心屋さんの「嫌われてもいい」についての記事を書き、多くの皆さんにも読んでいただきました。
この「嫌われる」ということに、改めてある気づきを得る出来事がありました。
先日、息子の幼稚園の行事で園まで出かけたところ、ある女の子のママに声をかけられました。仮にAちゃんとします。
年少の時も同じクラスだったAちゃんですが、真面目で頑張り屋さんタイプの彼女とおちゃらけ担当の息子との接点は普段ほとんどありません。
「この前ね、年中にもなったんだし、Aに『好きな男の子いないの?』って聞いたのよ。そしたらね、少し黙ってたんだけど、恥ずかしそうに『○○くん(うちの息子)。だって優しいもん』なんて話してたよ」
「えーーーっ、それホント?むしろ、Aちゃんには嫌われてるんじゃないかって思ってたのよ」
「それはないよ。ツンデレなだけだよ」
私としては、まさに「それ、ないわ!」の境地です。
その理由は、父親参観の時に夫が撮影した映像にさかのぼります。円座になってリズムに合わせてお遊戯や歌をお父さんに披露する場面。Aちゃんと息子は隣同士。目立ちたがり屋の息子は前に出たいばっかりに、隣のAちゃんの邪魔をする格好に。
「もう、やだ」「あっち行ってよ」「ぶつからないでよ」
と、Aちゃんは険しい表情。
うん、そうだよね。ごめんね。邪魔だよね。母の心境はまさにこれてす。
で、
「あ、Aちゃんは息子のこと嫌いだろうな。イヤなことするから嫌いに違いないよな」
と一つの固定観念ができあがります。
その後も、息子とAちゃんについて別の女の子Bちゃんから情報が。
「わたし。Aちゃんと仲良しなんだ。でも、Aちゃんが○○君(息子)に『あそぼ』って言うの聞いたことない。仲良くないんだよね」
うん、そうなの、息子ね、Aちゃんに嫌われているからね。
そこでまた、息子は「嫌われている」という観念が強化されます。
でも、肝心要のAちゃんの本当の気持ちがどうかは、知らない。知らないのに、私は彼女の気持ちを勝手に想像していたのです。
でも、Aちゃんの心の中は真逆でした。息子の事を「好き」と感じてくれていたという事実です。
Aちゃんは、私に大切な事を教えてくれました。
○○すると嫌われる。
○○だから嫌われる。
○○しないと嫌われる。
この法則を使って私も息子を叱ることがありますが、これ本当に本当なのか?ということです。そう思っているのは私の思い込みなんじゃないのか?ということです。
これまでずっと、多かれ少なかれ、自分自身にそんな観念を注いできた気がします。
自分の意見を言うと嫌われる。
迷惑かけたら嫌われる。
人に合わせないと嫌われる。
その同じ見方を息子に植えつけてきたということです。そのほとんどが、息子の魅力を消火するおまじないになっていたかもしれないということです。
で、ね。
子供の方が、もっとおおらかに人を見ているという事実がありました。嫌な思いをさせられたり、喧嘩をしても、別にそれが嫌いな理由に必ずしもならないということ。
さらに言えば、のびのびと自分を出している人を「好き」と感じられる心を子供は持っているということ。時々嫌いになっても、時々見せてくれる「優しさ」をきちんと受けとってくれてるということ。大人みたいに簡単にレッテルを貼ったりしないということ。
これは、私にとって、まさに奇跡のような着想でした。
この事実を逆手にとって言えるのは、
メールの返信が早い(自分も急かされる)から嫌われることもある。
自分の意見をひっこめて(信頼できないという理由で)嫌われることもある。
人を褒めてばかりで(わざとらしい人という理由で)嫌われることもある。
って事ですよ。
嫌われないようにしたことが、もしかして、嫌われたり、軽く見られたり、どうでもいい人にされる理由になる可能性だってあるということです。少なくとも、その行為は、相手の中に、本物の「好き」を芽生えさせることはない気がします。
もう、それがわかったら、なんだかバカバカしくて。
嫌われないためにしたことが、いかに無駄なあがきだったかということです。このままで、あるがままで良かったんじゃんということです。
こうなると、もう、本当に「嫌われてもいい」になるんです。どうしたって嫌われる理由がわからないなら、そりゃ、もう、嫌う人には嫌っていただきましょう、の境地です。
(多分、続きます)
photo by pakutaso.com
この「嫌われる」ということに、改めてある気づきを得る出来事がありました。
先日、息子の幼稚園の行事で園まで出かけたところ、ある女の子のママに声をかけられました。仮にAちゃんとします。
年少の時も同じクラスだったAちゃんですが、真面目で頑張り屋さんタイプの彼女とおちゃらけ担当の息子との接点は普段ほとんどありません。
「この前ね、年中にもなったんだし、Aに『好きな男の子いないの?』って聞いたのよ。そしたらね、少し黙ってたんだけど、恥ずかしそうに『○○くん(うちの息子)。だって優しいもん』なんて話してたよ」
「えーーーっ、それホント?むしろ、Aちゃんには嫌われてるんじゃないかって思ってたのよ」
「それはないよ。ツンデレなだけだよ」
私としては、まさに「それ、ないわ!」の境地です。
その理由は、父親参観の時に夫が撮影した映像にさかのぼります。円座になってリズムに合わせてお遊戯や歌をお父さんに披露する場面。Aちゃんと息子は隣同士。目立ちたがり屋の息子は前に出たいばっかりに、隣のAちゃんの邪魔をする格好に。
「もう、やだ」「あっち行ってよ」「ぶつからないでよ」
と、Aちゃんは険しい表情。
うん、そうだよね。ごめんね。邪魔だよね。母の心境はまさにこれてす。
で、
「あ、Aちゃんは息子のこと嫌いだろうな。イヤなことするから嫌いに違いないよな」
と一つの固定観念ができあがります。
その後も、息子とAちゃんについて別の女の子Bちゃんから情報が。
「わたし。Aちゃんと仲良しなんだ。でも、Aちゃんが○○君(息子)に『あそぼ』って言うの聞いたことない。仲良くないんだよね」
うん、そうなの、息子ね、Aちゃんに嫌われているからね。
そこでまた、息子は「嫌われている」という観念が強化されます。
でも、肝心要のAちゃんの本当の気持ちがどうかは、知らない。知らないのに、私は彼女の気持ちを勝手に想像していたのです。
でも、Aちゃんの心の中は真逆でした。息子の事を「好き」と感じてくれていたという事実です。
Aちゃんは、私に大切な事を教えてくれました。
○○すると嫌われる。
○○だから嫌われる。
○○しないと嫌われる。
この法則を使って私も息子を叱ることがありますが、これ本当に本当なのか?ということです。そう思っているのは私の思い込みなんじゃないのか?ということです。
これまでずっと、多かれ少なかれ、自分自身にそんな観念を注いできた気がします。
自分の意見を言うと嫌われる。
迷惑かけたら嫌われる。
人に合わせないと嫌われる。
その同じ見方を息子に植えつけてきたということです。そのほとんどが、息子の魅力を消火するおまじないになっていたかもしれないということです。
で、ね。
子供の方が、もっとおおらかに人を見ているという事実がありました。嫌な思いをさせられたり、喧嘩をしても、別にそれが嫌いな理由に必ずしもならないということ。
さらに言えば、のびのびと自分を出している人を「好き」と感じられる心を子供は持っているということ。時々嫌いになっても、時々見せてくれる「優しさ」をきちんと受けとってくれてるということ。大人みたいに簡単にレッテルを貼ったりしないということ。
これは、私にとって、まさに奇跡のような着想でした。
この事実を逆手にとって言えるのは、
メールの返信が早い(自分も急かされる)から嫌われることもある。
自分の意見をひっこめて(信頼できないという理由で)嫌われることもある。
人を褒めてばかりで(わざとらしい人という理由で)嫌われることもある。
って事ですよ。
嫌われないようにしたことが、もしかして、嫌われたり、軽く見られたり、どうでもいい人にされる理由になる可能性だってあるということです。少なくとも、その行為は、相手の中に、本物の「好き」を芽生えさせることはない気がします。
もう、それがわかったら、なんだかバカバカしくて。
嫌われないためにしたことが、いかに無駄なあがきだったかということです。このままで、あるがままで良かったんじゃんということです。
こうなると、もう、本当に「嫌われてもいい」になるんです。どうしたって嫌われる理由がわからないなら、そりゃ、もう、嫌う人には嫌っていただきましょう、の境地です。
(多分、続きます)
photo by pakutaso.com