行ってきます・とただいま・の間。

2013,1に長男から貰った、SONY NEX-F3で撮っています。
その日の事柄と撮りたて写真で残してます。

26日の記録。

2009年12月27日 01時08分15秒 | 日記

今日は、班内の方の告別式。
昨日の通夜には主人がお手伝いで出席。

この町に主人の両親と同居するために越してきたのは18年前。
早かったですね。。
振り返れば・・ということですが、その渦中には様々なことがありました。
そのここでの出発とでもいう、ご挨拶の日になったある夏の日。
班長さんを中心に夏祭りのあと、慰労会のようなものでバーベキュー大会がありました。
班長宅の庭にバーベキューの用意が準備され賑やかなひと時。
長男5歳、次男3歳、三男1歳。主人はもともとの地元で顔見知りの方たちに囲まれでいましたが、私はその嫁として挨拶を交わしここで私の第二の人生が始まったわけです。
長男が背丈より若干高いテーブルにしこたま額をぶつけました。
泣きもせずいたのですが、そこのご主人がにこやかに優しく声を掛けてくださいました。
その時の記憶は今でもはっきりと覚えています。
その方が、70歳というお年で逝かれてしまわれました。
娘さんお2人がいらっしゃったようで始めてお会いしました。
また昨今、近所の方たちともこういう場でしか顔を合わせないという時間の無い日々を過ごしているなぁという思いがありました。

ご近所。班内は16軒。
家族がそれぞれに旅立ったり、独立したり、老夫婦であったりと各家庭の状況は様々で、ちょっと前までのように3日間2人で出るという形からはゆるやかになりました。
また自宅で葬儀を出す当時を思い起こすと、喪主・家族もそうですが、手伝いとして出る者も大変な思いをしました。
それでも、自宅からお見送りのできる形が本来の姿なのでしょうね。
ついこの前までは、地元のガス屋さんから台所用品一式を借り庭先にテントを張り、お給仕。
朝・昼・晩と食事の用意をし、お供えするものを作り、お寺・お墓に使うもの全てを手作りしていました。
それぞれに役目があり、終始滞りなくみんなの手で進めていました。
故人は、それらの知恵や地域の慣わしを心得ていて、スムーズに事が運ぶようにと尽力もされていました
今日、私ともう1人のご婦人は、火葬場まで着いていくお花係りでした。
以前は時間内、清めの席作り・給仕をし、そこでの会計も頼まれていたのですが、ただ同席するだけでした。)

しかし、奥様はそれを喜ばしく思って居なかったようで、今回のお別れを新聞には出さずに・・とのことでした。
たくさんの役をこなし、たくさんの人たちをお世話し、また関わりを持った方たちがいらしたでしょうが、奥様はその方たちの顔を見ても分からないから挨拶ができない・したくないという理由のようでした。
御通夜は、親族と班内という寂しいものだったとは、昨日の班内の人の感想でした。
今日で永遠のお別れです。
どれだけたくさんの人たちのために働いたか・・とか、どれたけの方たちとともに時間を過ごしお世話になったかとか、それに対して頭を下げることは億劫なことではないと思うのですが・・・
奥さんには奥さんの理由があるのでしょう
そう思うとただの班内である私なども涙が止まりませんでした。
亡くなってしまえば終ってしまうんだなぁという思いになりました。

そして、ふいっと、今生きている時は、いつでも会えるだろうって思っている人にも、本当に死んでしまったら会えなくなる、どうしているかも分からなくなるんだなって。
縁のあった人たちと、いつかまた会えるんじゃないか、何も話さなくても顔を見て笑顔になれば心が通うんじゃないか・・ということも、死んでしまったら終ってしまう。
感謝している気持ちも、あの時はごめんなさい・・も、言えるときに、また言える機会を作って持って、人の心に尽くしていかなくてはいけないなぁと感じる1日でした。

また、今日はびっくりすることに、高校の同級生に行き会いました。
故人の親族として斎場に入ってきた彼女を一目見るなり私は名前まで思い出しました。^^
が彼女は、私が旧姓をいっても記憶無しということでした。。
全く高校の頃のことが記憶にないらしく、私を忘れているということだけじゃなく、誰に会っても思い出すことがないと言ってました。。

初七日・四十九日等々、ご家族の方たちはしばらく忙しいでしょう。

家庭があれば、何度も経験することですが、別れはいつかは来るものですょね。
そのさよならがいつ来るかわからない。
だから、毎日、感謝しなくちゃいけないですね・・。
感謝しなくちゃいけない人がいても出来ないのがまた凡夫の所以。。

記録として。