常々私は、この大宇宙の中にある生命は、数限りあるんじゃないかって思っています。
微生物から、花・鳥・人、全ての数は、決まっている。
生きてきたからには、死は誰人にも平等にやってくるゴール。
その後の話。。。
私は、貝になりたいという映画があった。
大空を飛ぶ鷲になりたいという人がいた。
強く逞しい一輪の雑草になりたいという人がいた。
次に生まれ来るときは、一国の王になりたいと思った犬がいた。
どぶ川を泳ぐ魚は、温かい水槽の中でのんびりできる金魚になりたいと思った。
人目にはつかない土の中のみみずが、今度は殻が欲しいと思った。
美しい花でも、こちらからあちらへ飛べる蝶になりたいと思った。
蝶は人に愛でられるカナリアになりたいと思った。
働き蟻は、いつかあの大木の松の木になりたいと見上げた。
皆、今度は、次は・・と、願う。
しかし、願いと因果は別物で、望みがとおるとは限らない。
罪深き人は、地獄に堕ち、針の山で足を突かれ、血肉を引きちぎられ血の海に泳ぐ。
そして、数え切れないほどの輪廻を超えても、なりたいものになれず、踏みつけられるゴキブリになるかもしれない。
誰にも悪さをせず、素直に笑顔で生ききり薔薇の花になりたいと思った人は、薔薇に。
人のため世のため、身を粉にして生きた人は、福徳溢れる人に。
ああなりたい、こうなりたいと思うのとは裏腹に、次ある自分の生命の行き所は、もう決まっているのかもしれない。
それでも、今年は桜が満開だと聞くと、桜になりたかった人が多かったんじゃないか・・と。
鮭が大量だと聞けば、大海を泳ぎたいと思ったものが多かったんじゃないか・・と。
新種が深海で発見されたときは、やっと見付けられたと苦笑いをしたい人がいたんじゃないかと。
そして、それらは、生命の姿・形を変えて生まれてきても、大宇宙では、その数に変わりはなく、変動しているだけ。
ただ・・・
もう一度、家族として一緒になりたいと思った人は、必ず出会えると信じています。
父が孫になったり、母がわが子になって生まれたり。
そして、ふっとしたしぐさで分る。
瞳の奥に大宇宙を旅してここに生まれてきてくれたことを命で感じることができる。
そんなことを良く考えます。