170715 離婚と親子 <離婚訴訟「同居母に親権」確定・・ 年100日面会提案>を読みながら
今朝も寒気で目が覚めました。で、することもないので、「日本列島の誕生」をいう本を読んでみたのですが、なかなか理解が進まず、横になったまま半分眠った状態で過ごしました。
そういえば朝のNHK番組で、各地の地域おこし的な内容を放送していましたが、ちらっと見たものの、興味を覚えました。私のブログで、地域医療を熱心に取り組んで亡くなられた医師の話をしましたが、こんどは看護師を中心とした動きでした。
その中心になっている看護師さんのやさしくかわいらしい笑顔を見て、つい見てしまいました。山の中の農村地域でしたでしょうか、医師も看護師もいないような集落だったような感じです。その中で、いつも笑顔を絶やさず、患者さんというか老齢の方々に近づくのも相手の目線より下からでした。床に膝をつけるようにして相手にほほえみかけるのですね。
これは医師ではむりかもしれませんね。こういった接し方をされると、自然に元気がでてくるのではないでしょうか。そんな病院、医院はなかなかみつけられませんね。それが自宅や集会所にやってきてくれるのですから、ありがたいことです。内容は大ざっぱにしかみていなかったので、差し引いて読んでください。
でもこの動きに、全国各地の若い看護師が聞きつけ、学ぼうという人が増えているそうなのです。多くの病院では、給料は女性としては高額だと思いますが、時間拘束が厳しく、各種機器の扱いや看護日誌を含め書類作成・管理に追われて、本来の人と人との触れあいをするいとまがないのが普通の看護師が置かれた状態ではないでしょうか。そんなとき、あらたな地域医療のあり方を前向きに、主体的に追求する姿勢は、期待したいですね。
さて、もう6時を過ぎてしまいました。今日のテーマもとくに浮かびませんので、安直に、以前取り扱った見出しの話題、そのときは「フレンドリーペアレントルール」という考え方に影響を受けたかのような、一審千葉地裁松戸支部の判決と、それを覆した東京高裁の判決について、その考えた方を中心に議論したようです(久しぶりにちらっとチェックしました)。
そのときも議論したのですが、もう少し離婚と別離した両親と子の関係について、言及してみたいなと思っていたところなので、改めの判決確定を受けて取り上げました。
ところで、私が最初に離婚後の親と子の面接交流ということに触れたのは、おそらく映画「クレイマークレイマー」だったと思うのですが、この内容はまったく覚えていません。それよりも映画「夜霧のマンハッタン」の中で、ロバートレッドフォード演じる検察官が別れた妻から子どもを預かるシーンや、彼がシャワー室で「雨に唄えば」を歌いながらタップダンスを踊り、娘が変な音が聞こえてきたといったり、朝食を黒焦げにしたりといった場面がなぜか楽しい思い出となっています。
いやこれらは古いタイプですが、その後に放映された多くの映画では、離婚後の面会交流という言葉があまり適切でないと思うほど、多種多様なあり方が劇中に登場してきます。で、思うのは、父親も母親もそれなりにうまくこなしてやっている感じです。そして子どももそういう新たな親子関係をさほど不自然と思わない中で受け入れているようにも見えるのです。むろん映画ですので、実際はどうかは別と言えば別ですが、それにしてもと思うのはわが国の場合、別れが美しくない場合が多すぎないかと思ってしまいます。
むろん別れは夫婦いずれにとっても苦しい厳しい選択ですので、その後うまく連絡したり話し合ったりということが一面、難しいことは確かです。ましてや離婚調停から裁判になって、さらに弁護士に依頼して親権を争ったりした後だと、なかなか修復が容易でないことも確かです。
でもここで一番考えてあげるべきなのは、大切な子どもです。子どもが両親の別れで心に傷を負わないよう、思いやりを持って接する姿勢こそ必要ではないでしょうか。
その場合に、面会日数とか面会方法とかも大事ですが、子どもがどうおもっているかです。子どもは親のものではないわけですね。親としては子どもと一緒にいたい、愛情を注ぎたいと思う気持ちは、DVのような例外的な場合を除き、誰もが持っているでしょう。でも面会回数が多ければよいということで、その数を増やすことや、宿泊や旅行などを提供したりすることが、子どもの成長に役立つならともかく、親の思いだけで面会交流として適切とばかりいえないと思うのです。
それに親子が別れた後の期間経過も考慮される必要があるでしょうし、子どもの精神的な成長度も考慮される必要があるでしょう。
そんなこと言っていたら、一般には母が監護し親権をもつ場合が多いとなると、父親としては子との愛情をはぐくむ機会を制約されることになり、父としても子としても望ましくないのではないかという意見もあるでしょう。
しかし、現在の多くの夫婦、父と母を見ていると、分かれた後、頻繁に面会交流することができるほどの心のゆとりがある例は少ないのではないでしょうか。むろん父と母がより賢くゆとりをもって離婚後も子どものために心地よい接触を持てる状況になれば、こういった心配はなくなるのでしょう。ただ、そういった父と母の心の備えや準備ができているかといえば、まだまだではないでしょうか。
そのため、堅苦しい面会交流権といった調停・裁判をしたり、親権を争ったり、ということがどんどん増えているわけですが、残念な事です。
親同士が争って親権を確保することや、面会交流を争って勝ち取るといったことは、子どもの将来にとってどれだけマイナスになるか計り知れないのではないでしょうか。むろん、多くは、相手が親権をとると子どもためにならないということだと思います。
親権者としてふさわしくないと思われる場合、それは子どものために闘う必要があるでしょう。その場合、面接交流の日数や方法の提供が親権者を決めるに当たり重要な要素となるといったことはあまり考えにくいと思うのです。
で、親が子どもに注ぐ愛情は、子どもと会うことを求めることではないと思うのです。むろん親権を持つ父または母が、相手方との間で、子どもとの面接交流を子どもの成長のために大事に取り扱う関係を作り上げることができれば、そのときこそ有益ですし、望ましいと思うのです。
権利だからといって、無理に面接交流を主張して決めて実行することはかえって子どもの成長や、親子の相互の関係にもいい影響を与えないおそれがあるように思うのです。
その意味では、カウンセラー的な第三者の手助けが、一定の期間、段階まで必要とされているのかもしれません。
なにかとりとめのない話なりました。一時間を過ぎたので、とりあえず終わりとします。