私は、あじさいの花を写真で撮らないですね~
庭に無いし、遠くから見えるあじさいにも、魅力を感じない・・。
(*≧m≦*) 何さまじゃ。
これは、数年前に携帯で撮ったもの。
見事な株でもなく、なんら特徴があるでもなく。
ただ、母の車椅子の脇で咲いていたので撮りました。
撮ったあとに気がつきました。中央に光が一杯で、まるで万華鏡のように見えました。
それを保存していました。
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静かに生きることと、活動的に生きることと、朗らかに生きることと、偲んで生きること・・・・・
自分中心に物事をすすめていけるなら、こんな良いことはないでしょう。
朝目覚めて、ちょっと朝食をとって、庭に出て、花を・蝶を・鳥を愛で。
自分の口にはいるだけの野菜をとって、その場で頬張る。
狭い部屋の掃除をすませて、コーヒーを飲みながらPCで、様々な世界へ目を走らせて。
鳴る電話の音もない、訪問してくる人もいない。
かたわらにテレビの音がしている。
お昼前に、少しの散歩。
知っている道で行き会うのは、他県のナンバーの車。
声をかけることもなく、かけられることもない。
家にもどって、好きなラーメンを食べる。
そしてまた、PCで、正しい世間を見て、間違った世間を見て、何も考えず。
怒りもなく、悲しみもなく、耐えしのぶこともなく、戦う勢いもなく、自分の声を発することもなく。
夕暮れ時。
遠い昔の笑い声を思い出し、飛んでいった鳥の数を思い出し、母を父を思い浮かべる。
テレビで笑っているのを見て、泣いているのを見て、怒っているのを見て。
幸せを感じる。
眠くなったら、ころりと休む。
畳み2畳もあれば良い。
そんな静かな生活を望んでいる。
それならば、何に生きがいを感じるのだろう。
何か活力になるものがあるだろうか。
これで良い。もう何も欲しいものはない・・と、この世に未練はない。
そう思ったとき、死は怖くないものになるんだろうか。
望みは、望んだとおりにはいかないもの。
身体が老い、思うことと、出来ることのバランスが崩れていくだろう。
人は人と関わっただけ自分に残る何かがある。
幸せをかみ締めあった人、喜びを分かち合った人、悲しみを減らしあった人、背負った荷物を交換しあった人。
それだけではない。
憎しみを与え合い、悲しみを倍にし、怒りのこぶしを隠さず、つりあげた目の記憶が残っている。
どれだけ、自分の命のなかに記憶し、刻印しているのだろう。
私の思う静かに生きたいというのは、自己中心なことなんだろう・・・・・・・
でも、私を必要としてくれる誰かがいるなら、その人のために、私の血肉を生かそう。
淡々と。