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かつて、二十代の頃に記者の仕事をしていた街を、夫と息子と三人で初めて歩いた。
記者の先輩後輩であり、言うなればライバルだった夫と私は、この街を仲良く歩いた記憶などない。
少なくとも、私の方は、この街にいた頃、いつも緊張していた。青白い顔をして、やせっぽっちで、身体のどこかにいつも力が入っていた。
夫は、私よりもずっとタフで、記者向きだったけれど、でもそんな夫でも新卒後の初任地の生活は交感神経ばかりを酷使する日々だったはずだ。
それが今は、息子を挟んで、二人とも、どこにでもいる、少々くたびれたお父さんとお母さんの顔をして、かつて必死にあがいた街を、ダラダラと歩いている。
二人で一緒に入ったことはないけれど、それぞれで入ったことのあるお店で昼食をとったり、詰めていた記者クラブのあった警察署の前を通りかかってもみた。
なくなった店もあれば、当時のままの店もある。
懐かしい味や、街ゆく人の訛り言葉に夫のテンションがにわかに上がる。
私は…
うーん、なんでだろう。
感傷に浸ることがちっともできない。拍子抜けするくらいに、何にも感じない。
過去の、悲しい、辛い出来事の、感情の部分がまるで今の自分とは切り離されてしまったみたいだ。
あれほど、神経を削り、強い記憶の数々を心に刻んだ街なのに、今は、ただ過去に住んだことのある街という以上の意味を私に強いてこない。
記者をやめて二、三度一人で訪れたことはあった。その時は、懐かしさと、ヒリヒリするような痛みを感じたような気がするのだけど。
それからさらに10年位たったかな。
時間による、記憶と感情の風化のせい、とも言えるけれど、もう一つ確実なこと。
それは、今の私が、とても幸せなのだということ。
幸せというのは、こんなにも人間を鈍くするものなんだ。
裏返せば、今が幸せであればあるだけ、過去の痛みは、どうでもよくなってしまうものなのかもしれない。
かつての職場の先輩である夫と歩くことで、過去の何かを清算できるのでは、なんて密かに楽しみにしていたけれど、そんな必要も全くなかった。すでに清算は終わっていた。
人は、今しか生きられない生き物なんだ。そして、今が幸せなら過去も幸せになる。
過去に何かひっかかる感情が残っているなら、過去をいじくり回す必要もない。今の幸せを十分味わうことで、自ずと解決されてしまうものだったりするってことなんだ。