170721 生と死の狭間最前線 <『2025年…超高齢時代へ 現役医師が語る終末期』>などを見て思う
昨夜、録画していたプライムニュース7月19日の<『2025年…超高齢時代へ 現役医師が語る終末期』>を見ました。できれば見ていない方もホームページにアクセスすれば、かなりの部分を見ることができますので、非常に参考になると思います。
この中で、医師で日本尊厳死協会副理事長である長尾和宏氏の言葉は、みずから終末期医療に従事して、緩和治療を行っている経験からの言葉は刺激的でした。
医療は延命することが目的といいつつ、延命産業だとも表現されています。その上で、延命は逆に縮命になっているともいうのです。点滴しない方が長生きするというのです。
そして人は、最後まで意識があるというのです。でも多くの患者がほとんど意識がないか、薄くなった状態でなくなるのではというと、それは過剰治療の結果だというのです。延命治療のために胃瘻、点滴などをすることで、患者は苦しむ、痛む、それで鎮静する薬剤を投与する結果、意識が薄れたり、なくなっていくというのです。
そういった延命措置を講じなければ、自然に枯れていき、次第に水分補給もわずかとなり、口にほんの少し含ませるだけで足りるというのです。そして「人生は脱水の旅」とも表現されたのです。生まれたときは水分80%、次第に少なくなって死ぬときは40%くらいになるというのです。自然に枯れていくと、わずかな水分だけでさほど苦しむこともなくすこしでも長くいきていくことができるというのです。
必要以上の栄養・水分補給のために、症状が悪化する、延命を妨げるというのです。
私自身、このブログで生と死について何度も繰り返し書いてきました。いや、このブログ自身が私なりのエンディングノートと思っています。世に言う、葬式や墓、延命措置をどうするかとか、財産の処分といったことは、わたしにとっては些末なことです。むろん死に方をどうかんがえるか、いつどのようにおこなうかは重要であり、核心ですが、それ以上に、私という存在自体が存在するのか否かを考えることこそ、根本だと思っています。
これまで墓地を持つかどうかや散骨をするかどうかはその人自身の判断で決めることいった運動を始めたり、尊厳死協会の末端での活動もしてきました。それがリビングウィルの普及よりも終末期を自宅で安らかにという運動に展開することにも関わってきました。
むろん仕事上、公正証書遺言の作成に関与することは多数ありました。死ぬ直前に病院まで公証人に来てもらいやり遂げたこともあります。よく言われる死相が現れているような方もいらっしゃいました。それほど財産処分が大事なことだということも、ある意味では普通の人以上に、身近に感じてきました。
しかしながら、わたしにとってはいずれも重要なことではない、ただ、個人の生存を全うする責任上、こういったことの決定はしておく必要があると思っています。そういうこともあり30年以上前から、なんどか遺言書は書き換えてきました。しかし、遺言書は、書いてみるとよくわかるのですが、なんとも味気ないものです。葬式をどうするとか、墓か散骨かとか、その前の延命措置や献体をどうするとか、財産処分をどうするといったことは責任上必要であっても、自由な意思が仮に存在するとすれば、そして自分という個人が存在するとすれば、より重要何かがあると思っていま彷徨を続けているのです。
とはいえ、プライムニュースで取り上げたテーマで、長尾医師、そして清水哲郎・岩手保健医療大学学長の話は、やはり参考になりました。医療分野に従事する人の中では、現在行われている延命措置の無意味さを共有していること、自然に枯れていくことこそ大事だという認識が広がりつつあることは、その限りでは私の考え方が異質な少数派でなくなりつつあることを知り、少し安心しました。
それでも緩和医療を充実する必要性は両氏とも重視していたかと思います。私は以前にも書きましたが、今のところ空海の死に方が理想です。西行のように美しい歌を残し、その意思で最後を迎えたことも尊敬に値すると思っています。両者とも、見事なエンディングノートをそれまでに書き上げ、作り上げて、最後を迎えたように思うのです。そこには医療という存在は介在しなくてもよいのです。うまくいけば痛みも我慢できる程度に鍛錬しておけばいいのかもしれません。空海も西行も、そのようなことは心して修行に励んできたのではないかと思います。私がいまさらできるとは思いませんが、どうすれば可能かを追求したいという気持ちはあります。
とはいえ、私も場合によっては救急医療のお世話になるかもしれません。そのとき長尾氏のような医師が増えているということは安心です。長尾氏によると、救急医療の結果亡くなった場合、当然ながら検視を含め警察の捜査が関与することになり、とても「平穏死」とならなくなるわけです。それで長尾氏は救急連絡をしないですむよう、医師として看取りを行っているそうです。私も看取りを行っていた医師と一緒に活動をしていましたので、その場は知らなくてもその大変さの一端はわかります。
とはいえ、医師も家族も、患者が平穏な状態で枯れていき、安らかに死を迎えることで、その疲れも癒やされるのかもしれません。
さて、現在の医療がどのようなスタンスで終末期に対応しているか、参考となるのはガイドラインかもしれません。清水氏が引用していたり、議論していた一部をここに取り上げておきます。私もいつか気になったとき、このブログの引用を参考にしようかと思います。
<終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン厚労省 H19.5>
<高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン 人工的水分・栄養補給の導入を中心として 日本老年医学会>
長尾氏が積極的に進めていたリビングウィル、昔協会専務理事とも話したことがありますが、これを書くことでとても心がやすらぎ、笑顔を絶やさない方でした。そういう効果があることも、当時はまだ医療機関もあまり尊重していなかった中であってさえ、人を元気にする文書だと思っています。
最後に、直接上記で述べた問題と関係しませんが、毎日朝刊記事<明日がみえますか第5部 死と向き合う/5止 「死後も独り」は寂しい>は、ある意味切実さを感じさせます。
<「誰もお骨を拾ってくれないし、入る墓もない」。>ということが少なくない方の心の不安となっていることがわかります。
でも空海の有名な言葉
生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
は、人の真実であり、実体ではないかと思うのです。骨を拾うということも歴史的には浅いものです。仏教本来のなすことでもないでしょう。以前にもイギリスの火葬・散骨事情を紹介する中で指摘しましたが、拾骨という観念すらないのですね。火葬規則にも遺骨を受け取る義務を設けておらず、取りに来なかった遺骨は散骨にしたりして火葬場で処理するのです(あまりいい言葉ではありませんね)。骨とか頭髪、爪とか、そういうものにこだわることが、どこからきた観念でしょうか。わたしは、ある観念なり考え方を選択するか否かは、それぞれが自由な意思で、決定すればいいと思っています。
また、墓参という習わしはわが国では古くからありますが(といっていつ頃確立したかは私の不勉強で知らないというか、以前うかがった気がしますが、忘れただけかもしれません)、せいぜい3代くらいの墓参ではないでしょうか。その家族の結びつきというのも顔を知った中であればともか曾祖父とかそれ以上になると、なかなか自然な感情がわいてこないのではないでしょうか。
そもそも墓自体、そこに亡くなった方の何かがあるのでしょうか。遺骨がある、遺体がある(後者は割合早く土と一体になることがある事件で土葬の土を掘り返したことからわかりました)といっても、その人自体がほんとにそこにあるのでしょうか。千の風ではないですか、そこにはないと私は思っています。その人を思う人の心の中にあると思うのです。
そう思ってくれる人を人生で作れなかったら、空海の言葉こそ、私は頼りにして死ねるのではないかと思うのです。
あっちこっち話が飛んでしまうのはいつものことですのでご勘弁を。そろそろ一時間を優に超えてしまいそうなので、今日はこの辺で終わりとします。