170722 親子の愛情 <相模原殺傷事件1年 天国でも抱っこしたい>と<認知症 祖母を孫の視点で描いた絵本>を読んで
今日は午後から3時間ほど、ある事件の関係者からヒアリングをしました。対立当事者ではない第三者的立場ですが、それでも聞き取りするのは少々疲れます。体力もなくなっているからでしょう。以前は聞き取りしながらタイピングで内容を確認してもらっていましたが、やはりそれほどの元気はありません。聞き取りだけで、疲れがどっとでてきました。
了解を得て録音しているので、忘れたら確認すればいいのですが、やはり聞き取った後少しして整理するのが一番いいのです。でも今日は疲れたせいか、簡単な整理で終わり、明日以降にすることにしました。
もう6時になろうとしているので、はやばやとブログを書き上げて帰宅しようと思っています。新聞をぱらぱらめぐっても疲れているせいか、なかなかきまりません。<伊方3号機停止認めず>という松山地裁決定は、知り合いの弁護士が団長なので、取り上げようかと思ったのですが、中身が重いので一時間で書き上げるのはきついかなと断念。
そしていきついたのは上記の2つの記事です。いずれも親子の間に通うとても深く辛く悲しいものの明日へのある種希望を抱かせる愛情を感じさせてくれました。
最初の記事<もう二度と相模原殺傷事件1年 天国でも抱っこしたい がんの父、甘えん坊の娘へ>は、親の子への愛情の深さ、強さ、強いきずなを感じさせてくれます。
障がい者施設に入所する子どもを持つ親や家族の多くは、この方と同じような思いを持っているように思います。むろん身体的・経済的虐待をする親がいることも私たちは注意深く見守っていく必要があると思います。
ただ、<相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害された事件で、35歳だった長女を奪われた神奈川県内の父親(62)が毎日新聞の取材に応じた。「娘がこんなに可愛かったことを知ってほしい」。>という父親の思いこそ、人として尊敬したいと思います。
私自身に、それほど強い気持ちがあるかはわかりません。子に何かあったら、命をかけてくらいの思いはあると思うものの、この父親ほどの気持ちを抱けるかはわかりません。
<事件からまもなく1年になるが、殺人罪などで起訴された植松聖(さとし)被告(27)への感情は湧いてこない。「娘が亡くなったことを、まだ現実として受け止められない。娘がいなくなったことと事件が、まだ結びつかない」。考え込むようにそう言った。>という言葉に、私自身はほんとの心からの愛情を感じています。
子を殺されたりしたら、その殺人犯を憎み、極刑など責任追及することが子への愛情表現として語られることが少なくない時代、私自身は万が一わが子がそんな運命にあったとしても、この父親のような気持ちを抱きそうな気がしています。
<仕事人間だった父親は49歳で早期退職してから、長女と一日中、一緒に過ごした。長女はソファに腰掛ける父親の足や肩をトントンとたたき、抱っこをせがんだ。本を読もうとすれば「かまって」とばかりにはたき落とした。夜中になると布団に潜り込んできた。
長女が食事を粗末にした時、怒ったことがある。すねて口を利いてくれなくなり、最後には折れて「ごめんね、お父さんが悪かった」と謝った。「気まぐれでわがままで、甘えん坊だった」>
この表現の中に、どれほどいとおしい存在であったかを十分に感じさせてくれます。障がいは親にとり、あるいは子にとり、家族の愛情を育むのに真の障害にはなりえないと思いたいと思っています。わが子には障がいはありませんが、仮にあったとしても、この父親・母親のようにありたいと思っています。
<父親自らは今春、がんと診断された。「もうすぐいくよ」。仏壇の前で毎朝、語り掛ける。>生はある意味、一瞬の出来事かもしれません。それを精一杯生きれば、死後は永遠の浄土かもしれません。
<思い出が詰まった自宅での1人暮らしは、つらい。洗面所で歯磨きをすると、後ろから抱きついてきた長女を思い出す。トイレにも、リビングにも……。施設に預けた自分を責めた。少しずつ現実を受け止めようと生きてきたが、ふとした瞬間に「もういないんだ」という現実が去来し、おえつしてしまう。
今年3月、がんと診断されたが、延命治療は選択していない。>
そして<父親は「最後に抱っこしてあげられなかった。早く会って、抱っこしてあげたいなあ」と、ぽつりと漏らした。>
この父親の生き方は私に切々と何かを訴えてきます。人はどのように生き、どのように死を迎えるか、改めて家族というもの、社会というもの、そして私を見つめ直しています。
もう一つの記事<認知症祖母を孫の視点で描いた絵本 ベストセラー>は、<優しかったばあばが「忘れてしまう」病気になって、ぼくは逃げ出した--。認知症になった祖母を孫の男の子の視点で描いた絵本「ばあばは、だいじょうぶ」(童心社、1404円)が幅広い年代の反響を呼び、刊行半年で10万部を超えるベストセラーになっている。>
<自身の体験を元に作品を手がけた作家の楠章子さん(43)=大阪市=は「子ども時代の私のように、大切な人の変化に戸惑っている人に手に取ってほしい」と話す。>
おそらく作家は、自分自身の体験をそのまま自分の言葉で表すにはきつかったのかもしれません。孫の目線で見れば、自らも癒やされ、母親ともうまく接することができると思ったのではないでしょうか。
自分の母親を出すのはなるべく控えたいですが、認知症で私のこともわからなくなっているのですが、自宅での生活を続けています。兄が世話しているのですが、周りの人が母親と接すると癒やされるというのです。90歳を過ぎ今なお耳は確かで食事も普通に食べ活発に話もすることができ、ただ、兄以外は誰が誰だかほとんどわからなくなっているのです。
以前はよく徘徊して交番のおまわりさんのやっかいになっていたようですが、おまわりさんも母には癒やされるというのです。なぜかは私は身近にいないせいかわかりません。ただ、優しい物言いと、謙虚さだけは認知症になっても残っているようで、それがいい印象を与えるのでしょうか。といっても私が誰だかわからない、電話では話もできなくなったのは寂しい限りです。
とはいえ認知症は、過去のひどい経験や悪い思い出もなくしてしまうのでしょうか。誰に対しても幼児のようににこにことして優しく対応するようです。それが施設に入るとそうでなくなるように思うのです。家族の中で世話をしていると(むろんさまざまな虐待例もありますが)、上記の絵本で描かれているように、素直な親子間の愛情が無意識的に伝わって、認知症患者も幼児と同じように自然にその愛情に包まれて心豊かになっていくのではないでしょうか。そんな認知症患者だと、接する人たちも自然に幼児の笑顔を見るように心が和み、癒やされるのではと思ってしまいます。
筆者の<楠さんは「母は人に頼ること、優しくする気持ちを教えてくれた。物語が、優しさを引き出すきっかけになればうれしい」と語る。>
認知症になることにより、家族が真の愛情に気づく、あるいは自分の優しい気持ちを呼び起こすことになる、そういうことを期待できるいい話ですね。
まだ一時間経っていませんが、心に強い刺激を受けたこともあり、今日はこの辺で終わりとします。