行ってきます・とただいま・の間。

2013,1に長男から貰った、SONY NEX-F3で撮っています。
その日の事柄と撮りたて写真で残してます。

朝がくる。

2010年08月28日 06時27分24秒 | 日記

今朝も穏やかに朝がやってきました。
この同じ朝を迎えることができました。先週の今頃は、母の枕元で必死に母へ呼びかけをしているところです。
何度母の生命力に救われたことでしょう。そしてその度に、私は母へその強さを忘れる愚か者と悔いるのです。

世間では、100歳を越す方たちの生存確認がされずに生きたままでなんら処理されていない、というニュースを見るにつけ、何故? という思いしかありません。
言うにいえぬ事情もあるでしょう、本人のプライベートな部分もあったでしょう。
でも、消息を気にしない・生存を確認しない親族があるのでしょうか。
生まれる時と、逝くときは、周りの者たちの環境によって差は生じますが、その事実を受け入れることは最低限人間として当たり前のことだと思うんです。
一部では、年金を受け取り続けて詐欺罪となるという家族もいるようですね。
それだけ、近所や地域での繋がりも希薄だったのでしょうか。

それを思うと、こうして母の今は、哀しみはあれどごくごく自然のことと受け止められます。
自分の命を人に奪われたり、自分で消そうとしたり・・・
それが、病の上で、家族に心配をかけまいとして。また、家族に見放される前にと自分の意思を固めてしまう人・・・・
ある昔のネット上での知り合いが今闘病生活を強いられています。
※ ここで書くのは、彼女のブログにコメントをどうしても残せない・・から。

再婚をして幸せになるはずだった。
溺愛する息子と、やがて自分の両親と同居、しかし、父親が急逝されてから、母親と旦那さんが不仲なため別居になる。
その間も、病はどんどん進み、今の医学で手立てはなし。
キーボードを打つ指が全滅。1つの日記を書くのに2時間もの時間が必要だと。
私が母へ拒む人口呼吸器を彼女もまた、私と同年代でありながら装着の有無に悩んでいる。
瞼も重く、たとえ人口呼吸器を取り付けて息を続けていても、自分の意思を相手に伝えていけなくなる未来に、それは必要なのか・・? と。
家族の重荷になる自分の命の期限を自分で付ける。その期日を決定する日が迫られている。
その昔。ネット上で彼女の文才は素晴らしく、何十人というコミュニケーションの広場で活躍していました。
まさか・・数年でこんなことになろうだなんて誰が想像したでしょう。

ネットというこの箱から発信する個々の思いが文字になって全世界を飛び、心打たれる日記や、幸せを感じる写真や、感動する日々をつれづれに書き落とすこと。
自分をここで律することができる。顔も声も知らない方たちの励ましを受けながら、言葉の・文字の・力を受ける。
それが時として、理解の違い、思いの勘違い、嫉妬、怒り・・と感情は様々に変化していく。
昨日の友が今日は敵ということも何度か経験しました。
またそれが、顔を突き合わせていない者・架空としてしまうこのネット社会ですから、容易に相手を罵ることができる。こんなに言い放ってしまったらもう2度と顔など合わせられないだろうと思うことでも、言いきってしまう・・・
それがアラシというもの。自分のストレス発散のためか、正義感か。ろくに全ての記事を読んで相手を知り尽くした訳でもないのに、書き捨ててもう姿を見せない。
影でこっそり見ては、そのあたふたした姿をみて笑っているような・・・そんなネット社会でもある。

そんなありとあらゆることが起こる中でしか、今彼女は自分を制していられない。
コメントに励まされ、道しるべを見つけ出し、自分らしく生きようと頑張っている。
しかし・・・コメントを残したくても残せない私のような閲覧者もたくさんいるでしょう。
言葉が、薄っぺらに感じて・・・ 何を書こうが実際手を差し伸べられない。
痛みや苦しみを読んで分かったふうであっても、全く痛みは自分には感じられない。
それなのに、ただガンバレや、生きていこうなんて言えるだろうか・・・

それは・・・・目の前に居ても同じなのかもしれない・・・
人が受けている痛みを共有するなんてことはありえないのだから。
でも・・・私にはコメントを残すことはできない。

 

私のここにも、そうした思いで来てくださってる方々に、私は大きな声で、ありがとうとお返事させていただきます。
ありがとうございます!

シュウメイ菊も咲き出していますが、まだまだ暑いですね。
この年は忘れられない年になりそうです。