たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

高野山と商い <継続は力なり わかやま100年企業の挑戦 珠数屋四郎兵衛>などを読みながら+補足

2018-10-15 | 空海と高野山

181015 高野山と商い <継続は力なり わかやま100年企業の挑戦 珠数屋四郎兵衛>などを読みながら

 

一年以上調停で審理した事案が今日、ようやく成立したものの、2時間近くいろいろな事情でかかりました。10年以上紛糾していた事案ですので、これで平穏裏に収まってくれればいいのですが、相手方が最後にうそぶいていましたが、今後火種が再びあがるかは相手方次第かもしれません。法的解決も万全に終わるとも限りません。裁判所を出た後も依頼者と話があり、いま事務所に帰ってきたところです。

 

そんな分けで今日のお題はと考える余裕もなく、毎日記事で興味深いのがあったので、これを30分くらいで書き上げられればと思っています。

 

今朝の毎日は<継続は力なりわかやま100年企業の挑戦 珠数屋四郎兵衛 堅実さ、守り続けて 仏様への感謝、宗派問わず /和歌山>と、長い歴史のある企業を紹介するシリーズで、和歌山一歴史のある企業、高野山の珠数屋四郎兵衛が登場しました。

 

同記事の企業情報によれば、以下の通り、1712年創業とのことです。

<総本山金剛峯寺のすぐ近くにある珠数屋四郎兵衛(高野町)は、十二代目を数える。15歳で独立を許された初代四郎兵衛が、諸国行商の後に60歳で開業した。以来、300年以上にわたり数珠の販売を続けてきた。>

 

すごい歴史ですね。珠数屋四郎兵衛のお店はなんどか訪れ、仏具を購入したことがあり、ほんとに立派な店構えです。

 

ただ、ここではたと不思議に思ったのです。高野山は僧侶である学侶、行人、そして一部の聖がいるだけで、まさに宗教都市ではなかったのかと。私は以前、現在もお店を営んでいる人から、明治に入って高野山金剛峯寺から借地して商売の店を出し、戦前は商売人も女人禁制で妻は隠れていたとかという話を伺ったことがあります。なにせ地主ですし、天下の真言宗金剛峯寺本山ですから頭が上がりませんね。

 

でも、珠数屋四郎兵衛さんは商売をすでに江戸中期には創業されていたのですから、商売ができていたのですね。ただ、<諸国行商の後に60歳で開業した>というのですから、もしかしたら聖をされていたのかもしれません。高野聖は平安時代から全国行脚をして御大師様信仰を広げた(まさに弘法大師の手足となったといえましょうか)わけですが、高野山からは一切生活費ももらっていなかったのでしょう。自らはさまざまなことをして日々の生活を送らないといけなかったと思います。数珠や仏具などの販売はもちろん、納骨を進めたり葬式仏教を広めたりもしていたのかもしれません。

 

たしか平安時代初期には寺社による金貸し業が始まっていて、高野山もまた寺社経営の一つになっていたとされていますし、戦国時代には根来寺、粉河寺と連携して一大金融業を展開していたようですので、相当な資金力もあったのだと思います。

 

刀狩りで武器を取り上げられるまでは、武器製造から販売、さらには傭兵提供まで軍事産業を行っていたと言われています。刀狩り後は、平穏な寺社として高野山はあらゆる宗派を超えて仏教の聖地のように、全国各地から納骨を希望したり、観光的に訪問する人が増えていったのではないかと思います。

 

そのため、江戸時代の中葉には、信仰だけでなく観光的な意味も含めて訪れる人が後を絶たなくなっていたのかと思います。伊勢参りの先駆け的に、高野詣でがいくつもの高野街道を作るほど盛んになったのではないでしょうか。

 

そういう多くの人のため、珠数屋四郎兵衛さんのようなお店が江戸時代には相当生まれていたのかもしれません。とくに創業の約20年前には高野元禄裁許により行人が大勢追放され、行人が支配していた寺も1000か寺以上がつぶされたわけですから、空き家、空き地も多かったかもしれません。

 

<店の中に入ると、正面の壁に「諸宗御珠数調進所」と彫られた立派な木板が掛かっている。「どこの宗派の数珠でもこしらえますよ、という趣旨です。真言宗は考え方がゆったりとしていますから」。平田永一社長(61)が、こちらを見て言った。2~3代前までは山上に十数軒の店があり、共同で吉野の木を育てて自分たちで数珠を作っていたそうだ。今は、職人の残る京都から仕入れている。>

 

店の中にある木板「諸宗御珠数調進所がいいですね。宗派を問わず数珠をこしらえるというのですね。そもそも高野聖が宗派を問わない、真言宗にこだわらないというか、教義よりも御大師様を祈って広めていたとされています。これはおそらく最近のことではなく、江戸時代からではないかと思うのですが、勝手な解釈なら失礼しました。

 

実際、数珠の本来の目的から次第にファッション的な意味も込めて普及しているようです。

<数珠は本来、お経を読む回数を数えるための仏具で、正式な数珠は108個の玉で作られているという。一つずつの玉に煩悩をつかさどる仏様が宿っていて、数珠が煩悩を引き受けてくれると言われている。>

 

アクセサリーのように手首につけている人をよく見かけますが、なんと先々代の発案なんですね。さすがと思います。<ブレスレットのようにして手首に巻いている人を見かける。「考案したのは実は祖父なんですよ。玉にゴムを通した腕輪式で、伸縮数珠と言います。昭和30年代の後半だったかなあ? 大ヒットしました」。>とのこと。

 

最後に長続きする秘訣は、<『商売と屏風(びょうぶ)は広げ過ぎたらあかん』>、<堅実であり続けること>とのこと。ごもっともです。

 

ちょうど30分でした。おしまい。また明日。

補足

ちょっと気になって<紀伊国名所図会>(文化8年・1811年)発刊の高野山を見ましたが、<蓮花谷六軒店 珠数屋>が大きな店舗で商売をやっている様子が描かれていました。これが珠数屋四郎兵衛さんのお店と一致するかは調べないと分かりません。でもすごい繁盛ぶり感じさせてくれます。

 

 


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