行ってきます・とただいま・の間。

2013,1に長男から貰った、SONY NEX-F3で撮っています。
その日の事柄と撮りたて写真で残してます。

憂いの篩。

2011年08月11日 15時03分00秒 | 日記

母の車椅子に下げていた小さな小さなぬいぐるみ・・・というか、ストラップでしょうか・・・
透析室のスタッフが時々、心優しい気遣いをしてくださいました。

今日、施設利用代金の支払日でした。

回想・・・・・・・・・・・・・

何かいろんなことが脳裏に浮かんでは消え、思い出しては、深く思い。
まるで、ハリーの中に出てくる、憂いの篩を覗き込んでいるようです。

 

自宅から送迎バスで透析に自力で通っていたのは、平成17年。
日赤病院でシャントを作ってから紹介していただいた透析専門外来。
そこで出る透析患者さん専用の昼食がまるで、劇場ででるお弁当のようだと初めは喜んでいました。
エビチリなどが出ては喜んでいました
しかし、父が亡くなってから独居生活をしていた母は、常にどこかが痛い、痛い痛い病。その頃は、歯根のない歯茎が痛いと、県外の口腔外科にも行ったり。
当時の介護保険で依頼していたヘルパーさんの手を煩わせては、仕事中であろうと時間に関係なく、私は呼び出しをくらいました。
頭が痛い、腰が痛い、歯が痛い、お腹が痛い、うんちが出ない、寒い、暑い・・・・・・・
その都度、出向いていっては、なだめ、大事ではないと言い聞かせ、帰ってきました。
私は、仕事を良い隠れ蓑にして、義父の目を気にせず、母のもとへと出かけていました。

しかし、透析を続けていくうちに、筋力は衰え、腕の力、歩く力がだんだんとなくなっていきました。
部屋の移動も手を引いても無理になる。
それでも、当時利用していたデイサービスでの、バスハイクでは、皆さんと違う食事メニューに不満を言いながらも、楽しい時間もすごしていました。

ある日。
汚れることをなんとも思わずに、持っていったシュークリームを両手で食べ始めたときは、何か・・おかしいと思いました。
便もトイレまで間に合わず、時間内では処理しきれないヘルパーさんから、汚れ物有りのメモ書きが多くなっていきました。
そして、朝から様子を見に行かなくては・・と思い、玄関を開けると、ガラス戸に頭から突っ込んでいるのを見つけました。
意識はあり、転んじゃったと申し訳なさそうに言う母が可哀想でした。
タイミングよく、透析の日、送迎のバスが来て、母は急いで病院へ行きました。
ガラスを片付けて駆けつけると、耳の後ろを数針縫って透析をしていました。
終わると、お腹が空いた・・と。ほっとすると同時に、大丈夫なんだろうか・という不安のほうが先で、医師とも相談をして、自宅にもっと近い病院を紹介してもらうことになりました。

時期を同じくして、利用していた在宅介護施設のヘルパーさんとのやり取りに不安を感じ、病院の転院とともに、施設も変更することにしました。
毎日、母のお世話に、1日何時間も来てもらっていた事に感謝をし、顔なじみのヘルパーさんやケアマネと別れました。

そして、現在の施設に移ったのでした。

やはり送迎のバスを利用して、透析に通っていましたが、さらに体力と体調は芳しくなく、透析後の血圧が下がったまま上がらず、送迎のバスに乗れなくなってきました。
週3日の午後、仕事の帰りに透析の病室まで迎えに行き、夕飯(透析用)をそこのラウンジでゆっくり取る。
そして、吐き気のある母をゆっくりと家まで乗せて帰る。
駐車場から、玄関まで、わずか20歩くらいが歩けない。
玄関も上がれなくなる。

やがて車椅子を借りて、スロープもレンタルして、家の中も車椅子の生活になる。

母は、私が帰る時間が来るのを嫌い。
19時過ぎると眠くもないのに、寝てしまうと言い、電気も消す。
そして、私は帰る。
週3度は、なんとも言えない情けない夕飯。時には、マックで終わらすような・・・・・・

当時、義父も自分の好きなものを好きなように食べていたので、ありがたかった。
しかし・・・・義母の葬儀に車椅子で来た母を見て知ってはいても、何も聞いてはこない。
私も私から言い出すことはしなかったが、様態の良くない実家のことを聞いてくることは結局最後までなかった。
冬には、白菜の心配ばかりを私に言ってくるのは、どこかの誰かとそっくり。

母は、さらに思うように生活が出来なくなると、デイサービスだけではなく、ショートステイや、ロングステイも利用していくようになる。
すると、家賃と使わなくても出る生活費と、施設利用代の二重生活になる。
父の遺族年金と母の僅かな老齢年金ではもう底を突いてくる。

その時の、ケアマネはとても親身に、また強く、私を引いて下さいました。
家を畳む・・大家さんに返す・・・という選択を。

その当時、我が家の経済状態も決してよくなく。主人のボーナスも無くなり、子供たちの高校受験や進学などの面。
たかだか数万のパートでも私が仕事をやめるわけにもいかない。
職場では、母の介護があるからと、しっかり仕事も出来ない。週3回は、透析後の母を迎えにいくため、残業も断っていた。
全てにちゃらんぽらんでした・・・、地に足の付いていない生活でした。

息子たちにも、不自由な日々を押し付けていました。
それでも、婆ちゃんを見舞うことは忘れることはありませんでした。

とうとう・・・家賃を払っていたとはいえ、実家を無くす、母の住まいを処分するときが来ました。
仕事をしながらも、1ヶ月をかけて、ゆっくり着実に、家の中を片付けました。
箱の包みもそのままのもらいもの。染みになってしまったシーツやバスタオル等・・・・・。
真新しい食器。なべ、釜、電化製品・・・・
父・母の衣類。貴重品。電話の権利書、墓の権利書。

・・・・・・私の七五三のときの晴れ着、小学校の遠足に背負ったリュックサック。高校のセーラー服。
たくさんのアルバム。
それらを1つ1つ。私がこの手で処分しました。
そして、母の所帯道具を衣類整理箱に3つ。
最後の日。廃品業者の車が来る時間までに、掃除をし、畳を雑巾がけし、綺麗に、まるで旅館のようになりました。
施設にいる母には、十分に説明をし、納得もしてくれました。
が、その瞬間を一人でいては可哀想だと次男に付き添っていてもらいました。

時を同じくして、母の妹も透析の予後が悪くその処分1日後に亡くなりました。
いまだに・・・母には告げていません。今ごろ、行き会えたでしょうか・・・・

それが平成20年3月。

母の生活は施設の中になりました。
個室にて、明るく綺麗で、いつも誰かが居る。独りで家にいるんじゃない。
寒くもなく、暑くもなく、痛いときはすぐに医師に診てもらえる。
こんな素晴らしいことは無い、ここは良いところ・・・と母に毎日言い続けました。
それでも、母は、私の家に連れて行ってくれと、もう帰ろう、とそう何度も言いました。

この数ヶ月。
頭ははっきりしていたと思う。
ただ、言うことや、私に思いを告げる機能がなくなっていただけ。

地震があり、世の中が大きく変わったけど、ここは安全で心配の無い場所・・・といい続けていました。
母の気持ちを・・・踏みにじって。

 

施設の中にしか思い出が無い・・そのような錯覚を起こしそうです。
利用代金を支払うために、何年も何百回も通ったこの道を走りながら、母を呼んでいました。

敷地内しか散歩もできず、たった数本の桜の木でお花見をし、田んぼに水が入れば、母の田舎の話をしました。
幼い頃、買ってもらった24色の色鉛筆がうれしかったことも話ました。

 

今は、父と母が二人揃って私を見ていてくれる。
私たちを見守っていてくれると信じています。