すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

正しいことを言うときは。~吉野弘詩集から1~

2014-12-20 07:27:47 | 本・映画・音楽
吉野弘さんの詩が読みたくなって自分の本棚を物色していたら、となりの夫の本棚に、『吉野弘詩集』 を発見。

いつ、買ったものだろう。うちのダンナ、こんなの読むんだ、と少し新鮮な驚き。




私のような世代が初めて吉野さんの詩に出会うのは、中学校の国語の教科書かな。

あの「夕焼け」の詩の世界に触れた時に感じた、「わー、これってなんだ…」というのが忘れられない。こんな情景、場面を、こんなに直截に汲み取って言葉にする詩人がいるのか、という衝撃。

「最後に席を替わらなかったときの娘の気持ちを説明せよ」

なんて、先生からしつこく質問された授業の様子さえ、ぼんやりと覚えている。



と、懐かしい感傷に浸りながら、ページを手繰り、お目当ての詩を探す。

あったあった。

披露宴の定番、と言ったら誰もがピンとくるかな。私もこれまで出席した披露宴で少なくとも2回くらいは聞いたことのあるこの詩。

せっかくのいい詩もお酒で顔を赤くしたおじさま達のスピーチに使われると、なんだか一気に低俗な空気を帯びた感じがして、「ヤメテー」と言いなくなったものだけど。

その中に、改めて知りたい一節があった。

「祝婚歌」



正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい




そう、これだ、これ。


これ読んで確認したかったのだ。

自分が「正しい」と思っていることを、誰かに伝えるときに躊躇する気持ちについて。

例えば、意見や考えの違う人のたちに囲まれて、ちっとも同意できない話で盛り上がっていても、私はいちいち、「それは違うんじゃない?」とか、「私はこう思うんだけどね」とは言わない。

自分が同意していないことを表明する意味で、うなづかない、くらいはするだろうけど。話に加わらないとかも。

保身の気持ちももちろん否定しないけれど、私の「正しさ」に傷つく人がいることがわかるから。そして、その傷は、「正しさ」を受け取ることを拒み、時に猛烈に反撃へと舵を切ることも知っているから。

例えば、誰かをかばうような、何かをたしなめるような「正しい」発言は、特に、そうした人たちのエゴにぶつかり、コンプレックスや罪悪感を刺激する。

「うちは、こんな被害にあったけどね」「それは理想論だよ」

なんて、鼻をピクピクされちゃうかな。そういうのが、もうひたすら面倒だと感じるようになってきた。

反論、反撃は、正直言って受けたくない。敵も、あえて作りたくない。

そういう場面になると、実は観月ありささんが演じたママ友ドラマの「斉藤さん」を思い出す。斉藤さんなら「それは間違ってる!」とスカっとやるんだろうなーなんて。ホントは、ちゃんと言うべきなのかなーと。

でも、斉藤さん的生き方はやっぱり敵を作る。争いを生む。「間違ってる」と言われて傷つかない人は少ないだろうから。

「正しい」ことは、乱暴に、強くぶつけるやり方では、きっとうまくいかないってことだ。相手の心の入り口に張り巡らされたエゴを反応させるだけで、相手の心には、魂には上手く届かない。

だから、きっと、

正しいことを言うときは
少し控えめにするほうがいい


になるんだ。

争いが苦手で、弱虫。そんな私のような人間にも、吉野弘さんの詩のこの一節は優しい。

斉藤さんにならなくていいんだよ、って聞こえる。


最近は、控えめに、傷つけないように伝えることにすら、実はもうあまりエネルギーを使いたくない。

あえて口にすることもない。ただ黙々と、自分が正しい、善いと思うことを実践したらいいんだと。そう、思うようにしている。