いんだよ、毎朝なぁ、八時までに市街地へ行ってよ、山岸さんの店の前にかかって居る郵便函を開けて、中に這入って居る手紙や葉書を全部鞄に入れて此処へ持って帰ればそれで終わりだ。月給は三円やるよ。」と閑一さんは教えてくれた。
郵便局から市街地までは、約1粁2・3百米程の道程であったから、郵便函を開けて、中の郵便物を持って帰るだけの仕事であってみれば、登校前の一往復は大したことじゃないと思ったので、「閑一さん、お願いします、やらして下さい」と言って、私は即座に採用をして貰ったのであった。
 
 「よし、そうしたらなぁ、九月一日から毎朝七時に此処へ来るんだぞ、そうすれば俺が鞄と鍵をやるから、それを持って函を開けてくるんだ、判ったな。」と閑一さんに言われて「ハイ」と頷いた私は郵便局を出た。
 


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履歴稿 北海道似湾編 函開け大将 4の1

2024-10-26 15:21:39 | 履歴稿
 
IMGR079-03
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 函開け大将 4の1
 
 私の父は、似湾へ引越た年の四月十七日付で似湾外三ケ村戸長役場の臨時筆生に採用をされて、その戸長役場へ勤務をすることになった。
 そのことを父の履歴稿には、
 一、明治四十五年四月十七日、勇払郡似湾外三ケ村戸長役場臨時筆生を命ず。
 日給五十三銭給与。
と記録をしてあるが、それはこの発令をされた夜のことであった。
 
「給料取りをやるのなら何も北海道へくることなかったなぁ」と、その辞令を母に見せて嘆息をして居た父へ、「今更そんなことを言っても仕方が無いのだから、何糞と言う気持ちになって頑張って下さい。」と、母が激励をして居るのを私は傍で聞いたのだが、その時の私は、未だ十歳と言う少年でこそあったが、嘆息を漏す父の心境が判るような気がした。
と言うことは、嘗て丸亀時代の第三の家で”三年心棒をすれば、必ず成功をする”と巧言を弄して移民渡道を誘った由佐校長の口車に乗ったことが、無念でたまらないのだろうと思ったからであった。
 
 
 
IMGR079-19
 
 その当時の父の履歴稿には、
 一、明治四十五年五月十三日、勇払郡似湾外三ケ村戸長役場筆生を命ず。
 月俸十六円給与(北海道室蘭支庁)
 一、同年同月同日、村費雇を命ず。
 月手当二円を給与す。(似湾外三ケ村戸長役場)
と、記録をしてあるのだが、私達の家族は、父の本俸と村費を含めた一ケ月十八円と言う薄給で生活をして行かなければならない惨めな境遇に転落してしまったのであった。
 


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